日中の戸外、お日様の光を熱で感じることは時々ある。
顔や頭に直接当たる時などはよく感じる。
光の熱量は大きいのだろう。
熱は皮膚感覚で分かるが光は目での確認だ。
それは僕にはどうしようもない。
光を感じて目覚めるということはできなくなってしまった。
ぐっすり眠って瞼をくすぐる光で目覚める。
思い出せば、あの瞬間は幸せのひとつだったと思う。
それを失ってしまったのはちょっと悔しい。
でもないものねだりしても仕方ない。
だから僕は朝の始まりを時計で管理している。
目覚めるとグーグルホームに尋ねる。
「オッケーグーグル、今何時?」
今朝は6時23分だった。
7時間くらい眠ったらしい。
久しぶりに熟睡した。
トイレにも行かずに眠り続けたということになる。
疲れが貯まっていたことを実感した。
目が覚めても動き出そうとはしなかった。
休日で出かける予定がないのが理由だったが、目覚めの幸せを感じたからだろう。
まだ寝ぼけている頭の中に短いセンテンスが蘇った。
「全力で応援します。」
学生から届いたメールにあったものだ。
言葉が脳の中でゆっくりとほぐれていった。
短い言葉にはやさしさがあった。
説明文も修飾語もない言葉なのに力さえ感じた。
そして受け取った僕は光で目覚めた時のような気持ちになった。
微睡を愛おしくさえ感じた。
そんな言葉を使える人に僕もなれればと思う。
なりたいと思う。
(2024年6月3日)
目覚め
同行援護養成研修
広島県尾道市での同行援護養成研修、二日目の朝は土砂降りの雨だった。
お隣の岡山県では大雨警報も出たらしかった。
警報が出れば戸外での実習を中止しなければいけない。
祈るような気持ちで朝のコーヒータイムを過ごした。
9時前、受講生の皆さんが続々と到着された。
雨は止まなかったが小降りにはなっていた。
簡単なオリエンテーションを済ませて僕達は出発した。
受講生は二人一組で外を歩く。
一人はアイマスクを装着して視覚障害者役だ。
ガイドヘルパー役の人の肘を持って歩く。
あちこちにある段差を伝え、坂道を上り下りし、右折したり左折したりしながら道を
歩く。
横断歩道も渡るし、階段やエスカレーターにも挑戦だ。
傘を指して水たまりをよけながらなので普通よりハードルも高い。
視覚障害者役の人の安全を確保しながら不安を与えないようにしなければいけない。
最後の決め手は信頼関係だ。
人間同士の絆ということになる。
食堂ではメニューを代読し、運ばれてきた料理の説明にもチャレンジした。
ショッピングセンターでは買い物支援の体験もした。
研修会場に帰り着いた時には皆さんヘトヘトだったと思う。
それぞれに感想を聞いてみた。
受講生はいろいろな気づきや発見を発表してくださった。
それぞれの発言には充実感みたいなものも感じられた。
そしてそれを皆で共有することで学びが深まっていった。
僕はこの時間が好きだ。
僕は講師であるけれども、皆さんのいろいろな気づきに教えられていることが多いの
だ。
誰かの力になりたい。
誰かに寄り添ってあげたい。
そう思う人が集う空間にはぬくもりがある。
やさしい時間が流れる。
こういう人達がおられて見えない見えにくい僕達の暮らしが存在する。
受講してくださった皆さんに心から感謝した。
(2024年5月29日)
やさしい人
ゴールデンウィークの後くらいから急に忙しくなってしまった。
調べてみたら一週間に一日の休みも確保できていないことに気づいた。
今も11日連続の仕事が続いている最中だ。
2月や3月は一か月の半分くらいはお休みだった。
10月や11月はもう現時点でほとんど予定が埋まっている。
自由業とはそんなものだ。
今月は1時限目からの授業とかが多く、行先も滋賀、京都、大阪と広域だった。
結果的に早朝出発、夜帰宅が続いた。
疲れが貯まる傾向にあるのは気候の変化のせいもあるだろうし年齢のせいもあるのだ
ろう。
自覚はあるから栄養ドリンクをお守りみたいに飲んだりしている。
それでも集中力が少し落ちたりしてしまう。
先日もやってしまった。
大学の講義を終えて、学生達が地下鉄の駅まで送ってくれた時のことだった。
改札口で送ってくれた二人の学生にお礼を伝えて歩き始めた。
もう数えきれないくらい利用している駅だ。
ところが点字ブロックの曲がる場所を間違えたらしい。
いくら歩いてもホームに向かう階段にたどり着けなかった。
途中で間違ったことに気づいて足が止まった。
でも、修正しようとする気力もなかった。
いつか辿り着くと自分に言い聞かせてそのまま動き始めようとした時だった。
「駅員さんにお願いして入れてもらいました。」
彼女の息は少し乱れていた。
走ってきてくれたのが分かった。
学生たちは歩き始めた僕の後ろ姿を見てくれていたのだ。
そしていつもと違う方向だと気付いたのだろう。
彼女は事情を駅員さんに説明して駅構内への入場許可をもらったのだろう。
「先生、行きましょう。」
彼女は実習で学んだサポート方法で僕に肘を持たせた。
何故間違ったかを尋ねたりも一切しなかった。
そして慣れた感じで僕を階段まで誘導してくれた。
「やさしい駅員さんで良かったです。気をつけて帰ってくださいね。」
彼女が微笑んだ。
「ありがとう。また来週。」
僕はそれだけ言って階段を降りた。
やさしい人がもう一人いたことを本当は伝えたかったが飲み込んだ。
4月に初めて出会った時、ほとんどの学生達が見えない人とのコミュニケーションの
経験はなかった。
どう接すればいいか戸惑っていた。
共有した時間が学生達をどんどん変化させていった。
たった数か月で僕と普通にやりとりができるようになってくれた。
学生達が元々持っているやさしさを引き出してくれたのは正しい理解だ。
正しい理解が広がれば、やさしさが広がっていく。
やさしい社会になっていく。
そしてやさしさはきっとどこかで誰かの力になる。
(2024年5月26日)
畑
庭の片隅に広さ3畳くらいの小さな畑を作っている。
畑の周囲はブロックで囲んである。
どの方向から歩いても作業靴がブロックにぶつかるので分かりやすい。
ちなみに自宅では室内は勿論だが庭でも畑でも白杖は使っていない。
室内では壁や手すりなどを触りながら動いているし、テーブルや椅子などにぶつかっ
て位置を確認している。
マットやジュータンを踏んだ感覚も情報のひとつだ。
庭では家の壁、玄関の柱、木の枝、ロッカー、植木鉢、エアコンの室外機、いろいろ
な物を触ったりぶつかったりしながら歩いている。
手をメインにして身体中がセンサーになっているのだと思う。
その手は分かりやすいようにわざと軍手はしていない。
木の枝とかが直接顔に当たるのは嫌なので麦わら帽子だけはかぶっている。
畝は2メートル程度の短さだが3本ある。
苗を植え付けたり肥料を与えたりの管理は畝と畝の間を通路にしてやっている。
間違って畑に入らないように通路にはロープを張っている。
このロープを手で触って確認してから通路に入るのだ。
今年も夏野菜の苗を植えた。
ミニトマト、キュウリ、ゴーヤなどだ。
ピーマンは初挑戦だ。
オクラは昨年失敗したので今年はあきらめた。
相性が合ってしまったのか虫のエサになってしまったのだ。
強い薬などは使わないようにしているのでどうしようもなかった。
植え付けて3週間が過ぎた。
恵みの雨も時々降ってくれているし、気温も上昇してきている。
毎日のように見ている。
僕が見るというのは触るということだ。
そんなに急に成長するはずはないのだがちょっと大きくなったような気になる。
そして喜んでいる。
小さな幸せがそこにある。
小さいけれど本物の幸せだ。
本物の幸せはだいたいが小さいサイズなのだと感じるようになってきた。
そしてあちこちでかくれんぼしている。
あちこちというのは特別な場所ではなくてまさに日常だ。
見つけた時を幸せっていうのかもしれない。
たくさん見つけたいとは思わなくなった。
でもちゃんと見つけたいと思う。
(2024年5月22日)
11刷
『風になってください』が出版されたのは2004年の暮れだった。
見えなくなって5年くらいの時間が流れていた。
見えない状態で生活していくことの大変さを日々感じていた。
努力を続けたが定職にも就けなかった。
視覚障害を社会に正しく理解して欲しいという願いは障害者運動などに関わることに
もつながっていった。
障害者団体の役員をしていた僕はレクリェーションの終了後にボランティアの皆さん
にお礼のメールを送った。
そのボランティアさんの中に出版関係で仕事をしていたという経歴の方がおられた。
偶然の出会いだった。
たった一通のメールがきっかけとなったのだ。
彼女に勧められて原稿を書き始めた。
勧められてというより説得されてと言った方が正しい表現かもしれない。
京都駅近くの喫茶店で僕はコーヒー、彼女はストレートティーだった。
煮え切らない僕に彼女は真剣に、そして諭すように活字の力を話してくださった。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が参加できる社会、そこに向かって活動し
ている僕の姿を彼女は近くで見ておられたのだと思う。
活字が僕の力のひとつになることを予想されておられたのかもしれない。
その時から彼女と二人三脚での本作りが始まった。
振り返ればそれが僕にとっての転機だったと思う。
もう天国にいってしまわれた彼女に今更ながら深く感謝する。
出来上がったばかりの本を手にした時に彼女に尋ねた記憶がある。
「本ってどれくらい売れたらいいのですか?」
1刷が全部売れたら成功という答えが返ってきた。
希望はあったが、それが現実になるとは彼女も僕自身もそして関係者も思ってはいな
かった。
奇跡は起こった。
ささやかな本はささやかに売れ続けた。
先日出版社から連絡があった。
10刷の在庫が少なくなったので11刷をしたいとのことだった。
1刷からもう20年が経過している。
本屋さんにはもうほとんど置いてないのだろう。
インターネットで本を購入するという社会の流れはこのささやかな本には後押しにな
ったのかもしれない。
たくさんの人がそよ風になってくださったのだ。
どこかで誰かが読んでくださる。
正しい理解は共感につながる。
共感は未来を創造していく力となる。
このブログも書いた数が千を超えた。
アクセス数も160万を超えている。
これもまた活字の力なのかもしれない。
当たり前だが、活字には書くと読むがある。
その二つが繋がった時に心も繋がるということになる。
『風になってください』はたくさんの図書館などに置いてあるらしい。
本になればどこかで誰かが読んでくださるという可能性は大きくなる。
僕がこの世を去っても希望は残ってくれるのかもしれない。
そんなことをふと思いながら、このブログも本という形にしてみたいと思い始めてい
る。
(2024年5月18日)
社会福祉
同行援護養成研修は土日や祝日を利用して実施されることが多い。
受講生の受講のしやすさからそうなっているのだと思う。
一昨日の土曜日は京都府指定の同行援護養成研修に参加した。
昨日の日曜日は滋賀県指定の同行援護養成研修だった。
同行援護養成研修を受講することでガイドヘルパーの資格を取得できる。
ガイドヘルパーというのは視覚障害者の外出をサポートしてくださる人のことだ。
ガイドヘルパーには外出をサポートした時間に応じてお給料が払われる。
このお給料は国の報酬で賄われていて、僕達は一部負担が原則となっている。
ガイドヘルパーが同行してくださることで、日常の買い物、通院、お散歩、余暇活動
などに視覚障害者が普通に安心して安全に出かけることができる。
同行援護というのは僕達にとってはとても有難い大切な制度ということになる。
ただ毎月決まった時間のお仕事があるわけでもないからガイドヘルパーにとっては不
安定な収入となりやすい。
だからこの制度はガイドヘルパーをしてくださる人達のボランティア精神によって支
えられているのが現実だ。
この同行援護制度そのものにも勿論だが、支えてくださっているガイドヘルパー達に
は本当に感謝している。
僕は当事者講師としてこの研修に関わることが多い。
今年度も京都、滋賀、大阪、広島などが予定に入っている。
東京と京都では同行援護養成研修の講師対象の研修も予定されている。
1回4日間の研修が6回だから結構な時間となる。
研修に当事者が関わらなければいけないというルールはない。
当事者が関わることで思いは伝わりやすいと信じているからオファーがあれば積極的
に関わっているという感じだ。
たまたま僕は講師資格もあるので僕に課せられたミッションのひとつだとも感じてい
る。
今回も土曜日の研修の後、受講生がおっしゃった。
「血の通う授業を受けられて良かったです。」
言葉の力は本当に凄いと感じる。
僕の疲労感は一瞬で吹き飛んだ。
明日も頑張ろうという思いにもつながった。
社会福祉の福という漢字には幸せという意味があり、祉という漢字にも幸せという意
味がある。
社会福祉というのは幸せのために人間同士が支えあうということなのだろう。
素晴らしいことだと思う。
(2024年5月13日)
お問合せフォームの不具合について
松永信也です。
お問合せフォームからのメールが僕に届いていないことが判明しました。
何かの不具合だと思われます。
せっかくお問合せくださったのに返信をできずにご迷惑をかけてしまった方もおられ
るかもしれません。
申し訳ありません。
お問合せフォームが使用可能になったらまた案内します。
それまで、以下のアドレスに連絡くださればと思います。
宜しくお願い致します。
umikaze.2021.akune@gmail.com
小学校
今年度最初の小学校での福祉授業は京都市山科区にある小学校だった。
僕の家からはバスとJRと地下鉄を乗り継いで1時間くらいの場所だ。
3,4時限目の授業だったので春風に吹かれながらのんびりと出かけた。
以前別の小学校で出会った先生が声をかけてくださって実現した福祉授業だった。
先生は異動された小学校でもたまたま依然と同じ4年生を受け持たれた。
総合学習で取り組むテーマも同じような内容だったらしい。
それで僕を思い出してくださったとのことだった。
こういうのを縁というのだろう。
僕にとってはとてもうれしい有難い縁だ。
子供達と過ごす時間はいつもとても豊かだ。
僕は僕や仲間のことを伝えながら子供達と一緒に障害について考える。
皆が一緒に暮らせる社会について考える。
最初少し緊張していた教室の空気は時間と共に和らいでいく。
そしてあちこちで輝き始める。
未来に向かって輝き始めるのだ。
子供達と話、子供達に問いかけ、たまには笑いも起こる。
思いを伝える部分では子供達は真剣な眼差しで僕を見つめて聞いてくれている。
最後の質問の中に「また見えたら何を見たいですか?」というものがあった。
僕に見せてあげたいという思いから生まれた質問だと分かった。
僕はありがとうを伝えた。
授業が終わるとたくさんの子供達が僕の帰り支度を手伝おうとしてくれた。
「ありがとうございました。」と声をかけてくれた子供も多かった。
教室を出る時にもう一人の先生が声をかけてくださった。
率直な心のこもった言葉をくださった。
教育は未来に直結すると僕は思っている。
だから先生方からのそういうメッセージはとてもうれしい。
僕はしっかりと頭を下げた。
今年度もまたいろいろな学校などで子供達に話をすることになるのだろう。
それはまさしく未来への種蒔だ。
今日出会った子供達が社会の中心となる頃、僕はもうこの世にはいないのだろう。
それでも未来へのバトンはきっと引き継がれていくと信じている。
ひとつひとつの機会を大切にしながら今年度も頑張っていきたい。
(2024年5月9日)
ツツジ
彼女からのメールは忘れた頃に届く。
読み終えていつも気持ちが柔らかくなる。
上品な文章の行間に人としてのあたたかさがにじみ出る。
きっとそんな感じで歳を重ねてこられたのだろう。
彼女も視覚障害者だ。
人生の後半で視覚障害になられたのだったと思う。
自分のことを後期高齢者とおっしゃっているので10歳くらい年上なのかな。
綴られる日々の暮らし、人との関わり、そこに視覚障害者同士の糸を感じる。
僕はこの糸が好きだ。
きっとどこかでお互いの人生を応援しているのだろう。
今回のメールにはツツジの赤、白、ピンクがぼんやりと見えると書いてあった。
見えていることの幸せが伝わってきた。
ツツジの色合いを僕に届けてあげたいという彼女の気持ちも伝わってきた。
しみじみとうれしく思った。
そしてうれしくなっている自分に気づいてまたうれしくなった。
失ってしまったものはどうしようもないということは分かっている。
きっとそれぞれの人生に存在するだろう。
もう会えない人もそうかもしれない。
もう行けない場所もそうかもしれない。
過ぎ去った時間もそうかもしれない。
愛していたからこそ振り返ってしまうのだろう。
そして振り返る度に愛は深まっていったような気もする。
僕にとっては光にもそういう思いがあるのだろう。
失って27年という時間が過ぎてしまった。
もう平気ですと言えるほど強くはない。
ぼんやりでもいい。
人生の最後の時まで彼女の目に光がありますようにと願う。
心からそう願う。
(2024年5月5日)
宝物
17時前に京都駅を発車した電車は地元の比叡山坂本駅に17時13分に到着した。
20分かからない近さなので座れない僕には有難い。
京都駅ではわざと電車の後方車両に乗車するようにしている。
比叡山坂本駅では後方車両が改札口に続く階段に近いからだ。
今回もロスのないほぼ完ぺきな動きで3分後にはバス停に到着することができた。
先日全盲の後輩が僕の単独移動の力量を絶賛してくれたが、僕自身もちょっとはそう
思っている。
白杖一本で見える人と同じように動いているからだ。
目隠し状態で世間の流れになんとか乗れている。
我ながら凄いことだと時々思う。
39歳で見えなくなった時に1年間の歩行訓練を受けた。
そしてそれから27年間歩き続けた。
社会に参加したいという一心だった。
必然が僕の歩行技術を伸ばしていったのだろう。
その僕の弱点は記憶力の低さだ。
特に数字は苦手だ。
人の名前も憶えられない。
最初からあきらめている。
一番の原因は憶えるための努力が苦手なのだと思う。
時刻表が見れないということは記憶するしかないのだがそれはしていない。
だからバス停に到着しても次の発車時刻は分からない。
いつくるか分からないバスを待っているという日々だ。
バスの本数が1時間に2本くらいだということだけは分かっている。
そのバス停からは2方向のバスが発車するのだが僕が乗れるのは片方だけだ。
行先を到着時の自動音声で確認する。
バスのドアが開いた時に行先案内が自動で流れるしくみだ。
時々音量が小さくて聞こえなかったり動いていなかったりすることもある。
時々と言っても数十回に1回くらいかな。
ドアの自動音声以外にも運転手さんがマイクで復唱してくださることもある。
これはとても助かる。
バスを待っている周囲の人が教えてくださることもある。
20分くらい待った時にバスのエンジン音が近づいてきた。
僕は耳を澄ませた。
運悪く自動音声が流れていなかった。
運転手さんのアナウンスもない。
周囲のお客さんはバタバタと乗り込んで行かれた。
僕はこれまでも違うバスに乗り込もうとした経験があるので躊躇してしまった。
どちらのバスだろう。
誰かに尋ねなければと考えている間にドアが閉まってしまった。
なんとなく嫌な予感がしたがその予感は的中してしまった。
それから時間だけが過ぎていった。
帰宅してから調べてみたら17時台のバスは02分と31分だった。
乗れなかったのは31分発のバスだったのだ。
次のバスがきたのは18時06分だった。
50分くらい立ち続けたことになる。
素直じゃない僕は思う。
見えないことが悔しいんじゃない。
記憶力がないことが淋しい。
でも開き直る。
社会に参加したいという強い思い、持って生まれた平衡感覚と運動能力、それに困っ
た時のコミュニケーション力などすべてが僕の外出を支えてくれている。
そして失敗して落ち込んでも一晩寝たら回復してしまう気持ちは宝物だ。
考えようによっては鈍感ということなのだろうが、とにかく単純なのだろう。
そしてその単純な自分がどこかで好きなのだと思う。
結局、また時刻を記憶しようという努力には結びつかない。
無事帰宅できたのだからいいやと思ってしまう。
立ち尽くす練習はしてもいいかな。
(2024年5月2日)