出勤

早朝からエアコンのよく効いているバスに乗車する。
通勤時間帯には少し早いせいか乗客も多い雰囲気ではない。
静寂の中で少し眠気も引きずりながらバスは駅へと急ぐ。
バスが停留所に停車し前後のドアが開く。
乗客の足音よりも早いスピード、大きな音でセミの大合唱の声が聞こえてくる。
乱入してくるという感じだ。
「夏。」
一瞬その単語だけが脳裏に浮かぶ。
ドアが閉まるとそれまでの静寂が戻る。
何事もなかったようにバスは走り始める。
次の停留所に着くとまた同じことを繰り返す。
画像のない僕に夏はしっかりと自己主張をする。
いかにも元気な夏らしいなと微笑んでしまう。
バスが駅に着く頃には僕もすっかり出勤モードになっている。
バスを降りるともう一度セミの大合唱に耳を澄ます。
夏の朝の始まりの中に生きている僕を確認する。
それからおもむろに白杖を握り直して歩き始める。
(2016年7月25日)

10年ぶり

桂駅から烏丸へ向かう特急電車に乗車した。
いつもだいたい込んでいる。
ひょっとしたらどこか空いてる席もあるかもしれないのだけれど、
僕には探すことはできない。
入口の手すりを持って立っているのが日常だ。
所要時間は10分程度だから苦にはならない。
見えないから座れないと思うのは悔しいから、
健康増進にいいと自分に言い聞かせて立っている。
もうちょっと老けたらサポートの声も多くなるかもしれない。
自分の容姿は39歳までしか見ていない。
その頃の記憶はほとんどない。
鏡を見る習慣もなかったし、それどころではなかったのかもしれない。
親のアルバムに貼ってあった小学校低学年の頃の写真は憶えている。
我ながら可愛らしい男の子だった。
小さい頃可愛い子は大人になると不細工になると聞いたことがあるが、
そのたぐいだったのかもしれない。
若い頃、容姿を褒められたことは一度もなかった。
「イケメン」なんて単語もなかったし自分自身の興味もなかったのだろう。
だから今でも自分の容姿に興味はないのだけれど、
視覚情報がないせいでの変は避けたいという気持ちは大きい。
顔や衣服に汚れが付着したまま歩いているというのは自分でも嫌なのだ。
知り合いのボランティアさん達にもその時は教えてねと頼んでいる。
自然に社会に溶け込みたいと思っているということだろう。
漠然とそんなことを思いながら立っていたら、
「松永さん、お久しぶりです。宮川です。」
懐かしい男性の声がした。
子供さんが小学校3年生ということは10年ぶりくらいの再会かもしれない。
僕と途中までの経路が同じと確認した彼は、
「途中までサポートします。どうぞ肘を持ってください。」
10年前と同じように申し出てくれた。
「声はちょっとオッサンになりましたね。」
僕は笑いながら彼の肘を持って歩いた。
改札口で御礼を言って別れた時、
彼の笑顔の爽やかさは変わってないなと思った。
爽やかな中年男性、素敵だなと感じた。
僕も爽やかなおじいさんになれるように頑張ろう。
(2016年7月22日)

梅雨明け

祇園祭の頃に雷がとどろいて雨が激しく降れば梅雨が明ける。
コンチキチンの音色と共に盆地特有のうだるような京都の夏が始まる。
京都で暮らし始めた頃、近くにあったお好み焼き屋のおばあちゃんが教えてくれた。
もう40年くらい前の思い出だ。
確かに毎年、だいたいそんな感じで夏は始まった。
だから今年もそろそろだなと思っていた。
今朝歩きながらセミの大合唱に気づいた。
僕は確信を持った。
夏が始まった。
夕方帰宅してニュースを聞いたら、
近畿地方の梅雨が明けたらしいとのことだった。
僕はニヤリとしながら麦茶を飲みほした。
(2016年7月18日)

記念写真

講座の中での僕は厳しいとよく言われる。
若い学生達が対象の場合など語気を強めたりするのも珍しくない。
特別に厳しくしなければとは思っていないし効果的だとも思わない。
穏かな時間の中でしっかりと伝えられればそれが一番いい。
僕自身の力量が不足しているのかもしれない。
ただなかなか伝えられない時に、
いろいろな学生がいるからと簡単にあきらめることはできない。
仕事だからと割り切ることもしたくない。
いつも真剣に必死になっている僕がいる。
未来を託そうとしているのかもしれない。
裏返せば、未来はまだまだ遥か遠くということになるのだ。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる社会、
一歩でもそこに近づきたいと思っている。
そのために活動している。
三日間の講座を終えて会場を出ようとした時、
「一緒に記念写真を撮ってください。」
学生達が僕を取り囲んだ。
僕は笑顔でカメラの方角に視線を向けた。
撮影された記念写真を僕が見ることはない。
それを理解したうえで一緒に写ろうと言えるようになった学生達、
僕と一緒にそれぞれの笑顔でカメラを見つめられた学生達、
僕はとてもうれしく感じた。
成長してくれたのだなと感じた。
僕達が一緒に見つめたカメラの向こう側に、
きっと未来が輝いている。
(2016年7月15日)

いとしのエリー

さわさわ宛に届いた手紙の差出人、
旧姓も書いてあったがすぐには思い出せなかった。
封を開けてスタッフに代読を頼んだ。
スタッフが読み進めるにつれてセピア色の記憶が蘇ってきた。
大学時代の友人からのものだった。
控えめな彼女の笑顔までが蘇った。
誠実さが伝わってくる文面だった。
ラジオから流れてきた「いとしのエリー」を聴いて僕を思い出してくれたらしい。
気まぐれにインターネットで僕の名前を検索して
手紙の送り先のさわさわも見つけたようだった。
便利な世の中なんだなとあらためて実感したし、
パソコン力の低い僕は自分でひとつひとつを確認できないので、
僕がどんな風に紹介されているのかちょっと不安にもなった。
僕の話し方がすっかり関西人になったとも書いてあったということは、
どこかに僕の声までも公開されているのだろう。
恥ずかしさはあるけれど、
インターネットが37年ぶりの彼女とのつながりのきっかけとなったとすれば、
それはそれで有難いことなのだろう。
彼女の記憶では「いとしのエリー」が僕の下宿でよく流れていたらしい。
確かに青春時代の思い出の一曲だ。
薄汚れた三畳一間で過ごした大学生活、
いつもそこには好きな音楽があった。
貧しかったけれど豊かな時間ではあった。
いくつかのレコードのジャケットまでを記憶している。
あの頃の僕は目が見えていたのだ。
今の自分を不幸だとは思わないけれど、
あの頃見ることができていたのはやっぱり有難いと感じる。
今度休みが取れたら、
白杖をしっかりと握ってあの頃の彼女に会いに行こう。
あの頃の僕のまま会いに行こう。
(2016年7月12日)

講演が終わって控室に帰る時、
署長が歩きながら涙をぬぐっておられるのが判った。
控室のソファに腰を下ろした僕にお茶を勧めながら、
「カッコよかったですね。」
思いがけない言葉で感想を述べられた。
それから一呼吸おいて、
「言葉が見つからない。」とおっしゃった。
やさしさが伝わってきた。
僕は感謝を伝えて次の会場に向かった。
お会いするのがもう三回目となる社長は、
講演の前に僕を紹介するスピーチが途中で止まった。
画像のない僕は一瞬何が起きたのかは判らなかったが、
直後の社長の声で状況を察することができた。
社長はこみあげてくるものを必死にコントロールしようとしておられた。
「誰かに伝えようという気持ちになります。」
そんな言葉でスピーチは締めくくられた。
やさしさが伝わってきた。
それぞれの組織のリーダーという重責を担っている二人の50歳代の男性は、
それぞれの思いを胸に言葉を紡ごうとされていた。
それは単純に自分の組織のためにというものではなく、勿論、僕のためにというもの
でもなかった。
人間の社会の進むべき方向を見つめておられるのが伝わってきた。
こうやって長い時間の中で人間の社会は成熟してきたのだろう。
そしてもっとそうなっていくのだろう。
それぞれの涙を僕は美しいと感じた。
(2016年7月9日)

ソーメン

僕よりちょっと年上の彼女は生まれた時から目は見えなかった。
九州の小さな田舎町でお母さんと暮らしていた。
お母さんは大切に育ててくれたとのことで、
出かける時はいつも手をつないでくれたらしい。
買い物にも食事にも連れて行ってくれたし、
演歌歌手のコンサートにも行ったことがあるとうれしそうに話してくれた。
ただ事情は判らないが学校は行かなかった。
時代が出した答えだったのかもしれない。
一度でいいから学校というところに行ってみたかったなと彼女が笑ったことを、
学校に行くのは当たり前だと思っていた僕は不思議な感覚で聞いていた記憶がある。
そのお母さんが他界され京都の視覚障害者施設に入所した。
僕ともそこで出会って10年以上の時間が流れた。
彼女はその間に歩行訓練士に白杖の使い方を教えてもらった。
施設の近くのコンビニまでは買い物に行けるようになった。
「一人で買い物に行く姿をお母さんに見せてあげたかった。」
彼女の何気ない一言にお母さんへの感謝の思いが込められていた。
僕は彼女と友達になった。
先日久しぶりに出会ったら、地域の視覚障害者団体のバス旅行の話をしてくれた。
僕も行きたかったのだけれどスケジュールが合わなかった。
「とっても楽しい旅行でしたよ。次は松永さんも一緒に行きましょうね。
お忙しいのは知っていますけど、ゆっくりするのも大事ですからね。」
お土産のソーメンの袋を僕に手渡しながら彼女は笑った。
彼女は施設で箱折などの作業をしている。
毎日頑張って働いている。
一か月の工賃は1万円くらいだということを僕は知っている。
豊かに生きていくってどういうことなのか、
人間の価値って何なのか、
学校に行ったことのない友達はまた僕に教えてくれた。
(2016年7月5日)

コンチキチン

いつものように電車を降りた瞬間、
コンチキチンの音色が耳に飛び込んできた。
7月が始まったのかとしみじみと思った。
地上に出て四条河原町を歩いたら、
浴衣姿の女性グループやカップル達とすれ違った。
それをうれしそうに僕に教えてくれたサポーターの声は、
前後の外国人の話し声にかき消されそうになっていた。
夏の始まりの予感の中に平和な古都があった。
うだるような夏はあまり好きではないのだけれど、
京都にはそれがよく似合うんだな。
そしてその風景の中に白杖の僕がいるとしたら、
それはとってもうれしいことだな。
祇園祭の宵山の夜、久しぶりにぞろぞろ歩いてみようかな。
(2016年7月2日)

雨の日

どしゃぶりの雨だった。
右手に白杖を持ち左手で傘をさして、
横断歩道の点字ブロックの上に立って信号待ちをしていた。
雨の日は聞こえにくい車のエンジン音を聞くことに集中していた。
エンジン音が止まったタイミングで、
周囲の安全を確認しながらまっすぐに渡らなければいけない。
結構難しい作業だ。
躊躇したら危険なので自信がない時は無理に動かないことにしている。
動かないことも技術のひとつだと思っている。
今日もきっと青があったのだろうけど自信がなかったので動かなかった。
いや動けなかった。
ちょっとの時間も流れていたのだろう。
後からきた人がいつの間にか隣に並ばれたのにも気づかなかった。
「今黄色から赤に変わったばかりですからまだですよ。」
年配の男性の声だった。
僕はありがとうございますと返事をした。
しばらくして、
「はい、青になりました。右も左も大丈夫です。」
男性はそう言いながら渡り始められた。
僕もその後ろについて渡り始めた。
「渡り終りましたよ。」
男性はそう言うと右に歩いて行かれた。
「ありがとうございました。助かりました。」
僕はそう言って左へ曲がった。
交わした会話はただそれだけだった。
どこの誰なのかも判らない。
明日すれ違っても会釈もできない。
でもこういう日々の出会いに僕の暮らしが支えられているのだ。
ひょっとしたら命を助けてもらっているのかもしれない。
そして左に曲がって歩き始めた時、
僕の心は確かに幸せを感じていた。
人間っていいなぁ。
(2016年6月27日)

電車

朝7時過ぎの阪急電車に桂から乗車した。
僕は友人と一緒だった。
目が見えている友人はそっと教えてくれた。
「松永さん以外に白杖の人が二人乗車しておられます。」
僕はそれを聞いただけでうれしくなった。
同じ車両の中だったけれど、僕を含めた3人の視覚障害者はそれぞれ別々だった。
たまたま同じ車両に乗り合わせたということだ。
京都では白杖で街を歩く人が確実に増えている。
それは視覚障害者が増えたということではなく、
白杖で社会参加する人が増えてきたということだ。
丁度昨日、先天盲の先輩と話をしたばかりだった。
彼女は点字ブロックも音響信号もない頃からこの街を歩いてきた。
僕には想像できない。
もし僕がその時代だったら怖くて家から出れなかったかもしれない。
「白杖で歩こうという人も、手伝ってくれる人も、どちらもが増えてきたのよね。」
彼女は淡々とうれしそうに語った。
その時代が苦しかったとも悲しかったとも言わなかった。
先輩達の話を聞きながら、人間が生きていく姿を美しいと感じることが多くある。
そして、僕もそんな風に生きていけたらと思う。
僕が乗車した電車は間違いなく未来に向かって走っているのだと感じた。
(2016年6月24日)