ホームページの中にあるお問い合わせホームからメールが届く。
たいていは授業や講演の依頼だがたまに取材の申し込みなどもあったりする。
このホームページを始めたのは「見えない世界を伝えたい」がテーマなのだから、
そのどれもがとても有難いことだ。
そして時々ブログへの感想やメッセージが届くこともある。
自分で書いたものは読まないくせに届いたメッセージは何度も読み返すのが常だ。
何度も読み返すとひとつひとつの言葉が僕の肩をたたいてくれることもあるし、
行間にかくれていたやさしさを見つけてうれしくなることもある。
氏名を確認しても出会った場所を教えてもらっても僕の記憶はほとんど反応しない。
画像のない中での出会いでは仕方ないことなのだろう。
見えなくなって間もない頃はこの記憶力を悲観し
相手に対しても申し訳ないという気持ちが大きかった。
いつの頃からかそれも見えないことの副産物と納得するようになった。
そしてひとつひとつの言葉は僕の記憶がどうのこうのというレベルのものではなく、
間違いなく今の僕へのエールなのだ。
ホームページを介して贈る言葉と送られる言葉、
その言葉には性別も年齢も国籍もない。
人間のあたたかさだけが宿っている。
人間って本当に素敵です。
(2015年5月25日)
言葉
ピンク色の空
仕事帰りの電車の中、
ボランティアさんは夕暮れの空をピンク色と表現した。
僕は空のある方を見上げた。
頭の中一杯にピンク色が広がった。
平穏でやさしい気持ちになった。
もう見ることはないということは理解している。
もう見ることのない人生を特別に悲観したりすることもないし、
かと言って、障害を乗り越えたなんて自覚もない。
ただ仕方ない、どうしようもないとだけ思っている。
その気持ちとなんとか付き合えるようになったのだろう。
そして日常の何でもない場面で、
ふと前後の脈絡もなく思い出す色や風景。
それは願いの裏返しなのだろうか。
子供の頃、手に入れられないものを思う時、
そこには寂しさや口惜しさがあったのに、
今はそれはない。
それどころか、
思い出した瞬間さえ愛おしいと感じる。
見ることはなくても、
いつまでも思い出せる自分でありたい。
そんな人生でありたい。
(2015年5月21日)
尾道
朝食はのぞみのワゴンサービスのコーヒーとワッフルですませた。
福山でこだまに乗り継いで8時過ぎには尾道に着いた。
視覚障害者のサポートをするガイドヘルパーの研修にお招きいただいたのだ。
一泊二日でとの要望だったが
どうしても時間が取れずに日帰りにしてもらったので
自宅を6時前に出発して22時半に帰宅という強行軍になってしまった。
時々こういうことがあっても対応していっているので、
体力はあるということなのだろう。
僕達のことを伝える時、
僕達だけが適任とは思っていないけれど、
僕達が関わらないところで僕達のことについて取り組まれていくのはあまりいいこと
ではないと感じている。
だからこういう実際に福祉に関わる人達の研修会にも意欲的に関わっている。
そしていつもだいたい充実感みたいなものを感じている。
一期一会、今回もたくさんの人と出会った。
言葉をやりとりするだけでなく、
笑顔も交換し握手もした。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
それぞれが同じ未来を見つめる時間となった。
「今度はゆっくり旅行で来てくださいね。」
駅まで送ってくださったスタッフの言葉はやさしさに溢れていた。
またいつかきっと訪れてみたいな。
海を渡ってきた爽やかな風を感じながら心からそう思った。
(2015年5月19日)
まだおっちゃんのつもり
エレベーターは階段やエスカレーターなどのような段差はないので乗るのは簡単なの
だけれど、
ドアの開閉のタイミングや他の人との距離感には気を使う。
白杖で前方を防御しながらゆっくり動くのがコツだ。
今日も電車の乗り換えのために駅にあるエレベーターを待っていた。
僕以外にも数人の方が待っておられる雰囲気だった。
お母さんに連れられた幼い子供の笑い声も聞こえていた。
子供の笑い声は不思議なものでなんとなくその辺りの空気を柔らかくしていた。
エレベーターが到着してドアが開く音がした。
降りてこられた人達の気配がなくなったタイミングで、
「どうぞ乗ってください。」
若い女性の声がした。
「ありがとうございます。」
僕は安心して喜んで乗った。
たった数秒の個室の中でさっきの幼い子供の声がした。
「ママはおじいちゃんとおともだちなの?」
僕に声をかけてくださった若い女性が幼い子供のお母さんだったようだ。
お母さんは何も返事をしなかった。
エレベーターがホーム階に着いてドアが開いた。
一足先に降りた僕の後ろでお母さんが子供に話す声が聞こえた。
「おっちゃんはね、おメメが悪いのよ。だからどうぞって教えてあげたのよ。
白い杖はおメメが悪いってしるしなの。」
おじいちゃんはおっちゃんに訂正されていた。
ちょっと安心して歩き出した僕に、
とどめの言葉が追いかけてきた。
「ふうん、おメメが悪いおじいちゃんなのかぁ。」
幼い子供には僕が気になった部分は伝わらなかったらしい。
素敵な親子でした。
100点満点と言いたいところだけど、
90点にしておきます。
おじいちゃんにはもうちょっと時間があると確信している僕のプライドです。
でも、子供って正直って言うからなぁ。
これが続くようになったら無駄な抵抗はやめてあきらめることにします。
(2015年5月13日)
大学生
大学で僕が受け持っている講座は選択制だ。
希望する学生達だけが受講する。
一人でも多くの学生達に僕達の思いを伝えたいという気持ちはあるのだけれど
新年度が始まって受講登録が終わらないと
実際に受講する学生の数は判らない。
ドキドキしながらヒヤヒヤしながら新年度を迎える。
有難いことに今年度も学生達が集まってくれた。
どうしてこの講座を受講しようと思ったかを尋ねてみた。
18歳の若者達の気取らない飾らない素直な言葉がならんだ。
先輩に勧められた。
ゼミの先生に紹介された。
今まで見えない人と出会ったことがなかったから興味を持った。
盲導犬を見たことがあって興味があった。
障害のある人の役に立ちたいと思った。
当事者の声を聞いてみたいと考えた。
福祉の仕事につくかどうかは別にして、
サポートのできる人になりたいと思った。
以前駅で困っておられた白杖の人にサポートができなくて、
自分に悔しいと感じた。
誰かを助けられる人になりたい。
ひとりひとりの言葉が僕の胸に沁みわたった。
堂々とメッセージを発信している若者達をまぶしく感じた。
僕が18歳だった頃、
障害のある人とすれ違った時何を感じていたのだろうか。
感じないふりをしていたのだろうか。
そう思うと時代は少しずつ動いているのかもしれない。
見える人も見えない人も見えにくい人も共に笑顔で暮らせる未来に向かって
学生達と一緒に一歩でも前に進みたい。
(2015年5月9日)
子供の日
昨年末に父が他界して半年が過ぎた。
時は急ぐこともなく止まることもなく淡々と流れていく。
仏壇に手を合わせた後母と二人でお茶を飲む。
それぞれが歩いてきた人生のいくつかの岐路を懐かしそうに振り返る。
静かに振り返る。
親という立場で子供という立場で振り返る。
母は見えなくなった息子を眺めるのにも少しは慣れてくれたようだ。
記憶は突然20年ほど前を映し出す。
母は夜、布団の中で何度も泣いたらしい。
僕が失明した頃だ。
その頃の僕には父や母の思いに寄り添う余裕はなかった。
やっと言葉にできる日がきてくれたことにほんの少し安堵する。
時折流れる5月の風に乗せた言葉を父の遺影がそっと見つめる。
「かあちゃん、一日でも長く生きていてね。
ただ生きてくれているだけでいいから。」
58歳になった馬鹿息子が88歳の母に恥しげもなく懇願する。
「それはわからんなぁ。一日一日の積み重ねの先に寿命があるからなあ」
微笑んだ母が子供をさとすようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
(2015年5月5日)
3割
この国の一部の人達はもうゴールデンウィークに突入しているのだけれど、
学校はカレンダー通りだ。
僕は午前中は福祉専門学校、午後は龍谷大学での講義だった。
朝8時過ぎに家を出て18時半に帰宅、
バス、阪急、地下鉄、近鉄、京阪、
10あまりの公共交通機関を乗り継いだことになる。
今日の講義では、
ペアになった学生達の片方がアイマスクを装着してサポートの方法を実習した。
学校の建物内での実習だったけれど何人もの学生が恐怖を感じていたようだった。
僕も見えなくなって訓練を受けていた頃、
確かにどこかで恐怖心との闘いをしていた。
あれから18年くらい経過したけれど、
今でも恐怖心が0になったことはない。
いつでも心の中にある恐怖心と仲良くお付き合いしながらの外出だ。
それでも外出するのは社会に参加したいという本能みたいなものなのだろう。
だからこそ、いろいろな場面でのサポートの声はただ助かるというだけでなく、
心までがほっこりする。
今日も京阪丹波橋駅で迷いかけてる僕に女性が声をかけてくださった。
以前その地域の小学校での講演を子供達と一緒に聞いていてくださった保護者の方だ
った。
反対側のホームの電車に乗るとおっしゃっていたので、
僕のサポートをしたためにきっと一本遅れてしまっただろう。
それでも彼女はしっかりと手伝ってくださって、そして笑顔だった。
阪急河原町の駅では二人の女性が声をかけてくださった。
学生時代に僕の講義を受講していた人達で、
二人とも今は福祉の現場で働いているとのことだった。
笑顔で握手をして別れた。
最後に桂駅に到着してバスターミナルへ移動していたら、
女子高校生が声をかけてくれた。
小学校での福祉授業で僕の話を聞いてくれたのだそうだ。
妹も話を聞いたとのことだった。
中学生の頃も駅で僕を見かけてサポートしてくれたらしい。
「今度サポートしてもらう時はきっと大学生になっているね。」
妹と二人分のありがとうカードを手渡した僕に彼女は素敵に微笑んだ。
もちろんその時間、僕の心の中の恐怖心は眠っていた。
どんなに設備が整い、機械の音声ガイダンスが流れる中でも、
恐怖心が眠ることはあり得ない。
未来はやっぱり人間同士が支え合う社会の向こうにあるのだろう。
それにしても10回の移動場面で3割のサポート、
野球だったらなかなかの数字なんだけどなぁ。
(2015年5月1日)
邑久光明園
30歳代の後半だっただろうか、
寝る前にニュースステーションという報道番組を見るのが日課だった。
そのニュースの中でハンセン病という病気を知り、
長年国が隔離政策を実施していたことも知った。
そして患者さん達の辿った過酷な運命に衝撃を覚えた。
その場所を訪ねてみたい、
患者さんに直接話を聞いてみたいと思いながら、
時間は流れて、いつのまにか思いも風化していった。
まさか実際にそこに行ける日があるとは、
そこで生きてきた人と話せる日があるとは思わなかった。
邑久光明園でボランティア活動を続けている友人達に誘われたのは
僕にとってはまさに感謝の一言だった。
JRで相生まで行き、そこから先は友人達の仲間の人が車を出してくださった。
乗り心地のいい車で潮風に乗ってのドライブだった。
途中のドライブインでは海の香に包まれながら、
大好きなタコメシをほおばった。
僕自身の一日が穏やかな平和な春の中に存在していた。
人間回復の橋と名付けられた橋を渡って邑久光明園に着いた。
小さな島にある小さな橋を渡り切ったところで、
僕の心はなぜか重たくなっていた。
見てはいけないものを見るような、
聞いてはいけないことを聞くような、
そんな感じがあったのかもしれない。
患者さんは被害者で不幸な人というイメージが出来上がっていた。
邑久光明園では少年時代から60年余りそこで暮らしてこられた男性と、
2時間ほどのんびりとお茶を飲みながら過ごした。
いろんな話をした。
いろんな話を聞いた。
「貴方をここに強制的に連れてきた日本という国をどうおもいますか?」
僕は意を決して尋ねてみた。
彼は静かに笑っていた。
帰る間際、丘の上にある小さな建物に案内してくださった。
その島から逃げようとした人が収容された独房だった。
僕はその独房に入り、白杖を使って大きさなどを確認した。
僕の脳は何も反応しなくなっていた。
独房から出たら、
春風が僕の頬を撫でて通り過ぎた。
ツツジの花が咲いていた。
ウグイスの鳴き声も聞こえた。
やっぱりそこにも穏やかな平和な春があった。
車に乗り込み、島を離れようとした僕に、
「松永さーん!」
彼が大きな声で手を振ってくださった。
僕も手を振った。
「ありがとうございます。」
思いっきり手を振った。
僕達はどちらも笑顔だった。
どんな時でも人は幸せに向かって生きていくのだ。
生き抜いていくのだ。
久しぶりに出会った人生の先輩、
ありがとうございました。
僕も幸せに向かって頑張ります。
(2015年4月27日)
魔法の言葉
8時10分、京都駅の地下鉄中央改札口で待ち合わせだった。
通勤通学の時間帯とぶつかってしまい、
電車も途中の乗換駅も混雑していた。
僕はホーム一杯に膨らんだ人波の中、
点字ブロックを白杖で確かめながら恐る恐る歩き始めた。
「肘を持ってください。」
突然僕と同世代くらいの男性の声がした。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は瞬時に彼の肘を持たせてもらい、
ホームからエスカレーター、そして改札口へと安全にそして安心して移動した。
改札口で彼と別れて、そこから地下鉄を乗り継いで京都駅へ向かった。
サポートがあると時間もだいぶ節約できる。
彼のお蔭で予定の時間よりも早く到着できた。
友達を待つ間、のんびりと穏やかな気持ちだった。
助けられるということは、
ただ助かるということだけではなくて、
心までがあたたかくなる。
そして、ありがとうございますという言葉が自然に出てくる。
ありがとうございますを口にするたびに、
僕自身もやさしくなれるような気がしている。
「ありがとうございます。」
魔法の言葉かもしれない。
(2015年4月23日)
予感
今日は宇治市視覚障害者協会の総会だった。
僕は京都府全体の視覚障害者協会の役員をしているので、
毎年府下の視覚障害者協会のいくつかの総会で挨拶をしたりするのだ。
一応来賓という扱いになるので慣れないネクタイ姿で出かける。
今朝もバタバタして準備をした。
ハンカチや携帯電話や財布などの確認をした時、
小銭入れが膨らんで重くなっているのに気付いた。
いつもは気にも留めないことなのに変なことに気づくなと思ったが、
時間もなかったのでそのままポケットに押し込んだ。
雨も降っていたし早めに出かけようという気持ちがあった。
久しぶりの宇治市では仲間達と交流し楽しい時間を過ごした。
総会の後は宇治川の近くで春の風に吹かれた。
平等院鳳凰堂の参道では宇治茶を煎じる香りに包まれて歩いた。
忙しい合間だったけどのんびりとしたひとときだった。
満足して帰路に着き、桂駅に着いたのは17時だった。
改札口を出てしばらく歩いたところで
「あしなが募金が立っています。」
同行していたサポーターが教えてくれた。
その瞬間今朝の小銭入れの状態の記憶が蘇って愕然とした。
僕は見えている頃児童福祉に携わっていた。
失明して退職したけれども
ささやかでもいいから子供達を応援したいという気持ちはあった。
でも失明後しばらくは無職だったし、
社会復帰したその後の人生でも自由業を選択してしまったので
高所得者にはならなかった。
自ら選んだ人生で納得はしているのだけれど
貧しさとはすっかり友達になってしまった。
それに元々意思も弱いタイプだし持久力もない。
それで悩んだり悔いたりしないために二つのことを決めた。
貧困で教育を受けられないフィリピンの小学生を毎年一人だけ学校に行かせること、
あしなが育英会の募金に遭遇したら小銭入れの中身をすべて寄付すること、
この二つを一生続けること。
これならなんとか僕にもできそうだし続けられる。
小銭入れにコインがなかったら千円札1枚というところまで決めていた。
それなのに、朝の小銭入れの状態を思い出して一瞬たじろいだ。
このたじろぎがいかにも小市民の僕らしい。
気合を入れて小銭入れのチャックを開けて、
すべてのコインをサポーターの手のひらに乗せた。
サポーターはわざわざ数えて4千円近くあると教えてくれた。
募金箱を持っていた青年に
「やられたなぁ。どうして今日立ってたの!」
僕は訳の判らない独り言をつぶやきながら
コインを募金箱に入れた。
うなだれそうになっている僕の後ろ姿に向かって
「ありがとうございます。」
青年のはっきりとした大きな声が追いかけてきた。
心のこもった声だった。
単純な僕はその声だけで元気を取り戻した。
それにしても不思議な予感ってあるんだな。
もしこの予感が宝くじ売り場の前で発揮できたら、
今度は札束を寄付します。
きっとします。
いやたぶんします。
おそらく、ひょっとしたらします。
いやいや、するかもしれません。
不安になってきたので、当たってから決めます。
(2015年4月19日)