四条大宮

四条大宮は道幅が細いのだが自転車の通行量は多い。
ちなみに、僕が自転車とぶつかって初めて白状を折ったのもここだった。
所謂難関地帯なのだ。
僕はバスを降りて慎重に歩き始めた。
しばらく東の方向に歩くと白状の音が微かにこだまする地点がある。
そこで北に向くと細い路地を通ってバス停に向かうことができる。
ちょっと近道だし自転車も通らない。
ただ通り抜けた先がお店のすぐ横になる。
そこから進路を変更してバス停の点字ブロックまでたどり着くには
もう一仕事ということになる。
進路変更の場所は数十センチの範囲だから、
そこを探すには集中力を高めないといけない。
行き過ぎれば車道に飛び出るということになってしまう。
とても危険な場所なのだ。
今日もお店の横で方向を変える場所を探そうとしたら、
「お手伝いしましょうか?」
女性の声がした。
こういう場所での声は天使の声だ。
僕はすかさずバス停までのサポートをお願いした。
彼女も途中まで一緒のバスだった。
僕は安心して移動しバスに乗車した。
そして空いてる席に座らせてもらった。
本当にうれしくて、僕はいつものように「ありがとうカード」を渡した。
僕が見えていた頃、
白杖の人に声をかけるなんてできなかった。
声をかけていいのか、
声をかけること自体が失礼ではないのか、
何と声をかければいいのか、
あれこれ考えて、結局何もできなかった。
それは視覚障害者だけではなく、他の障害者の人にも同様だった。
差別とかの気持ちはなかったはずなのだが、
無意識に区別していたのは事実だろう。
僕が見えなくなってからのこの18年を振り返ると、
声をかけてくださる人は少しずつかもしれないけれど増えている。
視覚障害の友人達に尋ねても同じように感じているようだ。
悲しいニュースは後を絶たないけれど、
社会が豊かになってきているのも事実だ。
成熟ということなのかもしれない。
しかも声のかけ方も堂々としていてセンスがある人が増えている。
「お手伝いしましょうか?」
何度聞いても美しい響きの言葉だ。
声をかけてもらう僕も素敵にサポートを受けられるようになりたい。
(2015年10月7日)

行進

もう10年くらい前になるだろうか、
たまたま偶然、僕は彼と出会った。
学年は僕がひとつ上なのだけれど、
僕達は同じ故郷の小学校の卒業生だった。
鹿児島県阿久根市立阿久根小学校、
当時でさえ人口3万人くらいの小さな自治体だから、
その卒業生がこの京都で出会うというのは奇跡みたいなものだろう。
それから数年に一度くらいのペースで会っている。
彼は僕を先輩と言いながら立ててくれるのだけれど、
ランチの会計は受け持ったりしてくれる。
僕はちょっと困った先輩なのかもしれない。
今日はたまたま彼が暮らす宇治市で視覚障害者のイベントがあった。
毎年京都府南部の視覚障害者が集まって、
どこかの地域で白杖で行進をするのだ。
今年はそれが宇治市だった。
彼はいろいろな活動をしていて多忙さは知っていたので、
ダメ元で一緒に行進しないかと声をかけてみた。
彼は引き受けてくれた。
僕は彼の手引きで行進に参加した。
「自転車は歩道ではスピードを落とそう!」
「ながらスマホはやめよう!」
「点字ブロックの上にものを置かないでください!」
僕達は声をひとつにしながら歩いた。
視覚障害とは何の関係もない彼も、
僕達と一緒に声を出していた。
僕はなんとなく不思議で、そして幸せだった。
僕達は子供の頃同じ景色を見て育った。
50年前、あの海に落ちる美しい夕日をそれぞれに見ていたのだろう。
僕と彼との接点はただそれだけだ。
ただそれだけで人間同士はつながることができる。
やっぱり人間って素晴らしい。
(2015年10月4日)

東新宿のホテルにて 2

研修三日目の朝を迎えた。
だいぶ疲労感も大きくなってきているのだろう。
あくびをしながらベッドから起きだしてパソコンでラジオをつける。
当たり前だけど天気予報は関東バージョンだ。
昼間は25度を超えそうとのこと、ちょっと気分も重たい。
一息ついてからシャワーを浴びる。
それからホテルに備え付けのポットでお湯を沸かす。
コーヒーはお気に入りのスティックに入ったインスタントコーヒーを持参している。
お湯を注いだ時の香りでなんとなくほっとする。
コーヒーを啜りながらメールチェックをする。
届いた中に教え子からの短いメールがあった。
「キンモクセイが咲きました。もうすぐ小道がオレンジ色のカーペットになります。
ただそれだけです。」
コーヒーと一緒に幸せな気分がのど元を通り過ぎる。
よし、今日も頑張るぞと研修会場に向かう。
受講生が朝の挨拶をしてくれる。
「昨夜、お月様を眺めました。スーパームーン!とっても美しかったです。」
彼女の笑顔で僕も笑顔になる。
見えない僕に自分が見えている感動を伝えてくださる人がいる。
それは僕の目になってくださっているということ、
しかもその目はとてもやさしい眼差しを持った目なのだ。
(2015年9月29日)

東新宿のホテルにて

目が見えなくなった時、
僕はもう何もできなくなるのではないかという不安に戦いた。
苦しさ、悲しさ、辛さ、怒り、様々な感情が渦巻いていたのかもしれない。
いら立っていたような気もする。
それを乗り越えるような強靭な精神も持ち合わせてはいなかったし、
ただ逃れられない運命みたいなものと向き合っていたような気がする。
いつなのかどれくらい時間がたった頃なのか、それさえ判ってはいないのだけれど、
気がつくとなんとなくあきらめられた自分がいた。
あきらめるというのは人間の持っている力のひとつなのかもしれない。
あきらめてから15年以上の時間が流れた。
今夜、僕はこれを東新宿のホテルの一室で書いている。
京都から一人で来て四日間の研修に参加している。
目が見えている頃と同じように、いやそれ以上に行動範囲は広くなった。
今日の研修を終えて、夕食をとりながら歩行訓練士の仲間達と未来を語り合った。
僕がこうして白杖で歩けるようになったのは歩行訓練士のお蔭だ。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で歩ける国になったらいいな。
今僕がこうしているのはたくさんの支援があったからだと実感した。
そしてあらためて感謝した。
(2015年9月28日)

小さい秋見つけた

雨上がりの朝、団地の近くの小道を歩いていたら、
突然冷たいものが顔に当たった。
よくあることなので、
一瞬で雨に濡れた草だと思った。
通り過ぎて数歩進んだところで、
もしかしてと思ってしまった。
頬に当たった感触でそう思ったのだろう。
引き返してそっと手を伸ばしたら大当たり。
僕の指先に触れたススキの穂が笑った。
予想が当たって上機嫌になった。
そこからしばらく、
「小さい秋見つけた」の歌を口ずさみながら歩いた。
見えていた頃、道端のススキに気づくことはあまりなかった。
見えていたはずなのに、気に留めなかったのかもしれない。
見えなくなってから見えるようになったこともある。
少しだけど、あるような気がする。
僕の幸せのひとつかな。
小さい秋、見つけた!
(2015年9月25日)

あぶり餅

シルバーウィークの秋の一日、
仲間達と今宮神社のあぶり餅を食べに行った。
僕達は視覚に障害があるということで知り合った。
たまたま同じ時代に同じこの京都で、
それぞれの理由で目が不自由になった。
障害への思いはもちろんのこと、
一人の人間としての考え方もきっと随分違うのかもしれない。
ただ、未来を見つめる視線だけは同じだ。
でもそれをわざわざ口にはしない。
言葉にならない言葉が大きな意味を持つこともあるのだ。
運ばれてきたあぶり餅の香ばしさ、
ほんのり甘い白味噌だれ、
僕達は竹串の先の小さなお餅をほおばった。
それぞれの見えない視線がフフッと笑った。
笑顔が交差した。
穏やかな秋の一日、また明日から頑張ろうと思った。
(2015年9月23日)

曼珠沙華

見えなくなってもう18年も経つのだから、
いろいろな画像の記憶が確かなものなのかどうか自信はない。
先日も黄土色を思い出そうとして苦労したし、
群青色はもうあきらめてしまった。
あきらめるのは悔しいのだけれど仕方がない。
ただ、突然蘇るものもある。
先日学校の校庭で知り合いの先生が彼岸花が咲いているのを教えてくださった。
僕は触らせてくださいと頼んだ。
僕の指先がそっと彼岸花をなぞって動いた。
僕の頭の中に水色に近い青い色が浮かんだ。
空の色だ。
そしてそれを背景に朱色の彼岸花が蘇った。
曼珠沙華という単語も燃えるような朱色と一緒に蘇った。
まるで一枚のフォトグラフのようだった。
いつどこで写されたものか判らない。
僕の人生のどこかで巡り合った画像なのだろう。
忘れていくのは残念だけど、
またどこかで会える日もあるのかもしれない。
なんとなくそんな気がした。
(2015年9月19日)

早起きは三文の得

光を感じることのできない僕は、
毎朝ベッドの横に置いてある音声時計で朝を確認する。
もう慣れているのでその行動に特別な違和感もない。
たまに手探りの方向がずれていてうまく時計をキャッチできなくていらつくこともあ
るのだけれど、狭い範囲での捜索だからじきに見つかる。
時々朝かと思って時計のボタンを押して、
音声が夜中を教えてくれたりしたらちょっと損をしたような感じでもう一度寝る。
今日は夜中に二度も起きてしまった。
しかも二度目は朝と確信しながら時計を探した。
なかなか見つからず、やっと探し当てた時はすっかり目覚めている感じだった。
ボタンを押したら、
「午前4時55分です。」と聞こえた。
僕は聞き間違ったかと再度ボタンを押したが間違ってはいなかった。
もう一度寝たら中途半端な眠りになってしまいそうなのであきらめた。
ちょっとがっかりしながら、いつものようにラジオをつけた。
見えている頃は朝新聞を読む習慣があったのだけれど、
見えなくなってからは毎朝ラジオを聞くようになった。
ラジオをつけっぱなしで動き始める。
カーテンを開け窓を開けて空気を入れ替える。
無意識に深く呼吸する。
小鳥達の朝の挨拶が聞こえないか耳を澄ます。
トイレや洗面をすませたら必ずコーヒーを飲む。
最近知人からプレゼントしてもらったスティックのコーヒーがお湯を注ぐだけという
手軽さでとってもおいしいので気に入っている。
今朝もそのコーヒーを飲みながらラジオに耳を傾けたら天気予報の時間だった。
「今日の降水率は0%、今空を見ても雲を見つけるのが大変なくらいの青い空が広が
っています。」
天気予報士のおじさんの声が流れた。
その声もちょっとうれしそうだった。
僕はさきほと開けた窓から空を眺めた。
早起きは三文の得、
ちょっと納得の朝になった。
(2015年9月14日)

もし目が見えたら

小学校での福祉授業、100人近い子供達が僕の前に座った。
僕はいつものように、
視覚障害ってどんな状態なのか、
何故なるのか、どういうことに困るのか、
どんな風に手伝って欲しいのか、
順序を考え整理しながら話をした。
一生懸命話をした。
そして障害がそのまま不幸に結びつくものではないことも伝え、
助け合える人間の社会の素晴らしさなども付け加えた。
最後に子供達の質問を受け付けた。
「もし目が見えるようになったら何を見たいですか?」
一人の少女が僕に尋ねた。
僕は日常、バス停などで無意識に空を眺めているという話をして、
空を見たいのかもしれないと答えた。
それから、知人に聞いた話をした。
「あのね。何を見たいですかと尋ねる時、尋ねる人の心の中には
見せてあげたいという気持ちがあるらしいよ。
見せてあげたいと思うからそういう質問になるそうだよ。
ありがとう、うれしいね。
だから、そう思ってくれたやさしい君の顔を見てみたいね。」
授業が終わって帰る間際、少女が僕に声をかけてくれた。
少女は自分の氏名を名乗ってから、
「私の顔を見てみたいと言ってくださって、とってもうれしかったです。ありがとう
ございました。」
それだけを僕に伝えた。
僕達は握手をした。
握手をしたまま、お互いを見つめた。
そして、微笑んだ。
(2015年9月9日)

島人ぬ宝

僕は講演終了後も意見交換会に参加し、
そのままの流れで二次会にも参加した。
下戸の僕はウーロン茶で過ごすのだけれど
酒宴の雰囲気が嫌いなわけでもない。
楽しい時間に身を任せ、
その輪の中に入れてもらっていることもうれしく感じることも多い。
奄美の喜界島から参加してくれた彼はとても歌がうまかった。
聞き惚れてしまった。
彼は僕の隣に来てくれて、
出会えて良かったと何度も言ってくれた。
世界が広がったような気がするとも言ってくれた。
そして最後に「島人ぬ宝」を歌ってくれた。
ビギンの歌で僕も好きな歌だ。
でも彼はそれを奄美の言葉で歌ってくれた。
僕は鹿児島県阿久根市の出身なのだけれど、島の言葉は何も判らなかった。
ただ暖かな声が心にまで浸みこんできた。
圧倒的な迫力まで感じた。
彼のやさしさが伝わってきた。
そしていつか奄美の潮風を感じてみたいと思った。
(2015年9月6日)