法事

6時に家を出て7時過ぎののぞみに乗車した。
新横浜で横浜線に乗り換えて八王子、
もう一回中央線に乗り換えて西八王子に着いたのは10時半だった。
のぞみのパーサーを含めて6人の駅員さんにサポートしてもらったことになる。
見えない僕が一人で国内を移動できるのは、
駅員さん達のサポートがあるからなのだ。
有難いことだと思う。
改札口には従弟のひでおちゃんが待っていてくれた。
僕達はタクシーで叔母さんの一周忌のあるお寺へ向かった。
一周忌、初盆、納骨の儀式が終わると、
場所を変えて会食だった。
40年ぶりに再会したけいすけ叔父さん、従弟のたかひろちゃん、その家族、
まさこ叔母さん一家などいわゆる親族が集った。
従妹のみわちゃんの小学校6年生の娘が
さりげなく僕の食事の手伝いをしてくれたりしてうれしかった。
遠い昔の思い出が蘇ったり、
新しい発見に驚いたり、
和やかなひとときはあっという間に過ぎていった。
それぞれの地域でそれぞれの暮らしをしている親族が、
ただ親族というだけで暖かな気持ちでお互いを認め合っていた。
住職の法話に出てきた「縁」という言葉が
説得力を持って存在していた。
おばさんが再会させてくださったのだなと思ったら、
会場を見つめるおばさんの遺影が微笑んだ。
あらためて、心から、おばさんに感謝した。
(2015年8月9日)

絵日記

大津港の前の広場では
夏のイベントが開催されていた。
たくさんの露店が並び、売り子さん達の掛け声が響いていた。
ステージからは音楽も聞こえていた。
真っ青な空にはギラギラの太陽が燃えていた。
琵琶湖にはたくさんの白い帆のヨットが浮かび、
琵琶湖を渡ってきた風が少しだけの涼を会場に届けていた。
僕はダラダラ汗をかきながら、
友人から手渡されたかき氷をつついた。
イチゴ味のかき氷はイチゴの味ではなかったけれど、
懐かしい甘さがした。
子供の頃、かき氷を食べた後、
赤や青に染まったベロを見せ合って笑い転げたことを思い出した。
クレパスで絵日記を描きたくなった。
青色で空を描き赤色で太陽を描き、
水色で琵琶湖を描き白色でヨットの帆を描き・・・。
想像しただけでワクワクした。
今度画用紙とクレパスを買ってこようかな。
見えなくなった頃、絵も画像も写真も意味がないと思っていたけれど、
今日は素直に描いてみたいと思った。
(2015年8月4日)

紫蘇ジュース

京都の今日の最高気温は38度だったそうだ。
この季節の僕のリュックサックには顔を拭くための冷却シートと、
熱中症予防のためのお茶のペットボトルが入っている。
一日の活動を終えて帰宅する頃にはまさに青息吐息の状態だ。
年齢的にも体力の低下も始まっているのだろう。
帰宅して必ずパソコンと向かい合う。
メールチェックもあるし事務仕事もある。
冷房はあまり好きではないので居室では扇風機をつけて仕事をしている。
今日もいつものようにパソコンの仕事を終え、
友人からもらった紫蘇ジュースを飲んだ。
ガラスのコップに紫蘇ジュースの原液を半分近く入れ、
水道の水を足してから冷蔵庫の氷を数個入れる。
見える人はスコップみたいな道具で扱うのだろうが、
僕は素手で氷をつかんでコップに入れる。
これが一番確実な方法だ。
それからスプーンでゆっくりかき回す。
ガラスの中の氷の音が清涼感を引き立てる。
そしていい塩梅で薄まった紫蘇ジュースの色を思い浮かべる。
濃い紫から薄い紫まで、
記憶の色が変化していく。
唇でガラスのコップを感じながらジュースをのどに流し込む。
本当に爽やかだ。
プレゼントしてくれた友人のこれまた爽やかな声が蘇る。
疲れた身体と心がそっと微笑む。
暑さを楽しむ気持ちも大切だなと感じたら、
引き出しの奥に片づけていた風鈴を思い出した。
早速窓際につるしたら、
ほんのちょっとだけ囁いてくれた。
よし、明日も頑張るぞとなんとなく思って、
残りの紫蘇ジュースを飲みほした。
(2015年8月1日)

夏の空

日帰りの東京の翌日はどうしても身体が重く感じられる。
疲労があるのだろう。
しかも今日は予定が集中してしまって、
10時から17時までに四つの会議に出席しなければならないのだった。
僕は気を引き締めて余裕を持っていつもより5分ほど早く家を出た。
団地を出てバス停へ向かった。
横断歩道まで来た時、
昨夜大切な書類をリュックサックに入れようと思いながら寝てしまったことを思い出
した。
愕然とした。
取りに戻ったらバスには間に合わない。
僕はうなだれながら家まで帰り、
書類をリュックサックに詰め込んでから悔しい気持ちでタクシーを呼んだ。
ほどなくタクシーが到着した。
僕は行先の桂駅を告げて、重たい気分と身体を座席に投げ出した。
予想外の出費は余計に気分を重たくしていた。
沈黙の時間だけが流れていた。
突然、運転手さんは空を僕に伝えた。
「雲の形がはっきりしてきましたね。夏の空ですよ。」
「そうですか。夏の空ですか。」
うれしそうに言葉を返した僕に、
「今日も暑い夏の一日になりますね。気をつけて行ってくださいね。」
まるで友達に話しかけるような言葉の響きだった。
うれしくなった。
タクシーを降りて歩き始めた時、
何かしら足取りは軽く感じられた。
今日も頑張ろうと思った。
(2015年7月26日)

いつもより少し早めの時刻に家を出ていつもの道を歩いてバス停に向かう。
いつもの靴を履いていつもの白杖で歩く。
いつもと違うのは少しきつい雨ということ。
子供の頃から雨は嫌いじゃない。
雨の音も雨の匂いもなんとなく好きだ。
びしょ濡れが好きなわけではないけれど、
少々濡れても気にはならない。
でも目が見えない僕にとって、
傘をさした状態で普通にまっすぐ歩くということはとても難しくなる。
右手で白杖を持っているから左手で傘を持つ。
傘をさしている時、左手だけが曲がった状態になる。
それだけでバランスはおかしくなる。
自分ではまっすぐ歩いているつもりなのに、
右側に寄り過ぎて壁にぶつかり、
左に修正して歩き始めればガードレールにぶつかる。
酔っ払いみたいにあっちへこっちへフラフラしながら歩いているのだろう。
おまけに距離感もなくなる。
いつものバス停を探すのにいつもの何倍ものエネルギーと時間を使う。
目が見えたらなんて泣き言は言わないけれど、
なんとかならないかなと立ちすくんで雨空とにらめっこをする。
わざと傘をずらして雨を顔で受け止めてみる。
雨粒が顔に当たる。
やっぱり雨、嫌いじゃない。
(2015年7月22日)

ラジオ番組のご案内

7月19日(日)19時半〜20時
7月26日(日)7時半〜8時
NHK第二放送「視覚障害ナビラジオ」という番組で、
僕のインタビューが放送されます。
町家カフェさわさわの運営についての話などですが、
聞いていただければうれしいです。
宜しくお願い致します。
(2015年7月17日)

ママ

今年最初のセミの鳴き声に気づいて
気持ちはそちらに向いていたのだろう。
団地から歩道に出る付近で
縁石につまずいてよろけてしまった。
技術的には白杖の振幅が少なかったということだ。
この程度のことは日常茶飯事で
ひっくり返ったりケガをするようなことはない。
いや、今はない。
もう少し年をとったら咄嗟の判断力や運動能力は低下していくのだから
気をつけなくてはと思っている。
よろけた瞬間
「だいじょうぶですか?」
若い女性の声がした。
僕は御礼を言って道の方向を教えてもらった。
そしてその会話の流れから、
いつもの交差点を渡るサポートをお願いした。
見えない僕が単独で社会に参加するには、
このお願いをしっかりできるかが大きなポイントなのだ。
見える頃から努力は苦手で、
他力本願のお願い上手だったことが生きてきたのかもしれない。
短所が長所に変化することもあるのだ。
彼女の肘を借りて歩きながら、
彼女が小学校か中学校の時に僕の講演を聞いてくれていたのが判った。
僕の名前も憶えていてくれた。
「じゃあ、学生さんですか?もう働いているのですか?」
「今、反対の手で赤ちゃんを抱っこしています。」
彼女は笑った。
見えなくなっていろいろな活動をするようになって、
もう18年くらいの時が流れたのだ。
出会った時子供だった人達が大人になり、
パパやママになっている人もいるのだ。
僕自身もそれだけ年齢を重ねたということになる。
「貴女がこうしてサポートができるということは、その赤ちゃんもきっとできる人に
なりますね。」
横断歩道を渡り切ったところで僕は彼女に感謝を伝えた。
「この辺りに住んでいますから、また声をかけますね。」
赤ちゃんを抱っこした彼女が微笑んだ。
僕はすがすがしい気持ちでまた白杖で歩き始めた。
そしてひょっとしたら、よろけたのは偶然ではなくて、
いつまでも若い気持ちでいる過信のせいかもしれないとちょっとだけ不安も感じた。
しばらくは自己観察してみます。
(2015年7月15日)

神輿洗い

楽しい食事の時間だった。
それぞれの場所でそれぞれの人生を歩いてきた僕達は、
たまたまの縁で一緒に食事をした。
生きるということにつながるような深い話から、
ネイルアートの爪に描かれたあどけない幸せの話まで、
話題はつきなかった。
笑顔での食事は一層おいしく感じられた。
店を出てフラフラと八坂神社の方へ向かった。
食後の散歩ついでに夜の静かな境内を抜けて四条通りへ出るつもりだった。
境内の入口付近からごった返していた。
人波にのまれるように僕達は境内に吸い込まれた。
祇園祭の神輿洗いの神事の日だったのだ。
夜の境内をたいまつの火や担ぎ手の掛け声が動き回った。
熱気の中に僕達は立ちすくんだ。
何百年も前から繰り返されてきたこのお祭りが圧倒的な存在感で空気を支配した。
何百年か先にまたこのメンバーで食事してみたいな。
その時は皆の顔を見れたらいいな。
僕は空を見上げて一人微笑んだ。
(2015年7月11日)

七夕

昭和56年、母が鹿児島から京都へ出てきたのは54歳の時だった。
大きな病気をしてそれまでの生活が継続できなくなった中で、
とりあえず息子の近くに行こうということだった。
24歳だった息子は大きな決心の意味は深くは判らないまま、
成りゆきに任せた感じで父と母を迎えた。
両親を少しでも楽にさせてあげたいと通り一遍の思いはあったのだけれど、
ただ流れるように日々の暮らしをつむいでいった。
ほとんど何もできないまま時間は過ぎていった。
それどころか息子は40歳で失明して、
多くの心配や迷惑をかけることになってしまった。
勿論申し訳ないという気持ちはあったのだけれど、
それを表現することも差し控えた。
父と母との京都での暮らし、淡々と流れていった。
33年目の冬、父は旅立った。
残された母のために一番いいのは何なのか、
答えを探すのはそんなに難しいことではなかった。
鹿児島で暮らす妹の家に引っ越すという提案に、
母は素直にうなずいた。
出発の朝、妹に連れられて母はタクシーに乗り込んだ。
88歳の母のために車いすも準備された。
タクシーの中の母に向かって僕は手を振った。
母も僕に向かって手を振った。
タクシードライバーは気を効かせてドアをスライドしてくださった。
「かあちゃん、がんばってね。」
親離れの出来ていない息子はろくな言葉も探せなかった。
ただいつまでも手を振った。
走り去ったタクシーの音を耳で追いながら、
何の脈絡もなく、
今日が七夕なのを思い出した。
何故だか七夕は雨が似合う。
母の新しい出発は、
58歳になっている僕にとってもまた次の旅立ちとなることを実感した。
(2015年7月7日)

タコ

僕は元々タコが好きだ。
おいしいタコに出会うとちょっと幸せな気分になる。
先日、新鮮でおいしいタコが出た料理屋さんで半夏生の話題となった。
その料理屋のおかみさんから、
半夏生のいわれが説明してあるメールが今日届いた。
田植えの稲がタコの足のようにしっかりと根付きますように、
お米がタコの吸盤のようにたくさん付きますようにとの願いがこめられているとのこ
とだ。
農耕民族のこの国の先人達が
日々の暮らしの祈りから始めたことなのだろう。
若い頃あまり興味がなかったような文化を素敵だと思えるようになった。
それを知ることに喜びを感じるようにもなった。
知るということが単純に知識という意味でなく、
おいしいタコが噛めば噛むほど味わい深くなる感覚に似ている。
メールを幾度か読み返して言葉を噛みしめながら、
見たことのないおかみさんの笑顔が見えそうな気にもなった。
(2015年7月5日)