意地悪ばあさん

竹田駅のバスターミナルでバスを待っていた。
突然横から声がした。
「間違ってたらごめんやけど。あんた洛西に住んでた人やなぁ。」
彼女は懐かしい友達に再会したような感じで話をされた。
僕が2年前まで住んでいた京都市西京区洛西ニュータウンの人だった。
年齢はおいくつくらいだろうか、
僕よりはだいぶ年上かもしれない。
見かけなくなったから心配していたとおっしゃった。
僕は2年前に滋賀県に引っ越したことを説明した。
それでも京都市内での仕事などは続けているから今日も竹田まできたことを話した。
「あんたは凄いなぁ。目が見えへんのにそうやって一人で出かけるんやからなぁ。
こんなところまで一人でくるんやから凄いわ。私と同じや。」
僕は笑いながら相槌を打った。
「洛西でもようあんたを見かけたで。」
彼女はどこで見かけたかをいくつも話してくださった。
「ケガせんようにといつも思ってた。元気で会えてほんまにうれしいわ。」
彼女は思うがままに話をされた。
洛西で会った時もそうだったのを思い出した。
ストレートな言葉には遠慮もなかった。
飾らない言葉が並んだ。
ひとつひとつがぬくもりのある言葉だと感じた。
「私だけちゃうで。みんなあんたを見てはったと思うで。」
僕は長年暮らした洛西を久しぶりに思い出した。
若い頃から暮らしてた。
暮らし始めた頃はちゃんと見えてた。
最後に観た景色もきっとそこなのだろう。
たくさんの人に見守られながら生きてきたのだ。
40年くらい暮らしたのだから、第二の故郷だったのは間違いない。
「この世じゃもう最後かもしれん。元気でな。ケガしたらあかんで。」
彼女はそう言って去っていかれた。
僕はふと昔テレビで見た意地悪ばあさんを思い出した。
言動には厳しさがあったがやさしい心の持ち主として記憶している。
「あの世でもまた会いましょうよ。」
僕はまた笑いながら彼女の背中に返した。
あの世では見えるかもしれない。
その時は彼女の顔を見てみたいと思った。
(2024年6月28日)

小舟

電車を降りた場所がたまたまエスカレーターの近くだった。
どうすべきか考える間もなく人波に飲み込まれた。
その人波の中で女性とやりとりがあった。
どういうやりとりをしたか憶えていない。
とにかく僕は彼女の肘を持たせてもらった。
それから彼女の後ろに付いてエスカレーターに乗った。
御礼を伝える僕に彼女が言った。
「私も視覚障害者です。」
その声にも語り口にもやさしさが感じられた。
彼女は弱視の状態なのだろう。
彼女の目がどれくらい見えているのか、どの部分が見えているのか、それは分からな
い。
彼女の目の状態が固定しているのか、僕のような進行性の病気なのかも分からない。
ひょっとしたらケガや脳腫瘍などかもしれない。
間違いないのは全盲の僕よりは見えているということだ。
そして、一般の人よりも見えていないということも事実だ。
人波の中で僕に気づきサポートの声をかけてくれたのはその彼女だった。
それ以外に僕達は会話はしなかった。
改札口まで彼女はサポートしてくれた。
僕達は流れの速い大きな川を下る小舟のようだった。
不思議と安心した。
何か特別な喜びを感じたのは何故だろう。
あれこれ考えようとしたが答えは出そうになかった。
僕は考えることを辞めた。
答えがないこともあっていいと思った。
でも間違いなく本物の幸せだった。
(2024年6月23日)

あじさい

よく降った。
雨上がりの空を感じながら庭を歩いた。
あじさいの花を見たいと思ったのだ。
そんなに広い庭ではないからだいたいの場所は分かっている。
手を前に差し出してそろりそろりと歩く。
迷うことなく到着。
我ながら方向感覚の良さを実感する。
どや顔でつい微笑んでしまう。
あじさいの大きな花をいくつも確認できた。
活き活きと存在している。
僕はその花を包み込むように両方の掌でそっと触る。
ちょっとだけ息をとめて掌の感覚に集中する。
僕のどや顔は消えて、その姿に感謝の笑顔になる。
あじさいはやっぱり雨が好きなんだなと思う。
色はピンクらしい。
手の甲に当たった葉の緑いろも鮮やかに蘇る。
まだ色を覚えていてくれている脳にありがとうと言いたくなる。
それから空を眺める
(2024年6月19日)

フランスでは

JRは信号の不具合などで遅れることが多い。
営業範囲が広いから影響も広域になるのかもしれない。
この予定外が起こると僕は大変だ。
今朝もそれに巻き込まれてしまった。
通勤時間帯だったのでホームで電車を待つ人がどんどん増えていった。
いつもとは違う緊張感があった。
20分遅れの電車はまさにすし詰め状態だった。
僕は白杖を握りしめてその流れに入った。
なんとか乗車したが手すりを探す余裕はなかった。
どこも掴む場所がない状態でずっと立っているのは本当に難しい。
電車がカーブしたり減速したり、幾度も身体が揺れ動いた。
やっとの思いで乗換駅に着いた。
点字ブロックを探して歩き始めた。
次の電車も混んでいるかもしれないと憂鬱を感じながら移動していた。
「お手伝いしましょうか?」
若い男性の声だった。
僕は喜んで彼の肘を持った。
途中までは同じ経路と分かったので、僕達はいろいろな会話をしながら歩いた。
点字ブロックの話になり、それが日本で生まれたものだと僕は説明した。
そしてその恩恵を受けていることも伝えた。
彼はそれが素晴らしいと納得しつつもふと漏らした。
「僕はしばらくフランスで暮らした経験があります。点字ブロックは確かにありませんでした。でも、周囲の人達が手伝うのが普通でした。」
とても意味のある言葉だと僕は感じた。
点字ブロック、転落防護柵、とても有難いしもっと増えて欲しい。
でも、もし周囲の人が普通にサポートしてくださるならなくてもいいのかもしれない
と思った。
「白杖の人を見かけたら、とりあえず声はかけるようにしています。
そして必要だったらお手伝いすることにしています。」
彼の落ち着いた口調が彼の飾らない日常を映し出していた。
自然体だった。
こういう若者が少しずつ増えてきていると感じるのはグローバルな社会になってきて
いるということなのだろう。
未来が楽しみだ。
(2024年6月14日)

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子供さんとお父さん

先日50歳台の視覚障害者男性二人と歓談した。
二人とも全盲で基本的には白杖を使っての単独歩行をしている。
アクティブな人達だ。
僕を含めたこの3人に共通するのは自分で空席を探すことは無理なので電車の入り口
の手すりを持って立っているという日々だ。
その電車で座れる確率を尋ねたら二人とも10回に1回くらいとの答えだった。
僕は20回に1回くらいだ。
この差は声をかけやすい顔なのかどうかとのやりとりになったが答えはでなかった。
僕は見えている頃からイケメンと言われたことは一度もない。
それがそのまま年を重ねているのだからきっとどうしようもないのだと思う。
でもこれは仕方のないことだ。
単独での外出の機会、電車に乗車する回数が圧倒的に違うからその差になるのかもし
れないと知人がフォローしてくれた。
この一週間に出かけたのは6日間、忙しかった。
愛用の日傘を落として紛失したり、運も下降していた時期だったのかもしれない。
単独で電車に乗ったのは28回、すべて座れなかった。
そして日曜日の帰路、最後に乗車した電車は山科から比叡山坂本までのJRだった。
乗車してすぐに入り口の手すりを掴んだ。
背中の補助席から子供さんとお父さんの声が聞こえた。
子供さんの声はまだ幼かった。
僕はリュックサックが邪魔になってはいけないと思って少しだけ移動した。
「座られますか?」
お父さんが声をかけてくださった。
僕は座らせてもらうことにした。
ただ、動きは僕にしては下手になってしまった。
子供さんの場所を勘違いして逆に動こうとしてしまったらしい。
子供さんの上に座ろうとしてしまったのだ。
気がつかれたお父さんがフォローしてくださった。
僕はごめんなさいと言いながら子供さんの横に並んで座った。
それからずっと子供さんは無言だった。
せっかくの親子の楽しいひとときの邪魔をしたような気がして申し訳なかった。
子供さんが怖い体験とならないようにと祈った。
僕達はたまたま同じ駅で下車した。
お父さんがエレベーターまでのサポートも申し出てくださったが丁寧にお断りした。
子供さんをこれ以上怖がらせてはいけないと思ったからだ。
僕は再度感謝をお伝えして別れた。
きっと子供さんは僕が何者だったかをお父さんに尋ねるのだろう。
いつかお父さんの行動をかっこいいと知る日がくる。
そう願う。
子供さんには申し訳なかったが、僕の気持ちは爽やかになっていた。
(2024年6月10日)

僕にできること

ひょんなことで出会う。
時々ある。
最近も二人に出会った。
どちらも50歳台の男性、緑内障でだいぶ見づらくなっておられた。
個別にそれぞれの方とお会いした。
文字を読むと言う当たり前のことが難しくなってきておられた。
外出が大変になってきておられた。
そこには27年前の僕がいた。
できていた事ができなくなってくる。
できないことを数え始める。
挫折感を感じながら呆然とした。
社会から取り残されていくような孤独感、息を吸うことも吐くこともしんどかった。
そして何も見えなくなったらという恐怖感に包まれた。
僕は僕の知っていることを少しでも伝えたいと思ってしまう。
無意識に応援してしまう。
必死になって応援してしまう。
ひょっとしたら、今はそっとしてあげるのがいいのかもしれない。
でもつい必死になって話しかける僕がいる。
27年前の僕に僕は話しかけているのかもしれない。
「大丈夫です。」
脈絡のない意味不明の言葉が口元からこぼれる。
そして僕に問いかける。
僕にできることって何だろう。
(2024年6月8日)

目覚め

日中の戸外、お日様の光を熱で感じることは時々ある。
顔や頭に直接当たる時などはよく感じる。
光の熱量は大きいのだろう。
熱は皮膚感覚で分かるが光は目での確認だ。
それは僕にはどうしようもない。
光を感じて目覚めるということはできなくなってしまった。
ぐっすり眠って瞼をくすぐる光で目覚める。
思い出せば、あの瞬間は幸せのひとつだったと思う。
それを失ってしまったのはちょっと悔しい。
でもないものねだりしても仕方ない。
だから僕は朝の始まりを時計で管理している。
目覚めるとグーグルホームに尋ねる。
「オッケーグーグル、今何時?」
今朝は6時23分だった。
7時間くらい眠ったらしい。
久しぶりに熟睡した。
トイレにも行かずに眠り続けたということになる。
疲れが貯まっていたことを実感した。
目が覚めても動き出そうとはしなかった。
休日で出かける予定がないのが理由だったが、目覚めの幸せを感じたからだろう。
まだ寝ぼけている頭の中に短いセンテンスが蘇った。
「全力で応援します。」
学生から届いたメールにあったものだ。
言葉が脳の中でゆっくりとほぐれていった。
短い言葉にはやさしさがあった。
説明文も修飾語もない言葉なのに力さえ感じた。
そして受け取った僕は光で目覚めた時のような気持ちになった。
微睡を愛おしくさえ感じた。
そんな言葉を使える人に僕もなれればと思う。
なりたいと思う。
(2024年6月3日)

同行援護養成研修

広島県尾道市での同行援護養成研修、二日目の朝は土砂降りの雨だった。
お隣の岡山県では大雨警報も出たらしかった。
警報が出れば戸外での実習を中止しなければいけない。
祈るような気持ちで朝のコーヒータイムを過ごした。
9時前、受講生の皆さんが続々と到着された。
雨は止まなかったが小降りにはなっていた。
簡単なオリエンテーションを済ませて僕達は出発した。
受講生は二人一組で外を歩く。
一人はアイマスクを装着して視覚障害者役だ。
ガイドヘルパー役の人の肘を持って歩く。
あちこちにある段差を伝え、坂道を上り下りし、右折したり左折したりしながら道を
歩く。
横断歩道も渡るし、階段やエスカレーターにも挑戦だ。
傘を指して水たまりをよけながらなので普通よりハードルも高い。
視覚障害者役の人の安全を確保しながら不安を与えないようにしなければいけない。
最後の決め手は信頼関係だ。
人間同士の絆ということになる。
食堂ではメニューを代読し、運ばれてきた料理の説明にもチャレンジした。
ショッピングセンターでは買い物支援の体験もした。
研修会場に帰り着いた時には皆さんヘトヘトだったと思う。
それぞれに感想を聞いてみた。
受講生はいろいろな気づきや発見を発表してくださった。
それぞれの発言には充実感みたいなものも感じられた。
そしてそれを皆で共有することで学びが深まっていった。
僕はこの時間が好きだ。
僕は講師であるけれども、皆さんのいろいろな気づきに教えられていることが多いの
だ。
誰かの力になりたい。
誰かに寄り添ってあげたい。
そう思う人が集う空間にはぬくもりがある。
やさしい時間が流れる。
こういう人達がおられて見えない見えにくい僕達の暮らしが存在する。
受講してくださった皆さんに心から感謝した。
(2024年5月29日)

やさしい人

ゴールデンウィークの後くらいから急に忙しくなってしまった。
調べてみたら一週間に一日の休みも確保できていないことに気づいた。
今も11日連続の仕事が続いている最中だ。
2月や3月は一か月の半分くらいはお休みだった。
10月や11月はもう現時点でほとんど予定が埋まっている。
自由業とはそんなものだ。
今月は1時限目からの授業とかが多く、行先も滋賀、京都、大阪と広域だった。
結果的に早朝出発、夜帰宅が続いた。
疲れが貯まる傾向にあるのは気候の変化のせいもあるだろうし年齢のせいもあるのだ
ろう。
自覚はあるから栄養ドリンクをお守りみたいに飲んだりしている。
それでも集中力が少し落ちたりしてしまう。
先日もやってしまった。
大学の講義を終えて、学生達が地下鉄の駅まで送ってくれた時のことだった。
改札口で送ってくれた二人の学生にお礼を伝えて歩き始めた。
もう数えきれないくらい利用している駅だ。
ところが点字ブロックの曲がる場所を間違えたらしい。
いくら歩いてもホームに向かう階段にたどり着けなかった。
途中で間違ったことに気づいて足が止まった。
でも、修正しようとする気力もなかった。
いつか辿り着くと自分に言い聞かせてそのまま動き始めようとした時だった。
「駅員さんにお願いして入れてもらいました。」
彼女の息は少し乱れていた。
走ってきてくれたのが分かった。
学生たちは歩き始めた僕の後ろ姿を見てくれていたのだ。
そしていつもと違う方向だと気付いたのだろう。
彼女は事情を駅員さんに説明して駅構内への入場許可をもらったのだろう。
「先生、行きましょう。」
彼女は実習で学んだサポート方法で僕に肘を持たせた。
何故間違ったかを尋ねたりも一切しなかった。
そして慣れた感じで僕を階段まで誘導してくれた。
「やさしい駅員さんで良かったです。気をつけて帰ってくださいね。」
彼女が微笑んだ。
「ありがとう。また来週。」
僕はそれだけ言って階段を降りた。
やさしい人がもう一人いたことを本当は伝えたかったが飲み込んだ。
4月に初めて出会った時、ほとんどの学生達が見えない人とのコミュニケーションの
経験はなかった。
どう接すればいいか戸惑っていた。
共有した時間が学生達をどんどん変化させていった。
たった数か月で僕と普通にやりとりができるようになってくれた。
学生達が元々持っているやさしさを引き出してくれたのは正しい理解だ。
正しい理解が広がれば、やさしさが広がっていく。
やさしい社会になっていく。
そしてやさしさはきっとどこかで誰かの力になる。
(2024年5月26日)