ダイヤ改正

JRのダイヤ改正に合わせて地元のバスもいろいろと変更になった。
だいたいが赤字路線だったと思われるし、運転手さんの確保も難しい時代らしい。
それにしても大幅な改正となってしまった。
平日の便数が59便から36便になってしまったのだ。
土日祝は32便、1時間に2便くらいということになる。
僕の家から駅までは1キロはないと思う。
見える人は駅まで歩いておられるようだ。
見えない僕にはそれはさすがにハードルが高い。
道は曲がりくねっているし、交差点も数か所ある。
白線だけで示された細い歩道もあるようだ。
その地図を理解し記憶し、そして対応するというのはそうたやすいことではない。
自分の歩行技術、体力、総合的に判断してあきらめている。
ということは公共交通機関のお世話になるということになる。
往路はバスの時刻に合わせて家を出ればいい。
それでも駅での電車待ちの時間が少し増えそうだ。
復路はどうしようもない。
電車で駅に着いてからゆっくりとホームを歩く。
改札を出てロータリーのバス停に向かう。
電車が遅延することも珍しくない。
バス停で30分近く待機ということもあるかもしれない。
考えただけでため息が出る。
それでもまた今年度もいろいろと予定が入ってきているのはうれしいことだ。
既に半分くらいはスケジュールは埋まっている。
社会に参加できるということだ。
僕にもできることがまだあるということだ。
いくらバス停で待つことになったとしても、感謝して過ごしていきたいと思う。
(2024年4月1日)

風雨

強烈な雨だった。
傘を叩く雨音、水路を走る水の音。
それ以外の音は消えていた。
近くを走っているはずの車のエンジン音さえも聞こえなかった。
僕は背筋を伸ばして前を向いた。
白杖のグリップを握った感覚を確認した。
強すぎても弱すぎてもいけない。
路面の感覚を一番感じる握り具合、それは経験が学習していた。
歩き始めた。
点字ブロックもない普通の歩道だ。
溝蓋の端の微かな切れ目を白杖の先で感じながら歩くのだ。
そうすれば真っすぐに歩ける。
まさに神経をそこに全集中だ。
転機のいい日の歩行では顔の前、頭部付近には若干の恐怖心がある。
木の枝など空中にあるものにぶつかると痛いからだ。
雨の日は幸いにこれがない。
傘をさすことで顔や頭部を自然に防禦することになるのだ。
歩道が緩やかな下りになるまで歩き続ける。
そこが最初の目標地点だ。
予定通りにその坂を降りると横断しなければいけない車道が待っている。
滅多に車はこない場所だがゼロではない。
そして一応車は一旦停止となっている。
エンジン音も聞こえないのだから、後は祈りだけだ。
渡りますよと身体全体で訴えながら歩く。
渡り切ったところはまた歩道の縁石がある。
ここが二つ目の目標だ。
そしてそこから17歩進めばバス停だ。
ここは手掛かりがないから歩数でいくしかないのだ。
ここという場所で白杖を静かにゆっくりと車道側に動かす。
バス停に白杖が当たる。
到着。
見えない人間がほとんど聞こえない環境で歩くというのは大変な作業だ。
それでもやればできるものなのだ。
「ご苦労様」
到着した自分自身の労をねぎらう。
そして願う。
「帰りには雨も風邪も止んでいますように!」
(2024年3月27日)

お彼岸

部屋のすぐ外でメジロが鳴いた。
語り掛けるように鳴いた。
耳を疑った。
日の出までにはまだまだ時間があるはずだ。
僕はそっと触針腕時計の針を触った。
音声時計はわざと控えた。
やっぱり朝までにはまだまだ遠い時間だった。
思いを巡らせてすぐにお彼岸であることに気づいた。
瞬間的に理解した。
「父ちゃんが会いにきてくれたんだ。」
子供の頃に父ちゃんと一緒に育てたメジロの姿が蘇った。
いや、父ちゃんが育てていたメジロの世話を僕も手伝ったりしたのだ。
野草を摘んですり鉢でくだいてからきな粉と水を加えた。
トロッとした感じになったのを陶器のエサ入れに入れた。
それを鳥かごに置いた。
メジロはおいしそうにえさをつついた。
そのエサがメジロの鳴き声を美しくするのだと父ちゃんは教えてくれた。
僕は飽きることなくメジロの歌声を聞き入った。
その姿にも見とれた。
だから今でも鳴き声はすぐに分かるし、その姿をはっきりと思い出すことができるの
だと思う。
メジロの身体の色合い、緑の野草、きな粉の黄色、エサの黄土色、エサ入れの陶器の
白、鳥かごの薄茶色、そのままに蘇った。
父ちゃんが蘇らせてくれたのだ。
メジロの鳴き声の後からは父ちゃんの声も笑顔も蘇った。
科学では説明しきれない出来事を自然に受け止められる年齢になってきたのだろう。
僕は布団の中で喜びをかみしめた。
「父ちゃん、ありがとう。」
僕は心の中でつぶやいた。
(2024年3月22日)

春風

前奏が流れ厳かな空気が会場を包み込んだ。
開会の辞の後、聖書の一節が朗読された。
校長先生の祝辞にも聖書の一節が引用されていた。
僕は無宗教だが祈りを否定しているわけではない。
アーメンも唱えるし寺社仏閣では合掌もする。
そして祈りを捧げる人達の姿にはいつも何か美しさみたいなものも感じる。
入学式や卒業式で祝辞などを聞くのも好きだ。
そこにはいつも祝辞を述べる人の個性が光り、言葉に力があることが多い。
拝聴しながら自分自身の背筋が伸びるような気になったり学びにつながったりする。
卒業生達一人一人を記憶はできていない。
それは間違いなく画像のせいだと思う。
それでも自然におめでとうの言葉が漏れる。
そして最後には一緒に讃美歌を歌う。
式次第に歌詞があるが僕には読めないし記憶もできていない。
いつもメロディだけを口ずさんでいる。
記念写真には僕も参加している。
撮影者はきっと僕を意識してくださっているのだろう。
カメラがどこにあるか、いつ撮影するかなどを言葉にしながら進めてくださる。
自分では見ることのない記念写真だ。
そこに僕も入っていることがうれしいと思う。
会場を出て堀川通りを歩いた。
満開の寒緋桜に出会った。
濃いピンク色の下向きの花を触った。
最初左手の指で触ったが、すぐに白杖を持ち替えて右手の人差し指にした。
右手の人差し指の先に目があるのかなと自分で可笑しくなった。
春風がコートを脱ぎなさいと告げた。
卒業式が終わって、来月の始めは入学式だ。
桜もそめいよしのになっているだろう。
(2024年3月18日)

水たまりの青い空

土砂降りの雨が止んだ。
雲の隙間から少しだけ青空が顔を覗かせた。
僕達は水たまりを避けながら歩いた。
ガイドの学生が突然つぶやいた。
「水たまりに青い空が映っています。」
瞬間、僕は地面を覗き込んだ。
見えなくなってからは初めての経験だった。
思い出そうとしたがなかなか実際の映像には結びつかない。
でも、確かに、見えている頃に見たことがある。
蜃気楼とか虹とかそういう種類のものだ。
光達の悪戯なのだろう。
そしてその悪戯はいつも幸せを運んでくれたような気がする。
足元に空がある。
ちっちゃな水たまりに大きな青い空がある。
そう思ったら幸福感が僕を包んだ。
見えても見えなくても関係ない。
光達、凄いなぁ。
とっくの昔に失くしていた大切な写真を見つけ出したような気になった。
2024年3月13日)

光だけでも

携帯電話から懐かしい声が聞こえてきた。
京都で活動していた頃の知り合いの女性だった。
弱視の彼女は全盲の僕のこともいつも一緒に考えてくれた。
直接話すのは数年ぶりだった。
メールでお願いしていた要件についてわざわざ電話をくれたのだ。
彼女の声は相変わらず元気でハキハキとしていた。
聡明な感じも当時と同じだった。
用件が終わった後、少しだけ間が空いた。
「ちょっとだけ病気が進んだみたいなの。」
戸惑い気味の小さな声が聞こえてきた。
僕は一瞬で状況を理解できた。
本当は次の用事で急いでいたが、それをあきらめて電話に集中した。
「例えば、どんな感じなの?」
僕はゆっくりと問いかけた。
目の前に霧が出たように感じる日があること、
時々画像がゆがむように感じること、
見るのが辛く思えることがあること、
そしてそれに付随する日々の生活の様子が語られた。
僕は相槌を打ちながら聞き続けた。
それは見えなくなる過程で僕も経験したことだった。
それからわざと尋ねた。
「女性に年齢を尋ねるのは失礼かもしれないけれどさ、今何歳だったっけ?」
僕が予想していたくらいの年齢だった。
「病気は少しずつ進んでいくよね。それは仕方ないよね。
でもその年齢だったら、きっと人生の最後まで光は残ると思うよ。」
僕は非科学的な答えと分かっていたがそう伝えた。
「こんなこと、松永さんにくらいしか言えないから。」
彼女はキャッチボールにならない言葉を僕に返してから少し笑った。
僕は最後に付け加えた。
「それからさ、貴女なら大丈夫だからね。」
電話を切ってしばらく考えた。
僕は夢中だったが、何が大丈夫と言おうとしたのだろう。
見えなくなっても大丈夫だよと本当は言いたかったのだと思う。
でも、見えなくなってもは言えなかった。
見えない毎日の暮らしを否定しているわけじゃない。
見えなくても楽しいこともあるし、25年間生きてきたのは事実だ。
でも、見えなくなってもは何故か口にできなかった。
それから神様に祈った。
「本当に光だけでもいいから、彼女に最後まで残してあげてください。」
(2024年3月10日)

春の始まり

啓蟄も過ぎた。
僕は作業着に着替えて庭に出た。
決して広い庭ではないが僕には十分だ。
今朝の気温は5度、まだまだ暖かいとは言えない。
庭のあちこちを歩いて数か所で腰を降ろした。
そしてゆっくりと地面に触れた。
触るということは僕にとっての見るということだ。
冬の間に積もった枯れ葉も残っていたが、あちこちから雑草が芽を出していた。
触れる度に指先はうれしそうに止まった。
数センチに育っているものもあった。
その強さと逞しさにはいつも感動する。
弱虫の僕はその姿に憧れてしまう。
深呼吸をしたら今度は耳が喜んだ。
ウグイスの鳴き声だ。
しかもまだまだ半人前の鳴き方だ。
頑張れってつい思ってしまう。
下手っぴの声の方が聞き入ってしまうから面白い。
神様のさりげないおもてなしはいつも凄いと思う。
笑顔になって空を見上げた。
空を見上げると無意識に空を見つめてしまう。
自分でもおかしいと思うが何故か閉じている瞼を開いてしまうのだ。
自分の無意識の行動がちょっと照れくさくなる。
そしてやっぱり考えた。
戦争が終わって、世界が平和に包まれますように。
何もできない自分自身の無力さが淋しい。
でも、とにかく春が始まった。
僕は感謝の気持ちを持って、この春を享受していきたい。
(2024年3月7日)

10年の時を超えて

彼女が高校生の時、当時僕がよく利用していた桂駅での出来事だった。
駅で困っていそうだった僕に彼女は声をかけてサポートしてくれた。
河原町行の電車に一緒に乗車したとのことだった。
そして僕は『ありがとうカード』を彼女に手渡した。
僕にはその時のしっかりとした記憶はない。
毎年、いろいろな場所でいろいろな人にサポートを受けて生きてきた。
『ありがとうカード』を受け取ってくださった人は計り知れない数だ。
老若男女、たまには外国人の方もおられた。
すべてに感謝しているがそのほとんどは記憶はない。
これは画像のせいだと思う。
しかもサポートを受けた時間はほとんどが数分程度だ。
声だけで記憶することはできない。
そして、彼女ともそれ以後出会う機会はなかった。
彼女は大学では社会人類学を学び、カナダでワーキングホリデーをしたり、バックパ
ッカーで世界中を一人旅したりしたらしい。
行動力のある人だということは伺えた。
様々な文化や価値観に触れながら、夢を育んでいったらしい。
夢はいろいろな立場の人達が癒される社会につながる内容だった。
その夢の途中で僕を思い出してくれたとのことだった。
約10年ぶりの再会となった。
僕達は地下鉄の駅の改札口で待ち合せた。
昔からの知り合いみたいに、彼女のサポートを受けて歩いた。
何の違和感もなかった。
近くのカフェで歓談した。
彼女の夢に僕が貢献できることはほとんどないかもしれない。
でも、まさにマイナーな僕達のことも考えてくれたという事実がうれしかった。
悲しい暗いニュースが世界を席巻していっているように感じる時がある。
報道に接して気分が重たくなることも増えたような気がする。
だからかもしれない。
キラキラとした目で未来を語る人達に出会うと幸せになる。
心から拍手を送りたくなる。
そして僕自身はもう若くはないが、いつまでも夢を語れる人でありたいと願う。
(2024年3月2日)

プラネタリウム

何歳の頃だったのかも憶えていない。
場所がどこだったのかも憶えていない。
誰と一緒に行ったのかさえも憶えていない。
連れて行ってくれた人には失礼だと思うのだが記憶がない。
目を見開いて天井を凝視したことは憶えている。
幾度もチャレンジしたことは憶えている。
それでも満天の星空はやっぱり見えなかった。
ないものねだりだったのは知っている。
頭で理解できていてもやっぱり見てみたいと思ったものがいくつかある。
星はその代表格だったのかもしれない。
見えている頃、僕には夜盲という症状があった。
物心ついた頃からそうだったのでそれは当たり前のことだった。
夜道を一人で歩くことはできなかったし、暗闇が怖かった。
ただ、月が見えるのに星が見えない理由が僕には分からなかった。
頑張ればきっと見えるとどこかで思っていたような気がする。
35歳を過ぎた頃から目に異常を感じ始めた。
視力がどんどん落ちていったし霧に包まれているような状態になった。
それでも35年間見えていた僕には失明はイメージできなかった。
それはないとどこかで思っていた。
拒否反応だったのか過信だったのか分からない。
だんだんと霧は濃くなっていった。
10年近くの時間をかけて目の前の変化は完全になくなった。
少し明るめのグレーが目の前に横たわっている。
目を開いても閉じても変化はない。
光を失いながら同時に影も失っていったのだろう。
白杖で夜道を歩いていても、もうそこには暗闇は存在しない。
変化のないグレーがあるだけだ。
見えていた頃よりも恐怖心は少ないかもしれない。
そしてないものねだりは姿を消した。
見ることはできないにしても感じられるようになりたいと思えるようになった。
もう一度、プラネタリウムに行ってみたくなった。
(2024年2月26日)

10センチ先

もう20年くらい関わっている高校から次年度の希望調査が届いた。
この高校は単位制の学校で、総合学習で点字という科目を実施している。
僕はその科目を担当しているのだ。
年に5日間だけ通っている。
その学校から次年度も講師を継続する意思があるかどうかのお尋ねが届いたのだ。
自由業の僕はこういうことの積み重ねで生活してきた。
収入につながることも勿論大切なことではあるが、何より次世代の若者たちにメッセ
ージを届けることができる。
また声をかけて頂けたということは有難いことだ。
だが、ひとつだけ変化が起こった。
学校が違う場所に引っ越ししたのだ。
同じ京都市内だが数十キロ離れた場所で、最寄り駅などもすべて違う。
滋賀県の自宅からバスに乗り、JR、東西線、烏丸線、そしてバスと乗り換えがある。
経路をすべて記憶しなければいけない。
ホームをどちらに動き、点字ブロックをどこでどちらに曲がるかなどのすべてを記憶
するのだ。
曲がる場所が一つ違っても、左右を一度勘違いしても辿り着けない。
そして、そこにはいつも危険が横たわっている。
恐怖心に打ち勝つためには身体に憶えこまさなければいけない。
今日で三日目の訓練、だいぶ自信ができてきた。
もう一息だと思う。
たった10センチに必死になる。
白杖を握りしめ、耳を澄ませて進む。
足裏の触覚も自然に頑張る。
ひょっとしたら不細工な姿かもしれない。
でも、僕は不細工な僕が好きだ。
10センチ先の未来に真剣に向かう自分が好きなのだと思う。
(2024年2月22日)