夜の料理屋さん、ご馳走が次から次へと運ばれてきた。
ふとしたきっかけで知り合った視覚障害者の先輩がお招きくださったのだ。
彼の眼は30歳台に事故に巻き込まれて光覚状態になったらしい。
僕より一回り以上年上だから、視覚障害者として生きてこられた人生は僕の倍くらい
の長さということになる。
お互いの顔を確認できない僕達はそれでも笑顔で乾杯した。
サポートに着いてくださった女性は慣れておられるようで、そっとそして的確に僕達
に寄り添ってくださった。
何の問題もなく僕達の話は深まっていった。
彼はいろいろな話をしてくださった。
どの話題にも共通していたのは社会に対する愛情だった。
そしてそこには色褪せない力を感じた。
まさに現役ということだ。
見えるとか見えないとか無関係にそれぞれの人にそれぞれの生き方がある。
未来を見つめて活動しておられる人には輝きがある。
出会う度に僕自身もそうありたいと願ってしまう。
願うということは自分自身の未熟さや愚かさを感じてしまうのかもしれない。
それでもそういう人達と過ごす時間は好きだ。
憧れるのかもしれない。
豊かな時間だ。
そしてそれは人生の宝物となることは分かっている。
先輩がそっと教えてくださったこと、これからに活かしていきたいと素直に思った。
味覚も脳も心も満足して店を出た。
天気予報の雪は外れた。
明日は立春と気づいてうれしくなった。
(2024年2月4日)
立春
二重瞼
「オッケーGoogle、今何時?」
目覚めた僕はベッドの中でつぶやく。
「時刻は4時38分です。」
Googleホームが教えてくれる。
4時台が多いが、3時台に目覚めることもある。
すっかり早寝早起きになってしまった。
3時33分や4時44分と聞くとなんとなくうれしく感じたりもする。
5時くらいをめどにベッドから起き出す。
トイレの後洗面台に向かう。
歯磨きチューブの蓋を開けて直接口に入れる。
見えていた頃はチューブを歯ブラシにつけていたが難しい作業となってしまった。
歯磨きをして顔を洗って洗髪もする。
それからコーヒータイム、毎日変わらない日課だ。
ニュースを聞き、それからクラシック音楽かピアノ音楽を聞く。
すべてGoogleホームがやってくれる。
クラッシックもピアノ曲もほとんど曲名は分からない。
教養の無さをしみじみと自覚する。
それでも心地よい気分になれるからいいのだと自分を納得させている。
コーヒーの香りによく似合う音楽なのかもしれない。
ふとたまにGoogleホームに尋ねる。
「今日の日の出は?」
光を分からない僕には意味のない質問かもしれない。
けれどもたまに尋ねてしまう。
何故だか自分でも分からない。
時々知りたくなるのだ。
不思議だと思う。
「今日の日の出は6時58分です。」
冬の夜の深さを再認識する。
それから瞼に力を入れて目を見開く。
開いても閉じても目の前に変化はない。
昔はここにいろいろな景色があったんだと懐かしくなる。
先日最後の授業の後に職員室に挨拶にきてくれた女子高生の言葉を思い出す。
いくつかの話の後に彼女は突然言った。
「二重!」
最初は意味が分からなかった。
僕が二重瞼ということらしい。
柔らかな視点をやさしく感じた。
(2024年1月29日)
椿
毎年、その道を通っている。
一年に一度、お寺へのお参りの時に通る。
神戸の震災の翌年からだから今年で28回目だ。
児童福祉施設で働いていた頃、一人の少女と出会った。
彼女が幼稚園に通う頃から15歳で施設を退所するまで一緒に暮らした。
神戸の母親に引き取られた後も年に数回は会っていた。
1995年1月5日、僕の38歳の誕生日に一番先にメッセージをくれたのは19歳
になった彼女だった。
その時の電話口のやさしい声を僕は忘れることができない。
夜間高校の卒業式に出席して欲しいということも言われた。
その時に渡すように誕生日プレゼントを準備してあると言ってくれた。
僕は何も要らないと言ったが、卒業式への出席は約束した。
そのやりとりが最後だった。
僕は約束を果たした。
まだあちこちにブルーシートがある中を避難所横の卒業式会場に向かった。
彼女が座るはずだった席には小さな花束が置いてあった。
校長先生は卒業証書の氏名を読んでくださった。
僕は零れ落ちる涙を拭くことさえできなかったことを憶えている。
中学を卒業してからの進路を決める時に彼女は迷った。
相談を受けた僕は彼女の心に任せた。
僕が本気で引き止めれば神戸には行かなかっただろう。
僕の判断は間違っていたのかもしれない。
僕は懺悔のためにお参りを続けているのかもしれない。
そして、あれから29年生きてきたんだ。
振り返るとうまくいったことよりうまくいかなかったことの方が多い。
喜びよりも苦しみや悲しみが多いかもしれない。
苦しませてしまった人、悲しませてしまった人、きっと多い。
お参りの帰り道、椿の花に出会った。
掌で覆うようにして花の大きさを知った。
少し空を向いていることも分かった。
濃いピンク色だった。
花弁のしなやかさに命を感じた。
命を愛おしく感じた。
僕の命もいつかは終わる。
あと幾度、僕はこの道を歩けるのだろう。
この道を歩く時にこの花に出会うことがきっと楽しみになる。
冬の空を見上げてなんとなくそう思った。
(2024年1月25日)
もうすぐ春休み
今年度30回目の大学の講義が終わった。
最後の講義のせいか学生達は全員出席していた。
それだけでなんとなくうれしく感じた。
最後の講義は質疑応答を中心に進めた。
ぬくもりのあるやさしい質問が多く届けられた。
最後に観た光を尋ねられた時には胸が熱くなった。
男子学生も女子学生も眩しいくらいにキラキラしていた。
ふと自分にもあったその頃を思い出した。
僕は東京で1年間浪人生活をした。
ほとんど勉強はしなかったので、まさに自由を満喫した日々だった。
あの1年をもっと真面目に過ごせれば少し違う人生だったのかもしれないと思う。
それでも後悔はないということはどこかで納得しているということなのだろう。
生粋の田舎者だった僕には東京の街そのものがキラキラしていた。
いくつかのシーンがまるで絵葉書のように記憶に残っている。
不思議と色褪せない画像だ。
しみじみと見えていたんだなと思う。
昔見えていましたと話すことに最近少し照れくささを感じるようになってきた。
なんとなく不思議な感覚だ。
見えない時間が25年を超えた。
見たことがないものが多くなってきたことは間違いない。
あきらめて、あきらめられなくて、あきらめることをあきらめて。
見えていたということが少しずつ遠ざかる。
講義を終えて帰路に着いた。
烏丸御池で烏丸線から東西線に乗り換えようと点字ブロックを辿った。
階段を降りる時に女性のサポートの声がした。
僕は彼女の肘を借りて地下鉄に乗車した。
空席を探して座らせてくださった。
この時間帯にこの電車で座れることは滅多にない。
座れるって幸せだなとしみじみと思った。
学生達がいつかきっとこの女性のようになって視覚障害者のサポートをしてくれるだ
ろう。
そんな風に思ったら余計にうれしくなった。
今日の講義の前に教務課から話があった。
来年度の講義の予定を提出するようにとの内容だった。
大学はもうすぐ春休みだ。
また来年度も頑張りたい。
頑張る場所があることをうれしく思う。
(2024年1月21日)
震災
神戸の震災で犠牲になったまあちゃんを思い出しながら合掌した。
当時彼女は19歳だった。
そして僕は38歳だった。
運命の悲しさに呆然としたことだけを憶えている。
時は急ぐこともせず止まることもせず淡々と刻まれていくのだ。
29年の歳月が流れたらしい。
「災害は忘れた頃にやってくる」
子供の頃に憶えたことわざが消えていく。
あれから東北の震災があり、そして今年能登の震災が起こってしまった。
無事にここまで生きてこれたのは偶然なのかもしれない。
そして僕は戦争のない時代をここまで生きてこれた。
これも偶然なのかもしれないと最近のニュースを聞きながら思ってしまう。
ちなみに僕の父親は徴兵されて終戦後はシベリアに抑留された経験を持っていた。
「戦争はしてはいけない。」
口癖だった。
理由は言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
平和が続くことを祈る。
百年先もそうでありますようにと願う。
そして今被災されている人達の日常が少しでも早くもどりますようにと願う。
ありふれた日常、そこに本当の幸せがあるのかもしれない。
(2024年1月17日)
絆
新しい年の活動はゆっくりと始まった。
まさに自由業だ。
火曜日は視覚障害者の施設でのピアカウンセリングだった。
水曜日は宮津市にある高校まで出かけた。
木曜日は大学だった。
金曜日は地域の視覚障害者協会の新年交流会に参加した。
バスには10回乗車した。
水曜日が遠出だったので電車は17回の乗車となった。
そのうち12回は単独での乗車だった。
歩数は2万5千歩くらいになった。
言葉のキャッチボールをした人の数は100人近い数だと思う。
見える人とも見えない人とも見えにくい人とも会話をした。
ありがとうカード、高校生にプレゼントした数を省けば5枚を渡すことができた。
そしていつも右手には白杖があった。
僕なりの社会参加が始まったということだろう。
水曜日の宮津市の高校での講演が今朝の京都新聞で紹介されていたらしい。
全盲の先輩の奥様がそれに気づかれた。
先輩はうれしそうな声で電話をくださった。
「丹後まできなさったんだなぁ。」
先輩は丹後地方の方言で話をされた。
奥様に新聞記事を読んでもらったら僕の声を聞きたくなったとおっしゃった。
「実は今日が私の85歳の誕生日なんで。」
いい日になったと言ってくださった。
僕はおめでとうを伝えた。
見えなくなってから紡いできた仲間との絆、人生の宝物となっている。
僕達はお互いに顔を見たことはない。
でもお互いの手のぬくもりは知っている。
見えないことは人間同士の絆の壁にはならないのだ。
見える人とも見えない人とも見えにくい人とも、また新しい絆を結べる一年を送りた
い。
(2024年1月14日)
生姜湯
音が消えてしまったような静けさにもしやと思った。
ダウンコートを羽織って圧手の靴下を履いた。
それから、まだ暗いはずの戸外に出てみた。
玄関から数歩動いただけで靴の裏が確認した。
僕はしゃがみ込んでそっと地面に手を触れた。
雪。
立ち上がって少し歩いた。
この冬初めての雪景色がそこにあった。
それから空を見上げた。
いつもワクワクドキドキする高揚感はなかった。
雪が北陸も覆ってしまっているだろうと考えてしまった。
つい奥歯に力が入った。
部屋にもどってお湯を沸かした。
コーヒーカップを温めてから生姜湯の粉を入れた。
沸きたてのお湯を注いだ。
フーフーしながら生姜湯をすすった。
胃袋が温まり、身体が温まり、心が温まるのを感じた。
生きているって凄いことなんだ。
生きていくって凄いことなんだ。
僕の心臓は半世紀以上動き続けている。
僕の脳は半世紀以上考えてきた。
僕の心は半世紀という時間の中で数えきれないくらい折れてしまった。
そしていつもそこから歩き始めている。
それも含めて幸せなことなのだ。
訳もなくそう思った。
(2024年1月9日)
花言葉
67歳になった。
日本では65歳からが高齢者ということになっている。
だから60歳台になったくらいからその言葉を意識し始めたような気がする。
ところが最近少し意識が変わってきた。
ラジオなどでいろいろな人の話を伺いながら、年齢はひとつの指標に過ぎないと思え
るようになってきた。
実際に出会う人達もそれを実感させる人は多くおられる。
80歳を超えながら矍鑠とされておられる人と出会うのも特別に珍しいことではなく
なった。
ひょっとしたら、60歳台なんてまだまだ若輩者なのかもしれない。
いや、僕自身は確かにそうだ。
社会に対して現役でいたいと考えているが、自分の無力や弱さなどをすぐに思ってし
まう。
社会の未熟さを感じるような感覚を持っていたがこれも少し違和感を感じ始めた。
未熟さは僕自身の中にあるのだ。
年齢を重ねれば丸くなると聞いていたが、自分の生意気さを修正していくということ
なのかもしれない。
もうしばらくは現役でいたいと思う。
誕生日の花が梅だと初めて知った。
花言葉は「澄んだ心」らしい。
それを知って恥ずかしいと思ってしまった。
見える頃に言われてうれしかった言葉がある。
「きれいな澄んだ目をしてるね。」
幾度かその言葉を頂いた。
他に褒めるところがなかったからかもしれない。
でも、うれしい思い出だ。
今の僕、まだまだ現役、修行中だ。
澄んだ目で生きていけるようになりたいと思う。
(2024年1月6日)
年始
穏やかな新年を迎えた元旦の夕方、突然部屋が揺れた。
結構長い時間揺れていた。
コタツに入っていた僕はコタツの端を掴んだまま呆然としていた。
揺れが収まってからラジオのスイッチを入れた。
「津波がきます。逃げてください。」
アナウンサーの緊張した声が流れていた。
各地の震度や状況が伝えられた。
大変なことが起こってしまったのが分かった。
気持ちが一気に沈むのを感じた。
被害が少ないようにとただ願った。
2日は羽田空港での飛行機事故が報じられた。
3日は小倉の大きな火災がニュースになった。
災害の恐ろしさをつきつけられた年始となってしまった。
世界ではまだ戦争が続いている。
それぞれの場所で視覚障害者はどうしたのだろう。
もし僕がそこにいたらどうなっただろう。
想像しただけで辛くなる。
平穏な日常を愛おしく感じた。
無事に一日を過ごせることを感謝した。
三が日を過ぎて日常が始まる。
まずは輪島の被災者の人達に募金をしよう。
何もできない僕、できることを探してみよう。
残り362日、そうやって生きていこう。
(2024年1月4日)
日常
冬休みが始まって学生達が姿を消したからだろう。
珍しくボックスシートに空いている席があった。
彼女は僕をそこに案内してくれて自分も僕の前に座った。
朝7時半の電車に乗車する時はだいたい彼女のサポートを受けている。
この一年で20回近くあったと思う。
彼女は途中の山科駅で電車を降りる。
僕はそのまま大阪方面へ向かう。
いつもは通勤客や学生で満員の電車だから立ったままで会話も少ない。
今日はのんびり話が出来た。
のんびりと言っても13分間の乗車時間だ。
その半分近くはトンネルの騒音で会話はできない。
僕が最近観た映画「翔んで埼玉 〜琵琶湖より愛をこめて」が話題だった。
僕がスマホの副音声アプリを使って映画を楽しんでいることを彼女は知っている。
映画には滋賀県在住の僕達が一緒に笑えるツボがあった。
何の違和感もなく会話は成立していた。
山科駅に電車が到着した。
「良いお年をお迎えください。」
僕達は準備していたかのように同じ挨拶を交わして別れた。
彼女と知り合ってまだ一年くらいだろう。
見えない僕が彼女の肘を持たせてもらって電車に乗るということから始まった。
背もたれを触ることで座席を確認できることを理解してもらった。
画面の文字を読んでくれるパソコンでメールはできることも伝えた。
映画の話題では盛り上がった。
光を感じなくなって26回目の新年をもうすぐ迎える。
見える人生と見えない人生、見える方がいいに決まっている。
でも、見えない僕にも幸せがある。
ささやかだけど間違いなくある。
そしてそのほとんどは、日常の見える人との交差の中で生まれている。
平凡な日常の中に本当の豊かさがあるのかもしれない。
この一年、出会った場所に、出会った時間に、出会った音に、出会った香りに、そし
て出会った人に出会った日常に、ありがとうって伝えたい。
(2023年12月29日)