日帰りの東京の翌日はどうしても身体が重く感じられる。
疲労があるのだろう。
しかも今日は予定が集中してしまって、
10時から17時までに四つの会議に出席しなければならないのだった。
僕は気を引き締めて余裕を持っていつもより5分ほど早く家を出た。
団地を出てバス停へ向かった。
横断歩道まで来た時、
昨夜大切な書類をリュックサックに入れようと思いながら寝てしまったことを思い出
した。
愕然とした。
取りに戻ったらバスには間に合わない。
僕はうなだれながら家まで帰り、
書類をリュックサックに詰め込んでから悔しい気持ちでタクシーを呼んだ。
ほどなくタクシーが到着した。
僕は行先の桂駅を告げて、重たい気分と身体を座席に投げ出した。
予想外の出費は余計に気分を重たくしていた。
沈黙の時間だけが流れていた。
突然、運転手さんは空を僕に伝えた。
「雲の形がはっきりしてきましたね。夏の空ですよ。」
「そうですか。夏の空ですか。」
うれしそうに言葉を返した僕に、
「今日も暑い夏の一日になりますね。気をつけて行ってくださいね。」
まるで友達に話しかけるような言葉の響きだった。
うれしくなった。
タクシーを降りて歩き始めた時、
何かしら足取りは軽く感じられた。
今日も頑張ろうと思った。
(2015年7月26日)
夏の空
雨
いつもより少し早めの時刻に家を出ていつもの道を歩いてバス停に向かう。
いつもの靴を履いていつもの白杖で歩く。
いつもと違うのは少しきつい雨ということ。
子供の頃から雨は嫌いじゃない。
雨の音も雨の匂いもなんとなく好きだ。
びしょ濡れが好きなわけではないけれど、
少々濡れても気にはならない。
でも目が見えない僕にとって、
傘をさした状態で普通にまっすぐ歩くということはとても難しくなる。
右手で白杖を持っているから左手で傘を持つ。
傘をさしている時、左手だけが曲がった状態になる。
それだけでバランスはおかしくなる。
自分ではまっすぐ歩いているつもりなのに、
右側に寄り過ぎて壁にぶつかり、
左に修正して歩き始めればガードレールにぶつかる。
酔っ払いみたいにあっちへこっちへフラフラしながら歩いているのだろう。
おまけに距離感もなくなる。
いつものバス停を探すのにいつもの何倍ものエネルギーと時間を使う。
目が見えたらなんて泣き言は言わないけれど、
なんとかならないかなと立ちすくんで雨空とにらめっこをする。
わざと傘をずらして雨を顔で受け止めてみる。
雨粒が顔に当たる。
やっぱり雨、嫌いじゃない。
(2015年7月22日)
ラジオ番組のご案内
7月19日(日)19時半〜20時
7月26日(日)7時半〜8時
NHK第二放送「視覚障害ナビラジオ」という番組で、
僕のインタビューが放送されます。
町家カフェさわさわの運営についての話などですが、
聞いていただければうれしいです。
宜しくお願い致します。
(2015年7月17日)
ママ
今年最初のセミの鳴き声に気づいて
気持ちはそちらに向いていたのだろう。
団地から歩道に出る付近で
縁石につまずいてよろけてしまった。
技術的には白杖の振幅が少なかったということだ。
この程度のことは日常茶飯事で
ひっくり返ったりケガをするようなことはない。
いや、今はない。
もう少し年をとったら咄嗟の判断力や運動能力は低下していくのだから
気をつけなくてはと思っている。
よろけた瞬間
「だいじょうぶですか?」
若い女性の声がした。
僕は御礼を言って道の方向を教えてもらった。
そしてその会話の流れから、
いつもの交差点を渡るサポートをお願いした。
見えない僕が単独で社会に参加するには、
このお願いをしっかりできるかが大きなポイントなのだ。
見える頃から努力は苦手で、
他力本願のお願い上手だったことが生きてきたのかもしれない。
短所が長所に変化することもあるのだ。
彼女の肘を借りて歩きながら、
彼女が小学校か中学校の時に僕の講演を聞いてくれていたのが判った。
僕の名前も憶えていてくれた。
「じゃあ、学生さんですか?もう働いているのですか?」
「今、反対の手で赤ちゃんを抱っこしています。」
彼女は笑った。
見えなくなっていろいろな活動をするようになって、
もう18年くらいの時が流れたのだ。
出会った時子供だった人達が大人になり、
パパやママになっている人もいるのだ。
僕自身もそれだけ年齢を重ねたということになる。
「貴女がこうしてサポートができるということは、その赤ちゃんもきっとできる人に
なりますね。」
横断歩道を渡り切ったところで僕は彼女に感謝を伝えた。
「この辺りに住んでいますから、また声をかけますね。」
赤ちゃんを抱っこした彼女が微笑んだ。
僕はすがすがしい気持ちでまた白杖で歩き始めた。
そしてひょっとしたら、よろけたのは偶然ではなくて、
いつまでも若い気持ちでいる過信のせいかもしれないとちょっとだけ不安も感じた。
しばらくは自己観察してみます。
(2015年7月15日)
神輿洗い
楽しい食事の時間だった。
それぞれの場所でそれぞれの人生を歩いてきた僕達は、
たまたまの縁で一緒に食事をした。
生きるということにつながるような深い話から、
ネイルアートの爪に描かれたあどけない幸せの話まで、
話題はつきなかった。
笑顔での食事は一層おいしく感じられた。
店を出てフラフラと八坂神社の方へ向かった。
食後の散歩ついでに夜の静かな境内を抜けて四条通りへ出るつもりだった。
境内の入口付近からごった返していた。
人波にのまれるように僕達は境内に吸い込まれた。
祇園祭の神輿洗いの神事の日だったのだ。
夜の境内をたいまつの火や担ぎ手の掛け声が動き回った。
熱気の中に僕達は立ちすくんだ。
何百年も前から繰り返されてきたこのお祭りが圧倒的な存在感で空気を支配した。
何百年か先にまたこのメンバーで食事してみたいな。
その時は皆の顔を見れたらいいな。
僕は空を見上げて一人微笑んだ。
(2015年7月11日)
七夕
昭和56年、母が鹿児島から京都へ出てきたのは54歳の時だった。
大きな病気をしてそれまでの生活が継続できなくなった中で、
とりあえず息子の近くに行こうということだった。
24歳だった息子は大きな決心の意味は深くは判らないまま、
成りゆきに任せた感じで父と母を迎えた。
両親を少しでも楽にさせてあげたいと通り一遍の思いはあったのだけれど、
ただ流れるように日々の暮らしをつむいでいった。
ほとんど何もできないまま時間は過ぎていった。
それどころか息子は40歳で失明して、
多くの心配や迷惑をかけることになってしまった。
勿論申し訳ないという気持ちはあったのだけれど、
それを表現することも差し控えた。
父と母との京都での暮らし、淡々と流れていった。
33年目の冬、父は旅立った。
残された母のために一番いいのは何なのか、
答えを探すのはそんなに難しいことではなかった。
鹿児島で暮らす妹の家に引っ越すという提案に、
母は素直にうなずいた。
出発の朝、妹に連れられて母はタクシーに乗り込んだ。
88歳の母のために車いすも準備された。
タクシーの中の母に向かって僕は手を振った。
母も僕に向かって手を振った。
タクシードライバーは気を効かせてドアをスライドしてくださった。
「かあちゃん、がんばってね。」
親離れの出来ていない息子はろくな言葉も探せなかった。
ただいつまでも手を振った。
走り去ったタクシーの音を耳で追いながら、
何の脈絡もなく、
今日が七夕なのを思い出した。
何故だか七夕は雨が似合う。
母の新しい出発は、
58歳になっている僕にとってもまた次の旅立ちとなることを実感した。
(2015年7月7日)
タコ
僕は元々タコが好きだ。
おいしいタコに出会うとちょっと幸せな気分になる。
先日、新鮮でおいしいタコが出た料理屋さんで半夏生の話題となった。
その料理屋のおかみさんから、
半夏生のいわれが説明してあるメールが今日届いた。
田植えの稲がタコの足のようにしっかりと根付きますように、
お米がタコの吸盤のようにたくさん付きますようにとの願いがこめられているとのこ
とだ。
農耕民族のこの国の先人達が
日々の暮らしの祈りから始めたことなのだろう。
若い頃あまり興味がなかったような文化を素敵だと思えるようになった。
それを知ることに喜びを感じるようにもなった。
知るということが単純に知識という意味でなく、
おいしいタコが噛めば噛むほど味わい深くなる感覚に似ている。
メールを幾度か読み返して言葉を噛みしめながら、
見たことのないおかみさんの笑顔が見えそうな気にもなった。
(2015年7月5日)
仙台
1978年、21歳の夏だった。
ラジオから流れた青葉城恋歌を聞いて仙台へ行ってみたくなった。
京都駅から鈍行列車に乗り込んだ。
大学生だった僕はお金はなかったが時間だけはあった。
途中の駅で仮眠をとりながらの一人旅だった。
どれくらいの時間がかかったかも憶えていない。
車窓からの風景を見たり、
地元の乗客の方言を聞いて楽しんだりして時を過ごしたと思う。
パソコンも携帯電話もない時代だったのだから、
退屈になったら文庫本を読んだりしていたのだろう。
仙台駅へ着いた時ホームには青葉城恋歌のメロディが流れていた。
それだけで幸せだった。
満ち足りた心のまま青葉城址を尋ね広瀬川を眺めた。
それから足を伸ばして松島や瑞巌寺を散策した。
宿泊施設に泊まるような余裕はなかったので、
夜はパンをかじりながら駅の待合室などで過ごした。
生きる意味なんてまだまだ考えてもいなかったはずなのに
幸せの探し方は判っていたのかもしれない。
37年ぶりの仙台、記憶にある風景を確かめることはできなくなってしまっていた。
幸せの探し方があの頃よりも特別に上手になったわけでもない。
でも、生きている意味はきっとたくさん学んできたのだろう。
松島の浜辺に建つ震災の記念碑を触りながら、
そこに佇んでいられる自分に幸せを感じた。
あの風景を眺めてから37年という時間、
生きてこられたことにただただ深く感謝した。
(2015年7月1日)
福島にて
視覚障害リハビリテーション研究発表大会が福島市で開催された。
昨年は京都市で開催されたので僕も主催者側として関わった大会だ。
1年以上前からの検討会議、準備、当日と目まぐるしい日々だったことが懐かしく思
い出された。
僕自身はたいしたことはできなかったのだけれど、
大会が日本中の視覚障害の人の幸せにつながるようにと願いながら取り組んだ。
あれから1年の歳月が流れた。
大学などの研究者、ドクターや視能訓練士などの医療関係者、相談員や歩行訓練士な
どの専門家、
それぞれの研究発表に耳を傾けながら、
またひとつ進んだことを感じた。
そしてしみじみと有難いと思った。
こういう人達のお蔭で
僕が今参加できる社会があるのだ。
僕は見えない人間という立場で、
僕にできることを少しだけれど頑張っていきたい。
(2015年6月30日)
歩数
木曜日・7,874
金曜日・2,155
土曜日・5,633
日曜日・193
月曜日・6,823
火曜日・10,087
水曜日・7,259
僕がこの一週間に歩いた歩数だ。
金曜日は午後からボランティアさんの車で動いたから少ないし、
日曜日は久しぶりの休日で家から一歩も出なかったからこんな数字となった。
携帯電話に歩数計がセットされていて、
いつの頃からか日々の歩数を気にするようになった。
一日に5千歩から7千歩くらいの日が多い。
週に1日くらい1万歩を超える日もある。
健脚とまではいかないが元気に暮らしているということにはなるのだろう。
目が少しずつ見えなくなっていった頃、
まだ白杖も持たずにいた頃、
ほんの数メートル歩くのにエネルギーを要した。
ほとんど見えなくなっている目で必死に見ようとしていた。
恐怖心もあった。
そして失敗して他の通行人にぶつかったり、
地面に置いてあるものにつまずいて転んだりした。
歩くという行動は悲しみや口惜しさの中にあった。
あれから18年、そんな感情は消えた。
きっと白杖を持った僕は右往左往しながら時にはヨタヨタと歩いているのだろう。
不格好なのかもしれない。
18年の間に僕はその僕を受け入れられるようになった。
このカッコつけの僕が不格好な自分をとても好きになった。
自分の足で一人で歩く自由がとてもうれしかったのだろう。
風を感じながら、
季節のささやきに耳を澄ませながら、
やさしい人との出会いに感謝しながら、
これからも一歩一歩歩いていきたい。
ずっとずっと歩いていきたい。
(2015年6月25日)