僕の大切な仕事

気温0度の早朝、両ポケットにカイロを入れて滋賀県大津市の家を出発した。
今年最後の中学校での講演は鹿児島県薩摩川内市だった。
新大阪まで在来線、そこから九州新幹線、6時間の旅だ。
そう考えると鹿児島県も近くなった。
僕が学生の頃、京都から故郷の鹿児島県に帰省するのには新幹線だけでも8時間はか
かっていたし、寝台列車では12時間以上かかっていた。
遥か昔の話だ。
川内駅には高校時代の同級生が待機していてくれた。
学校まで30分くらい、その車中で昼食だ。
膝の上に乗せられたお盆にはおにぎり、玉子焼き、鳥のカラアゲなどが並んだ。
おにぎりとお茶は暖かかった。
彼女が僕の到着に合わせて作ってくれたのが分かった。
やさしい気遣いがうれしかった。
生徒数が全校で80名程度の小さな中学校が会場だった。
薩摩川内市長が見学してくださったのには驚きながらもうれしく思った。
鹿児島県も厳しい寒さだったが、生徒達は一生懸命に話を聞いてくれた。
いろいろ質問もしてくれたし、生徒代表の挨拶も気持ちの伝わるものだった。
ひとつだけ驚いたのは、実際に白杖を見たことがある生徒が一人もいなかったという
ことだ。
今月、京都市内の中学校に複数お招き頂いたが、どこの中学校でもほぼ全員が白杖を
目にしていた。
風景の中に存在しているかどうかはとても大きな意味を持つと思う。
そういう意味でもお招きくださったことに感謝した。
一番得をするのは生徒達だろう。
障害の正しい理解につながっていくのは間違いない。
今年お招きくださった小学校10校、中学校14校、高校6校、それに専門学校や大
学、様々な社会人の団体、たくさん話を聞いて頂いた。
そして来年の予定も少しずつ入ってきている。
障害を正しく知ってもらうこと、それが共生社会のスタートだと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔になれる社会、少しずつでもそこに
向かいたい。
未来への種蒔き、見えない僕の大切な仕事だ。
お招きくださった皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
(2023年12月23日)

チャペル

毎年この季節になると同志社女子大学にあるチャペルでの講話の依頼がくる。
礼拝の中でのわずか8分間の講話だ。
今出川キャンパスと田辺キャンパスの二か所だ。
僕はどちらもそこに行くことそのものがうれしい。
今出川キャンパスは栄光館という歴史のある建物の中にチャペルがある。
新島襄の奥様の新島八重の葬儀が執り行われた場所だ。
ヘレンケラーさんが京都に来られた時に講話をされた場所でもある。
そんな歴史のあるチャペルでの礼拝に参加できるだけでうれしいのだ。
いつも身が引き締まる感じになる。
田辺キャンパスは新島記念講堂が会場だ。
このチャペルは屋根に十字架がある近代的な建物だ。
入り口には大きなもみの木のクリスマスツリーがある。
ポインセチアの鉢植えがそれを囲んでいる。
僕も準備されてあったオーナメントを飾る。
千人収容のホールにはフランス製のパイプオルガンがある。
ステージの向かい側の高い場所にあるらしい。
生演奏の音はそのままホール全体に降りてくる。
前奏、讃美歌、後奏、粉雪のように音が降りしきる。
荘厳な空気に包まれる。
僕はクリスチャンではないのだけれど音色が身体に溶けていく。
魂が洗浄されていく感覚になる。
礼拝を終えて外に出た。
ふと空を見上げた。
冬枯れの透き通るような蒼い空を感じた。
この空がこの星を囲んでいると思った。
心が痛んだ。
今この瞬間も戦争が続いている。
何もできない自分の無力さも理解できている。
でも、やっぱり、自分達だけが平和であることをうれしいとは思えない。
祈る。
それは僕にもできる。
だから、空を見上げて祈った。
(2023年12月20日)

1割バッター

最初に彼と出会ったのは10数年前だったと思う。
彼は勤務先の団体で人権研修の係をされていて僕をお招きくださった。
それ以後出会うことはなかったが、今年偶然再会した。
僕が滋賀県大津市に引っ越してまた縁がつながったのかもしれない。
今日、今年2回目の再会となった。
山科駅で僕を見かけて声をかけてくださったのだ。
「松永さん、一緒に帰りましょう。」
彼は元の職場と氏名をおっしゃった。
彼らしい思いやりのある挨拶だった。
僕は彼の肘を持たせてもらってラッシュの人込みを帰路に着いた。
彼は定年を迎え、別の会社で働いておられる。
僕の最寄り駅よりひとつ先の駅から通勤しておられる。
新しい会社では営業の部署に配属されたらしい。
穏やかで気の優しそうな彼には営業の仕事は厳しいだろうと僕も思う。
話を聞いてもらって契約までつながるのは10人に一人もないと話してくださった。
その会社では月の始めには前月の成績発表があるらしい。
最下位は免れたいのだけれどと彼は笑った。
「今日も90歳のお一人暮らしのおじいさんの話の聞き役で一日がほぼ終わってしまっ
てね。こんなことじゃなかなか成績は上がりませんよね。」
彼は自嘲気味に話された。
「でも、とってもいいおじいさんでね。」
彼はやさしい言葉でそう付け加えられた。
「ちなみに、松永さんがサポートを受けられるのは何回に一回くらいですか?」
僕は10回に1回くらいかなと答えた。
「1割りかぁ。私と同じくらいかぁ。
やっぱり3割バッターを目指しましょうよ。」
電車がホームに入ってきた。
僕は彼の肘を持たせてもらって満員の電車に乗り込んだ。
案内放送が僕の声をかき消した。
「1割の人生もいいですよ。」
(2023年12月17日)

サバ煮定食

毎月2回、京都市内にある就労継続B型事業所を訪ねている。
ここは視覚障害者の人が働いている施設だ。
視覚障害者の人の悩みを聞いたり相談にのったりするのが僕の役目だ。
ピアカウンセリングというものだ。
どれだけ役に立っているかは自信はないがもう10年以上続けている。
9時から16時なので昼食は施設の食堂で頂く。
食堂は暖房は入っているが少し寒い。
座る場所は指定されている。
年に数回席替えもある。
後方の入り口から入ると壁際にアルコール噴霧器がある。
消毒を済ますと足裏の浮き出た線を確認しながら進む。
食道内は一方通行と決まっている。
僕は白杖を持っているが寮生は施設内では使っていない。
皆がそれぞれの感覚で動いている。
全員が白杖を使うと危険なのだろう。
「通ります。通ります。」
全盲の人は声を出しながら歩く。
席に座るとトレーに料理が準備してある。
50人以上の食事を数人のスタッフで準備するのだからいろいろと限界がある。
糖尿食などの対応もあるので大変だ。
食器はプラスチック製だ。
ごはんとお味噌汁、メインのおかず、小鉢、デザートという感じだ。
アツアツというのは難しいしお代わりもない。
お茶はテーブルのポットからそれぞれ自分で準備する。
今日のメイン料理はサバの煮物だった。
ほうれん草のソテーも付いていた。
小鉢は根菜の炒め物、デザートは甘いお豆さんが数個だった。
食べるということは人間の幸せのひとつかもしれない。
あちこちで歓談の声が聞こえる。
笑い声も聞こえる。
ここには贅沢というものはないのかもしれない。
僕はこの空間が好きだ。
生きている自分の命、そして仲間の命、愛おしいと感じることができる。
何故だかは分からない。
「松永さん、今年も後少しだね。」
僕に気づいた全盲の女性が声をかけてくれた。
「そうだね。元気で新年を迎えようね。」
僕はそう返してごちそうさまをした。
立ち上がって歩き始めた僕に彼女が続けた。
「今日廊下でごほごほしてたやろ。無理したらあかんよ。」
僕が廊下を歩きながら少し咳き込んだのをどこかで聞いていたのだろう。
ゴホゴホだけで彼女は僕を認識していたのだ。
やさしいいたわりの言葉だった。
僕は振り返ってありがとうを伝えた。
昼食は550円だ。
勿論僕も支払っている。
彼女がこの施設で9時から16時まで働いて得る一日の収入、昼食代とほぼ同額だ。
日本の就労継続B型事業所の平均工賃は一か月1万3千円だ。
そこには最低賃金の制度もない。
だから給料とは言わない。
僕はいくら偉い学者さんや政治家の説明を聞いても納得ができない。
食堂を出ながら身が引き締まる気がした。
僕には何も変えられない。
自分の無力もちゃんと分かっている。
でも、少々無理をしても頑張らなくちゃいけないと思う。
ささやかでも僕にできることを頑張らなくちゃいけない。
それは僕自身のために。
(2023年12月14日)

尾道

広島県尾道市にあるNPO法人の10周年記念式典にお招き頂いた。
地域で同行援護や居宅介護事業などをやっている小さな法人だ。
講演依頼があった時に僕は既に別の講演が予定に入っていた。
一度お引き受けしていた日程を変更するというのは基本的にはやってはいけないこと
だ。
それでもこの法人の記念式典には是非行きたいと言う思いがあった。
先に決まっていた団体に謝罪し別日を提案しご理解を頂いた。
法人の理事長は全盲の先輩だった。
7歳ではしかで失明し、厳しい運命に立ち向かって生きてきた人だった。
彼女のためにどうしても行きたいと思ったのだ。
会場の公民館のステージには立派なシャコバサボテンの鉢植えがあった。
沢山の花を咲かせていた。
片側にはシクラメンと葉ボタンの寄せ植えもあった。
テーブルが整然と並び、関係者の席には芳名が記されていた。
それぞれの席には式次第が印刷された小さな紙と記念のボールペンが置いてあった。
スタッフの方が前夜遅くまで準備に追われていたのを知っていた僕はその会場を見た
だけで笑顔になった。
そこには手作りのぬくもりとやさしさがあった。
定刻になって司会者のはっきりとした言葉が静かに流れ始めた。
主催者挨拶に続いて市長代理や市会議員の挨拶もあった。
それから僕の講演だった。
僕は会場のお一人お一人に語り掛けた。
障害があってもなくても変わらない人間の幸せを問いかけた。
一緒にお祝いに駆けつけてくれた友人の視覚障害の女性がよし笛も披露してくれた。
音色が会場を包んだ。
皆でそれぞれの人生を垣間見て、それぞれの人生にエールを送った。
拍手は僕にも彼女にも向けられたが、参加してくださったそれぞれの皆様の中で共鳴
していた。
会食に準備されたお弁当には地域の特産がいろいろと入っていた。
同じテーブルの地域の方にそれを教えて頂きながら食べた。
いつの間にか人間同士の絆が生まれているのを感じた。
あっという間に時が流れた。
日常は地元の車屋さんだという男性が監事をしておられた。
彼の飾らない閉会の言葉がこの式典によく似合った。
会場を出たらそこには穏やかな蒼い冬の空があった。
空もお祝いをしてくれていた。
帰りの新幹線はほとんど眠って過ごした。
東京からまだ一週間、休みなしの強行軍だったので無理もないと自分を慰めた。
でも、やはり、行けて良かったと思った。
理事長を始め、スタッフの皆様に心から感謝した。
(2023年12月10日)

12月3日 視覚障害者ガイドヘルパーの日

12月3日が「視覚障害者ガイドヘルパーの日」という記念日になった。
ガイドヘルパーというのは視覚障害者と一緒に外出して目の代わりをしてくださって
いる人達だ。
同行援護という制度の基、全国で活動してくださっている。
ガイドヘルパーによって、僕達の仲間の生活が支えられていると言っても過言ではな
い。
ただ、その数は全国的に不足しているし、仕事としての知名度も高くはない。
同行援護という制度を発展させるためにももっと社会に知ってもらわなければいけな
い。
そういう願いが記念日の制定につながった。
2023年12月3日、記念日認定証の授与式が東京の日本視覚障害者センターで挙行され
た。
全国の関係団体をオンラインでつないでの開催だった。
厚生労働省からもお祝いにきてくださった。
日本記念日協会の使者から授与される認定証を受け取るのが僕の仕事だった。
これまで活動してくださった全国のガイドヘルパーさんに感謝しながら、新しい次の
一歩を噛みしめながらしっかりと受け取った。
認定証と白杖が僕の右手にあった。
僕は満面の笑みを浮かべながら記念写真の撮影に臨んだ。
時代がひとつ進む瞬間に立ち会えたことを光栄だと感じた。
そして、カメラの向こう側にある未来をしっかりと見つめた。
(2023年12月4日)

師走の朝

東新宿のホテルで師走の始まりの朝を迎えた。
いつも通りの早い目覚め、シャワーを浴びてコーヒーを入れた。
コーヒーは愛飲しているイノダコーヒーのスティックタイプを持参している。
香りが部屋にこぼれ出す。
それから、アイフォンのアップルミュージックを使って朝のクラッシックを流した。
香りと音と味覚が結合する。
ささやかな幸せが生まれる。
同行援護資質向上研修は4日間の開催なので半分が終了したことになる。
僕はこの研修の責任者となっている。
僕には少し荷が重い役職なのだが、仲間のサポートを受けながら頑張っている。
全国から集った受講生の皆さんにいい研修を届けたいという思いは強い。
初日の東京は美しい水色の空の下にあった。
教えてくださったガイドさんと歩きながら空を見上げた。
久しぶりに水色を思い出した。
二日目は実技講師陣も加わって新しい緊張感も生まれた。
講師陣と受講生、あるいは受講生同士、生まれた空気は少しずつ熟成していく。
それぞれの受講生の学ぼうという意欲が全体を活性していくのだろう。
そしてそれぞれの人生への思いもそこにあるのかもしれない。
学びが僕達に寄り添ってくださっているのを感じる時、関われた機会に感謝する。
そして今回は研修終了の翌日に大きなイベントが控えている。
それを無事終えたら滋賀に帰ることになる。
66歳という年齢からすれば体力はあるのだろう。
丈夫に産んでくれた親に感謝だ。
いつまで活動を続けるのかと尋ねられることがある。
まだ答えは出ていない。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれる社会。
遥か遠くなのは分かっている。
分かっているからこそ、足が動く間は歩かなければとつい思ってしまう。
こんな痩せっぽっちののろい足では邪魔になるだけかもしれないという思いもある。
とりあえず、今できることは頑張ろう。
愚直に丁寧に、そして魂を込めて頑張ろう。
(2023年12月1日)

教えてもらえる喜び

同行援護養成研修の最終日の午後は戸外実習だった。
いろいろな立場の受講生と歩いた。
パートナーが視覚障害者という方もおられた。
娘が視覚障害者だという方もおられた。
家族ならではの思いが溢れていた。
教育関係者もおられた。
生徒達への愛情をまぶしく感じた。
視覚障害児と接する立場にあるという養護教諭の先生はやさしさに満ちていた。
流された涙が光っていた。
心からのエールを送った。
福祉の専門家もおられた。
「これまでの自分の理解が薄っぺらかったと思う。」
そうおっしゃった男性はどういう立場で受講されたかは忘れてしまった。
そんな言葉を紡ぐ彼を僕はかっこいいと感じた。
きっと誠実に仕事をされてきた方なのだろう。
訪問介護に携わっておられる女性にはプロフェッショナルとしての姿勢を感じた。
一緒に歩きながら、僕もこういう人に介護して欲しいと思った。
そんなことを考えてしまう年齢になってきたということだろう。
受講生の代表として修了証書を受け取ったのは高校生の男の子だった。
彼自身の人生がきっと豊かになるだろう。
研修が終了して挨拶にきた女性は20歳代だった。
「小学校の時に松永さんの講演を聞きました。今回の研修で話された内容もいくつか
憶えていました。」
きっとその時、彼女は10歳くらいだったはずだ。
無性にうれしかった。
不思議な再会に僕は握手をした。
妻が20年くらい前に僕のサポートをしてありがとうカードを持っていると教えてくだ
さった受講生もいた。
長い間、活動を続けてきたのだとしみじみと思った。
僕は受講してくださったすべての人にありがとうを伝えた。
皆さんから頂いたぬくもりがまた僕のパワーとなっていく。
僕は講師という立場だ。
でも教えながら教えられている。
教えられていることの方が大きいような気がする。
教えられていることに気づく時、うれしくなる。
そしてもっと学びたいと思う。
(2023年11月27日)

シュトーレン

視覚障害者は目が見えない人と思われがちだ。
実際には見えない人もおられるが、見えにくいという人の方が多いかもしれない。
人生の途中で視覚障害者となる人がとても多いということもあまり知られていない。
ちなみに、見えない僕が電車の入り口で立っているのは空席が見つけられないからだ
ということも話をすれば多くの方が驚かれる。
単純なことでも話を聞いて頂いて理解につながることは多くある。
正しく理解してもらうってとても大切なことだ。
共生の社会の第一歩だろう。
そういう意味からも学校などで話をする機会はとても有難い。
教育は未来に直結する。
出会った教育者の人達の中でエールを送ってくださる人は少なくない。
エールは力となる。
先日の小学校の校長先生もそのお一人だ。
「松永さんの話を子供達に聞かせたい。」
校長先生から届いたメールにはそんなことが書かれてあった。
そしていつも僕の好きなコーヒー豆をプライベイトで準備してくださる。
今回はコーヒーゼリーもあった。
コーヒー好きの僕にはうれしい活動機会となっている。
その小学校にこれまた知り合いの先生が来られていた。
先生は小学校の校長を退職された後、大学の教育学部で教鞭をとっておられる。
駅で僕を見かけたりした時もサポートしてくださる先生だ。
いつの間にか仲良しとなった。
先生は今回手土産を持ってきてくださった。
近くにおいしいパン屋さんがあるらしい。
お休みの今日の午後、そのパンの包みを開けた。
僕の大好きなシュトーレンだった。
ドライフルーツもナッツもたくさん入っていた。
僕がシュトーレンが好きと話した記憶はない。
たまたまの偶然だろう。
そう言えば、シュトーレンを僕に教えてくれたのは視覚障害者の人だった。
どんどん見えなくなる途中で、趣味のパン作りを続けておられた。
クリスマス前にプレゼントしてくださった。
一度味わっただけで大好物となった。
そんな優しい思い出も蘇った。
そして、食いしん坊の笑顔が弾けた。
お二人からのコーヒーとシュトーレンと思い出で休日の午後のひとときを過ごした。
おいしい時間に合わせたくて、グーグルでピアノ曲もリクエストした。
優雅な時間が流れた。
もうすぐ12月なんだなとしみじみと思った。
今年もここまで生きてこれたんだなと思った。
そしてしみじみと幸せを感じた。
ありがとうございますと自然に言葉が口からこぼれた。
(2023年11月24日)

若者達

午前中の空き時間を使って視覚障害者の人達が働いている事業所を訪ねた。
その事業所では点字印刷をやっている。
名刺への点字印刷は100枚で1,650円だ。
紙代と不通の印刷代を合わせると僕の名刺は1枚20円以上することになる。
名刺はいろいろな人にお渡しするのだから点字という文字の啓発になる。
ちょっとお高いがいい機会だと思って続けている。
今回も500枚をお願いした。
それから近くのコンビニでおにぎりを購入して駅に向かった。
慌てると危険だと分かっているのでいつも時間的余裕を持って動く。
JR、地下鉄、近鉄と乗り継いで、新祝園駅に到着したのは12時過ぎだった。
迎えをお願いしていた時刻までにはだいぶ時間があった。
駅員さんにどこかベンチを尋ねたがそれはなかった。
少しだけ腰掛けられるような手すりがあったのでそこに案内してもらった。
その時間帯の駅は閑散としていた。
僕は学校に到着してから食べるつもりだったおにぎりをリュックサックから取り出し
た。
セロファンを外して自分で作るタイプの海苔巻きおにぎりだ。
ちなみに、目が見えなくても上手にできると僕の自慢のひとつだ。
ところが、今日のおにぎりはセロファンの開け口が指先の触覚で確認できなかった。
あちこちを幾度も触って悪戦苦闘した。
「お手伝いしましょうか?」
若い女性の声だった。
「お願いします。本当は僕はこれは得意なんだけどね。今日は開け口を探せないんだ
よ。」
と言いながらおにぎりを彼女に手渡した。
僕の悪戦苦闘を見ていてくれたのだろう。
うれしさと恥ずかしさが混在した気持ちだった。
「海苔、触っちゃうけどいいですか?」
彼女は微笑みながら手伝ってくれた。
大学生だった。
僕はついでに帰路のチケットの購入もお願いした。
彼女は快く引き受けてくれた。
僕にチケットを渡すと改札口に消えていった。
その爽やかさと堂々とした感じにちょっと感動した。
そして幸せになった。
講演先の中学校に到着したら、保護者の方も来られていた。
僕は誰かに伝えたくて、すぐにその話をした。
それから中学1年生にいつものように話をした。
中学生達はそれぞれに一生懸命に聞いてくれているようだった。
「視覚障害者の人にどう声をかけてどう手伝えばいいのですか?」
最後の質問タイムには素敵な質問も出てうれしかった。
この中学生がいつか今日の大学生みたいになって手伝ってくれるだろうなと思った。
講演を終えて新祝園駅まで送ってもらって帰路に着いた。
竹田駅で地下鉄に乗り換えようとして迷ってしまった。
同じホーム、反対側の電車に乗るというスタイルなので簡単だと思われがちだが結構
ハードルは高い。
見えないでまっすぐ歩くというのは難しいのだ。
斜めに歩いたらしく柱に当たって方向を見失った。
すぐにサポートの女性の声がした。
「お手伝いしましょうか?」
若い女性だった。
彼女のサポートで予定の電車に乗車でき、しかも座れた。
有難いと思った。
また、幸せを感じた。
途中で東西線に乗り換えて山科駅に着いた。
長い連絡通路を歩いてエスカレーターを目指した。
点字ブロック沿いにまっすぐ歩いて階段にぶつかった。
これはミスではなくわざとそうしているのだ。
階段を白杖でキャッチしてからエスカレーターに向かうのがスムーズに動けるのだ。
でも見ている人からは迷ってしまったように感じられるかもしれない。
「エスカレーターは左ですよ。」
若い男性の声だった。
僕は早速彼の行先を尋ねた。
同じJR山科駅だったが行先は逆方向で違うホームだった。
「この時間、とても込んでいますからホームまでサポートしますよ。」
彼は僕の利用するホームえのエスカレーターまで案内してくれた。
「ありがとう。助かったよ。」
僕はエスカレーターから振り返ってそう伝えた。
またまた幸せを感じた。
電車は最寄り駅に着いた。
最後の難関だ。
階段の場所を知らせる小鳥の声の放送を探しながら歩き始めた。
「一緒に行きましょうか?」
高校生くらいの女の子の声だった。
僕は改札口までのサポートを頼んだ。
何の不安もなくホームを歩いた。
音に集中して、足元のでこぼこに注意して、人や柱にぶつからないようにして、すぐ
横には落ちたら大変なことになる線路があるという恐怖心と戦いながら歩くのが通常
だ。
改札口までのわずか数分、その気持ちは天国と地獄だ。
彼女に心からのお礼を伝えた。
若者たちに手伝ってもらいながら今日の一日を無事終えた。
勿論、毎日がそうではない。
でも今日は確かにそうだった。
ほんの少しかもしれないけれど、輝き始めている未来があることを感じた。
また明日も頑張れると思った。
頑張りたいと思った。
(2023年11月21日)