講義・スタート

僕が勤務している専門学校や大学も新年度がスタートした。
専門学校での講座は必須科目で全員が受講する。
大学の「社会福祉学特殊講義」という講座は選択科目となっている。
希望する学生だけが受講するのだ。
履修届を提出しても実際には受講しない学生もいるから、
スタートしてみないと実数は判らない。
受講生が集まらなかったら開講されないということになる。
僕自身もちょっとの不安を抱えながらのスタートということになる。
今年度も30名近くの学生が集まり無事開講ということになった。
うれしいことだ。
学生達に講座へのメッセージを書いてもらった。
「誰かの力になりたい。」
「街中で白い杖の人を見かけた時に手伝えるようになりたい。」
「社会の役に立つ人になりたい。」
18歳の若者達の誠意のあふれる言葉がならんでいた。
それはそのまま僕へのエールでもあった。
これからの1年間、30回の講義が楽しみになってきた。
若者達と一緒に未来を見つめる時間を過ごしたい。
(2016年4月22日)

舞鶴

駅前には引揚桟橋の模型があった。
僕はその桟橋に立ってみた。
六十数年前、まだ二十歳代だった父はこの橋を渡って祖国の土を踏んだのだ。
そしてそれから93歳まで生き抜いた。
その中で僕も命を頂いたのだ。
きっといくつもの偶然が重なって必然となったのだろう。
熊本地震のニュースを聞きながら、
当たり前だと思って生活している日常がそうではないことを知る。
理屈では判ったような気でいた自分自身が恥しくもなる。
今日があるから明日があると勝手に思い込んでいるのは錯覚なのだ。
今日生きていられることは幸せなことなのだ。
そう思ったら感謝の心が自然に生まれてくる。
そして犠牲者が一人でも少ないようにと心から願う。
(2016年4月17日)

春風みたいな

午前中は休みだったので久しぶりにお昼のニュースを聞いてからゆっくり家を出た。
風は少しだけ吹いていて、お日様もいい感じの光を地上に届けてくださっていた。
いい感じというのは強さも量も丁度ということだ。
失明してもう20年近くもなると、
日々の暮らしの中では目が見えないということを忘れているような感じだ。
きっと視覚以外の五感を使うのが当たり前になっているのだろう。
そしてそれで結構いけるのだ。
気持ちいいなと身体で伸びをしながら歩いた。
それだけでのどかさの中にいる自分がうれしかった。
バス停に着いてまもなくしたら、
「ま・つ・な・が・さーん!お出かけですか?」
女性の可愛い声だった。
バス停の前の団地に住んでおられるとかで時々声をかけてくださる。
バス待ちのわずかな時間に、桜が散ってしまったことなどを教えてくださった。
それから一緒のバスに乗車して空いてる席に誘導してくださった。
そこから先は判らない。
ただそれだけの出来事。
こんな日は春風みたいな人に会うものなんだな。
妙に納得しながらうれしかった。
(2016年4月12日)

おじいさん

「昨日の嵐でだいぶ散りましたなぁ。」
きっとバス停から見える桜の話だろう。
語り口と滑舌でおじいさんと判った。
「地面が桜色に染まっているのでしょうね。」
僕は尋ねたけれども一回では通じなかった。
だいぶ耳も遠くなっておられるようだった。
バスのエンジン音が近寄ってきた。
ドアが開いた時に行先案内の放送が流れた。
それが確認できた僕には何の問題もなかった。
僕がバスに向かって動き始めようとした時、おじいさんは僕の腕をつかんだ。
僕をバスまで連れていこうとしてくださったのだ。
でも、足元はおぼつかなく半分は僕にぶらさがった状態だった。
僕はおじいさんの歩調に合わせた。
バスの乗車口に着くと、僕はいつもより大きな声でゆっくりと話した。
「ありがとうございました。助かりました。」
今度は一回で通じたようだった。
「頑張りなさい。」
おじいさんは少しうれしそうにおっしゃった。
亡くなった親父を思い出した。
思い出しただけで涙が出そうになった。
おじいさんがもっともっと長生きしてくださるように祈った。
(2016年4月9日)

褒められて

ライトハウスへ向かうバスに乗車した。
新入生らしい大学生の集団、研修に向かう様子の新社会人のグループ、
そして観光にきたと思われる外国人の旅行者達、
車内は身動きもできないくらいの満員状態だった。
僕は手すりに捕まってただじっとしていた。
バスは停留所に停まるたびに一定の降車乗車を繰り返したが、
混雑にほとんど変化はないようだった。
僕は相変わらずただじっとしていた。
いくつかの停留所を過ぎた頃、おばあさんが僕の手を握った。
「前が空いてるからお座りやす。」
そしておばあさんも一緒に横並びで座った。
ずっと空いていたのかたまたま空いたのかは判らなかったが、
ライトハウスまではまだだいぶある場所だったので僕はうれしかった。
「ありがとうございます」
おばあさんに感謝を伝えた。
「私も今目医者さんまで行くのですけど、見えんようになったらもう家から出やしま
せん。おたくさんは偉いどすなぁ。ほんまに偉いどす。」
おばあさんはまるでわが子を褒めるみたいな口調でおっしゃった。
「偉くなんかありません。くよくよしても仕方ないですからね。
ただそれだけです。」
おばあさんはたった10分間くらいのやりとりの中で、何度も偉いと褒めてくださった。
満員のバスの中で、入園式にも入学式にも入社式にももう縁がない僕とおばあさんだ
けの不思議な空間ができていた。
人生の先輩と後輩という関係だけで作られた空間だった。
僕は偉くはないけれど、
子供の頃父ちゃんや母ちゃんに褒められた頃のようなうれしさを感じていた。
「今ね、あちこちで桜がこぼれんくらいに咲いていますよ。
綺麗どすえ。見せてあげたいどすなぁ。」
おばあさんはその言葉を残して降りていかれた。
僕は桜を思い浮かべた。
満ち足りた気持ちになっていた。
(2016年4月5日)

桜まつり

地域の視覚障害の仲間達と桜まつりに参加した。
まつりの会場では毎年点字と手引きの体験コーナーが企画されるのだ。
小学生から一般市民までいろいろな人達が体験してくださる。
ボランティアさんの指導で点字で氏名を書いた子供が緊張しながら僕の前に並ぶ。
その文字を僕の指が辿り読んでいく姿で、
子供達は点字が文字であることを実感するのだ。
隣では初めての体験という女性が、
視覚障害の仲間を実際に手引きして会場を歩いてうれしそうに帰ってきた。
あちこちで初めての体験に驚きや喜びの声が聞こえてくる。
とても地味な活動だけれどもコツコツと続けていくことに大きな意味があるのだろう。
実際僕達に声をかけてくださる人の数は確実に増えている。
こういう活動の結果なのだろう。
たまたま通りかかった女性が「松永先生!」と近寄ってきた。
専門学校の教え子だった。
二人の子供のママになっていた。
ママは子供を僕の前に連れてきて僕と握手をさせた。
卒業してもう何年もなるのに、
僕が伝えたかったことをしっかりと受け止めてくれていたのだろう。
何よりも暖かなメッセージに感じられた。
手引き体験で一緒に歩いた中学生は、
以前僕の講演を聞いてくれていた生徒だった。
僕と一緒に歩くことで何かを伝えようとしてくれていたのかもしれない。
この街で暮らし始めて30年の時間が流れた。
最初の10年は見えていた。
小畑川沿いの桜並木の美しさははっきりと記憶にある。
桜を目で確認することはできなくなったのに、
毎年満開を待っている僕がいる。
桜に集う人達の一人であることがうれしいのかもしれない。
集えれば、やさしい人に出会える。
やさしい人に出会えればうれしくなる。
(2016年4月2日)

比叡山

大学の職員研修の仕事で精華大学を訪れた。
40年ぶりのキャンパスだった。
青春時代の苦い思い出の場所だ。
やさしい人でありたいと願いながらもやさしい人にはなれなかった。
実際はやさしい人を傷つけてしまったのだろう。
生きていく意味や価値などに気づくようになったのは、
ひょっとしたらつい最近のことなのかもしれない。
いや本当はまだまだ判っていないのかもしれない。
とにかく二十歳前後の頃は今よりもずっとずっと判っていなかった。
ただすべての経験が今の僕につながっているとしたら、
苦い思い出さえも有難いことなのだろう。
そんなことを考えながら学校を出た。
運転してくれていた同僚に車窓の風景を尋ねたら、
40年前と同じようにそこに比叡山があった。
比叡山のなだらかな稜線までが鮮やかに蘇った。
やさしい人が大好きだと言っていた風景が記憶のアルバムに残っていたのだ。
挫折や失敗の中にありながらも豊かな時間だったのだろう。
(2016年3月28日)

店長さん

「先生、お元気そうですね。」
たまたま他のお客様の見送りで店先におられた店長が声をかけてくださった。
京都の街中ではちょっと人気の和食屋さん、
久しぶりに訪ねたのに憶えていてくださってうれしい気分だ。
「お久しぶりです。店長もお元気そうですね。」
僕も笑顔で挨拶を返した。
僕の記事が掲載されていた月刊誌を読んでくださったご縁で、
先生と声をかけてくださるようになったようだ。
講演をしたりメディアに取り上げてもらったりする中で、
先生と呼ばれることが多くなった。
最初の頃は僕は先生ではありませんと説明したり、
気恥ずかしくて下を向いたりしていたのだが、
いつの間にか違和感を感じなくなった。
慣れてしまったのだろう。
これは僕が先生らしくなったということではなくて、
敬称としては使いやすいものだと判ってきたからだろう。
夜の裏通りのお姉さんから、
「ねえ社長さん!」と呼び止められるのと同じようなものなのだ。
先生と呼ばれてその気になれば、
いくらでも落とし穴があるのは僕でも知っているつもりだから、
いつも自分を戒めることは忘れないようにしている。
店長さんは店に入るとすぐに僕のサポートをしてくださった。
古い町家を手直ししてある店内のとても急な階段を、
僕がおっこちないように支えながら歩いてくださった。
当初は「いらっしゃいませ。」とか「ありがとうございました。」くらいだったのが、
今では普通に普段着の会話ができるようになった。
とても上手とは言えないサポートだけど、
店長さんのやさしさが伝わってくる。
先生でもおじさんでもオッチャンでも何でもいい。
声をかけてもらうというのはうれしいことだ。
サポートを受けられるというのは有難いことだ。
(2016年3月24日)

サシャ

2年ぶりに再会したサシャはとても日本語が上手になっていた。
セルビアの出身でカナダに住んでいる。
日本出身の彼女とカナダで出会い、
今回は彼女の故郷で結婚式を挙げるために来日したのだ。
彼女はカナダで視覚障害の子供の教育に関わる仕事をしていて、
たまたま僕の著書も読んでくれていたというご縁で知り合った。
繋がることでお互いにスキルアップできればという思いはあったけれど、
僕にとったらサシャと知り合えたことも大きかった。
京都の真ん中の御池通りをサシャに手引きしてもらって歩いた。
身長は2メートル近くあるのだろうか、
この前までカナダの海軍で軍艦に1年近く乗船していたとのことで、
まさに強靭という感じだった。
サシャの人生を詳しく知っているわけではないが、
地球サイズの感覚を持っている彼に比べれば、
僕は貧弱なものだ。
素直にうらやましく感じた。
日本で困ることを尋ねたら、
タトゥがあるから大浴場の入浴などを断られると笑った。
あらかじめ申し出れば宿泊さえ断られることがほとんどとのことだった。
カナダではファッションのひとつで、
学校の先生も警察官もタトゥがあるのにと説明してくれた。
サシャの手引きは何も問題はなかった。
誰かが誰かを手伝うということ、
言葉以上のものが存在するのだろう。
やさしさに国境はないのだ。
素敵な二人が幸せでありますように!
(2016年3月20日)

兄妹

お兄さんに促された彼女は僕の手をそっと握った。
「ずっと会いたいと思っていました。」
小さな声で控えめな口調ではあったけれど、
何故かつぶやきは僕の心にしっかりと届いた。
僕は照れ臭かったけど感謝を伝えた。
僕と彼女に特別な接点はない。
たまたま僕が出演していたラジオを聞いてからそう思っていてくれたとのことだった。
僕が何を話、それが彼女にどう響いたのかは判らない。
でもそれが希望につながる話しになっていたとしたら光栄なことだ。
12歳で失明してから二十数年を地方都市で過ごしている彼女の人生、
きっと僕には想像できないようなこともあるのだろう。
でも、人間としての思いは同じなのだ。
きっとそれを直接確認するために彼女は京都まで来たのだろう。
「目は見えなくても幸せになろうね。」
自分でも驚くような言葉が僕の口からこぼれた。
彼女は微笑んだ。
妹を京都まで連れてきたお兄さんも微笑んだ。
そして僕も微笑んだ。
(2016年3月18日)