いつものように電車を降りた瞬間、
コンチキチンの音色が耳に飛び込んできた。
7月が始まったのかとしみじみと思った。
地上に出て四条河原町を歩いたら、
浴衣姿の女性グループやカップル達とすれ違った。
それをうれしそうに僕に教えてくれたサポーターの声は、
前後の外国人の話し声にかき消されそうになっていた。
夏の始まりの予感の中に平和な古都があった。
うだるような夏はあまり好きではないのだけれど、
京都にはそれがよく似合うんだな。
そしてその風景の中に白杖の僕がいるとしたら、
それはとってもうれしいことだな。
祇園祭の宵山の夜、久しぶりにぞろぞろ歩いてみようかな。
(2016年7月2日)
コンチキチン
雨の日
どしゃぶりの雨だった。
右手に白杖を持ち左手で傘をさして、
横断歩道の点字ブロックの上に立って信号待ちをしていた。
雨の日は聞こえにくい車のエンジン音を聞くことに集中していた。
エンジン音が止まったタイミングで、
周囲の安全を確認しながらまっすぐに渡らなければいけない。
結構難しい作業だ。
躊躇したら危険なので自信がない時は無理に動かないことにしている。
動かないことも技術のひとつだと思っている。
今日もきっと青があったのだろうけど自信がなかったので動かなかった。
いや動けなかった。
ちょっとの時間も流れていたのだろう。
後からきた人がいつの間にか隣に並ばれたのにも気づかなかった。
「今黄色から赤に変わったばかりですからまだですよ。」
年配の男性の声だった。
僕はありがとうございますと返事をした。
しばらくして、
「はい、青になりました。右も左も大丈夫です。」
男性はそう言いながら渡り始められた。
僕もその後ろについて渡り始めた。
「渡り終りましたよ。」
男性はそう言うと右に歩いて行かれた。
「ありがとうございました。助かりました。」
僕はそう言って左へ曲がった。
交わした会話はただそれだけだった。
どこの誰なのかも判らない。
明日すれ違っても会釈もできない。
でもこういう日々の出会いに僕の暮らしが支えられているのだ。
ひょっとしたら命を助けてもらっているのかもしれない。
そして左に曲がって歩き始めた時、
僕の心は確かに幸せを感じていた。
人間っていいなぁ。
(2016年6月27日)
電車
朝7時過ぎの阪急電車に桂から乗車した。
僕は友人と一緒だった。
目が見えている友人はそっと教えてくれた。
「松永さん以外に白杖の人が二人乗車しておられます。」
僕はそれを聞いただけでうれしくなった。
同じ車両の中だったけれど、僕を含めた3人の視覚障害者はそれぞれ別々だった。
たまたま同じ車両に乗り合わせたということだ。
京都では白杖で街を歩く人が確実に増えている。
それは視覚障害者が増えたということではなく、
白杖で社会参加する人が増えてきたということだ。
丁度昨日、先天盲の先輩と話をしたばかりだった。
彼女は点字ブロックも音響信号もない頃からこの街を歩いてきた。
僕には想像できない。
もし僕がその時代だったら怖くて家から出れなかったかもしれない。
「白杖で歩こうという人も、手伝ってくれる人も、どちらもが増えてきたのよね。」
彼女は淡々とうれしそうに語った。
その時代が苦しかったとも悲しかったとも言わなかった。
先輩達の話を聞きながら、人間が生きていく姿を美しいと感じることが多くある。
そして、僕もそんな風に生きていけたらと思う。
僕が乗車した電車は間違いなく未来に向かって走っているのだと感じた。
(2016年6月24日)
少年
エレベーターに乗った時から子供達の声は聞こえていた。
鬼ごっこでもしているのだろうか。
階段を駆け上がったり駆け下りたり自転車置き場に隠れたり、
時々悲鳴をあげたり大声で叫んだりしながら走り回っていた。
子供達にとっては団地の構造自体が格好の遊園地なのだろう。
大きな笑い声が楽しそうだった。
ただそれは白杖の僕にとっては恐怖の状態そのものだった。
どこから子供が飛び出してくるか判らない。
予想ができない。
エレベーターを降りた時から僕は慎重にゆっくりと歩き始めた。
数歩進んだ所で、
「目が見えへん人やで。」
気づいた子供の一人が小さな声でつぶやいた。
いくつもの足音が僕の近くで止まった。
声はしなかったが肩で息をしているのが伝わってきた。
いつもの方向に進もうとした瞬間、白杖が停めてあった自転車に当たった。
自転車は大きな音をたてて倒れた。
いつもはそこには自転車はない場所だった。
きっと誰かが遊びの中で通路に動かして停めてしまったのだろう。
「ごめん、ごめん。」
僕が倒れてしまった自転車を起こそうとした瞬間、
「大丈夫ですか?」
一人の少年が僕に駆け寄った。
それを合図に他の子供達も声を出した。
「大丈夫ですか?」
自転車を立て直す子供もいた。
「僕は大丈夫だよ。当たったのは杖の先だけだったからね。自転車も壊れていないか
な?」
自転車も大丈夫とのことだった。
「何も見えないのですか?」
しっかりした口調の少年が僕に尋ねた。
「そうだよ。君の年の頃は見えていたから、僕もよく鬼ごっこやかくれんぼをしたな
ぁ。40歳の頃病気で見えなくなったんだよ。」
僕はそう言って歩き始めた。
「もう少し先が下り坂ですよ。」
少年は僕に並んで歩きながら説明した。
僕は白杖で探りながら足元はだいたい判ることを伝えた。
それからその先の歩道と芝生の分かれ目も白杖から伝わってくる感触で確かめている
ことも伝えた。
「凄いですね。」
少年はそう言って立ち止まった。
もう少年はついて歩こうとはしなかった。
僕が単独で行けると判断したのだろう。
僕はまた白杖を左右に振りながら歩き始めた。
そこから少し歩いて壁に白杖がぶつかった場所で左へ方向転換をするのだけれど、
「その先、ぶつかりますよ。」
少年の大きな声が後ろから追いかけてきた。
僕の後ろ姿を見守ってくれていたのだろう。
僕は振り返って大きな声で答えた。
「ぶつかったところが曲がる印なんだよ。だから大丈夫。」
「気をつけて行ってください。さようなら。」
少年は大きな声で笑いながら手を振った。
ありがとうと言いながら、僕も笑って手を振った。
(2016年6月21日)
父の日
小さな花束を買ってリュックサックにそっと入れた。
花束の上の花の部分はリュックサックから顔を覗かせている状態だ。
きっと見た目は変なおじさんなのだろうけど気にはしないタイプなので平気だ。
これでいつものように白杖を左右に振って歩ける。
花を傷めずに持って帰れる。
父ちゃんが喜んでくれるかなと思ったら、それがうれしい。
父ちゃんが93歳でこの世を去ってもう1年半が過ぎた。
いい加減にあきらめたらいいのだろうけど、
まだまだ受け入れようとしない僕がいる。
あの時、僕はベッドに横たわった父ちゃんの口元に耳を近づけて、
呼吸の音がしないことを確認した。
通夜の時、冷たく硬くなった父ちゃんの身体を手で触って確認した。
火葬場では骨も触らせてもらった。
それなのになかなか受け入れられないのはどうしてなのだろう。
死に顔を見ていないからだろうか。
何もできなかった自分が悔しくてたまらない。
いつまでもグズグズした気持ちを持っていたら父ちゃんに叱られるのは判っている。
ごめんなさいとつぶやきながら、
花束で飾られた父ちゃんの遺影に手を合わす父の日になるのだろう。
自分の失明を受け入れた時よりも時間がかかるのかもしれない。
やはり人間は愛する人との別れが一番つらいということなのかな。
(2016年6月18日)
母校
母校の佛教大学での講演だった。
社会福祉を学ぶ学生達に僕自身の学生時代の思い出も絡めながら話をした。
一人一人の学生達の人生に語りかけようとしている僕がいた。
後輩というだけで学生達に親近感を覚えた。
気が遠くなるような時間が流れたはずなのに、
キャンパスのあちこちに思い出のかけらが落ちていた。
僕が在学していた当時と比べればきっと風景は一変しているのだろうが、
画像の変化を確認できないということが幸いしている感じだった。
あの頃、ジーパンのポケットにはいつも文庫本があった。
適当な場所を探して座り込んでは時間が経つのを忘れて読みふけった。
乾いたのどが水を求めていたような感じで読んでいた。
そして読むことに少し疲れたら、
校舎の間から見える空を眺めた。
ぼんやりとただ眺めていた。
そんなことを思い出して空を眺めたら、
37年前と同じ色の空があった。
懐かしいという感覚よりも愛おしいという気持ちが大きかった。
ちょっとだけ夢見た立身出世とは縁がなかったけれど、
僕なりに頑張って生きてきたことに満足はしているのだろう。
いやお金や地位よりももっと素敵なものがあることに気づいたのかもしれない。
負け惜しみかな。
文庫本の活字は読めなくなってしまったけれど、
大切なことをポケットに感じながら僕は僕の残りの人生を生きていきたい。
(2016年6月14日)
ホタルが暮らす街
同じ町内に住む友人からのメールに気づいたのは朝だった。
夜遅かったので電話で伝えたいという気持ちを抑えてメールを選んだと書いてあった。
「小畑川の上をゆっくり静かに小さな可愛らしい黄緑色の光が動いていました。
ゆらゆら移動しながらついたり消えたりを繰り返していました。」
近くの川で3匹のホタルを見つけたらしい。
小さな光の描写はまるで僕の脳に映像を送り届けているようだった。
僕は朝の静けさの中でホタルの光を思い出していた。
遠い遠い過去の微かな光だった。
もうそれは黄緑色だったかさえも記憶はさだかではない。
見えなくなって20年近い時間が流れてしまった。
慣れたと言えばそうなのかもしれないし、
いつまでたっても見たいと思う僕もいる。
見えないことはうれしいことではない。
残念なことなのかもしれない。
でも、届けられた描写で人はこんなにも豊かな気持ちになれるのも事実だ。
ホタルが暮らす街で僕も生きているんだ。
梅雨空には似合わない爽やかな朝が始まった。
(2016年6月8日)
ニュース
見えなくなってからニュースはラジオで聞くようになった。
テレビのニュースではどうしても映像が中心になるので、
様々な場面や状況がなかなか伝わってこない。
事件現場の説明、天気予報、スポーツニュース、すべてがそうだ。
ラジオは元々音声だけで伝えるように製作されているので、
見える人も見えない僕も同じ条件となる。
テレビのニュースでもうひとつ困ったのは海外の話題の時だった。
外国人の発言は字幕スーパーとなってそれぞれの原語で流れる。
英語が多いのだろうけど、
その英語さえ僕はまったく理解できない。
学生の頃もっとちゃんと英語を勉強しておけばよかったと何度も真剣に後悔した。
後悔先に立たずとはまさにこんなことなのだろう。
ラジオのニュースがしっかり僕の日常となった。
先日も朝のコーヒーをすすりながらなんとなくラジオに耳を傾けっていたら、
行方不明になっていた少年の発見のニュースが流れた。
少年という単語でコーヒーを持つ手が一瞬止まったが、
無事ということが判ってまたゆっくりとコーヒーをすすった。
うれしくていつもよりコーヒーをおいしく感じた。
飲み終わって笑顔がこぼれた。
いいニュースは僕の日常まで明るくしてくれる。
いいニュースにたくさん出会いたいな。
(2016年6月4日)
貴美女児(キビナゴ)
新鮮なキビナゴのお刺身を酢味噌につけて口に運ぶ。
銀色に光りながら泳ぐキビナゴの姿を思い出す。
少年時代が蘇る。
人差し指ほどの流線型の小さな魚が群れを作って泳ぐ姿を美しいと感じた。
キラキラ輝いていた。
あれは故郷の海で見た映像だったのだろうか。
こうして蘇る映像の記憶には美しい自然の姿が多くある。
人間は無意識に美しいものを記憶していくのかもしれない。
食べるという行為からでもその映像の記憶に結びつくのだから五感のつながりは不思
議だ。
見えなくなってもう20年にもなるのに、
道端の美しい花を教えてもらったりしたらつい触りたくなる。
これもそういうことなのかもしれない。
「貴美女児」
きっと当て字だろう。
誰が考え付いたのかは知らないけれど、
この漢字さえも美しいなとあらためて思った。
(2016年5月31日)
りんごの花
佐賀県の視覚障害の友人からメールが届いた。
青森で開催された視覚障害者の全国大会に参加しての感想だった。
彼女は全盲だけれどもほとんど単独で移動している。
僕が彼女に初めて出会った東京でもそうだったし、
何かの用事で電話した時も一人で新幹線に乗っておられた。
今回の青森も一人で出かけたとのことだった。
しかもそこに特別な身構えもないし悲壮感も感じられない。
度を身体全体で楽しんでいるのが伝わってくるから凄い。
僕にはそこまでは無理だなと思いながらもどこかで憧れてしまう。
単独で移動することが特別にいいことだとは思っていない。
単独でもいいし盲導犬同伴でもいいし家族と一緒でもいいしサポーターの目を借りな
がらでもいい。
自分にあった方法で移動すればいいのだ。
彼女に憧れるのは移動そのものではなくて、
そこから感じられる彼女の生き方が素敵だからだろう。
彼女は県の代表として活躍されているというのは知っていたので、
きっと今回の青森大会にも参加しておられるだろうなと想像はしていた。
大会前日の代表者会議で発言した僕の声で彼女は僕がいることを確認できたとのこと
だった。
代表者会議には500人くらいが参加していたので、
僕は彼女を直接には確認できなかった。
同じ会場にいても見えない者同士はなかなか出会えなかったりするから面白い。
会議の合間を縫って僕も彼女もそれぞれに青森の街を歩いた。
サポーターの目を借りて歩いた。
そしてどちらもが咲き残っていた街路樹のアルプス乙女の花を見つけていたのだ。
彼女のメールでそれを知った瞬間、僕はとってもうれしくなった。
今回は直接は出会えなかったけれど、
青森の街で僕達は同じものを見たのだ。
見えない者同士が同じものを見ていたのだ。
そして同じ思い出が残った。
同じサポーターだったわけでもないし相談していたわけでもない。
見せてあげたいと思う人達と見えない僕達。
心が通い合うとこんな奇蹟も起こるものなんだな。
りんごの花が忘れられない青森の旅となった。
(2016年5月26日)