バターサンド

北海道の友達が送ってくれた六花亭のバターサンド、
僕の大好物だ。
一口かじると芳醇が口中に広がる。
それからゆっくりとコーヒーを飲む。
バターサンドの控えめな甘さをコーヒーのほろ苦さが伝えてくれる。
いやコーヒーのほろ苦さをバターサンドが教えてくれているのかもしれない。
とにかく絶妙のコンビネーションだ。
食べ終わってしばらく耳以外は休憩時間。
ラジオから流れるユーミンの音楽に身をゆだねる。
味覚がリセットされたところでまたかじる。
そしてまたコーヒーをすする。
単純な動作を繰り返しながら幸せな気持ちが膨らんでいく。
ふと中学校の生徒の質問を思い出した。
「目が見えないのにどうして明るいのですか?」
人間はきっといつも自分でありたいのだろう。
見えても見えなくても変わらない自分なのだ。
「目が見えない以外は普通のオッサンだからだよ。」
僕はそう答えて笑った。
(2016年11月3日)

三回忌

まだたった2年なのか、
もう2年もたったのか、
僕の心はいつまでも右往左往している。
間違いのない事実はもう会えないということだ。
病室で息をしなくなった父ちゃん、葬祭場へ向かう車中、
最後に一緒に過ごした通夜の時間、葬儀場で白骨になった父ちゃん、
その時期の何もかもが記憶に残っている。
画像はないはずなのに自分でも驚くほどの明瞭な記憶だ。
三回忌を迎え、仏壇には仏花やお菓子が備えられている。
ご住職の読経の声とお線香の香りが流れる中で僕は静かに合掌する。
僕の人生の残り時間もあの日から2年少なくなったのだろう。
そういうことを考えるようになった。
いつか人生が終わった時に来世で再会できるとはなかなか思えないが、
でももし本当に会えるなら父ちゃんの顔を見れるかもしれない。
夢は夢で大切にしたいな。
とにかく残りの時間を精一杯生きていきたい。
(2016年11月2日)

報道

北大路駅から地下鉄に乗車した。
乗り込んだらすぐに若い女性が空いてる席に案内してくださった。
僕は感謝を伝えて座った。
四条駅までのひとときをのんびりと過ごした。
わずかな時間だったが安全で安心なひとときだった。
座れるってうれしいなとしみじみと感じていた。
電車が四条駅に到着しホームに降り立った。
その瞬間何故か方向を見失った。
数えきれないほど利用している駅なのだが、
点字ブロックをどちらに進めばいいかが判らなくなった。
年に一度くらいはあることなので対処方法はマスターしている。
動かないこと、
慌てないこと、
気持ちを落ち着かせること、
ゆっくりと音を確認すること、
それでも判らない時は通行人に尋ねること、
それが危険から遠ざかる方法だ。
僕はマニュアル通りに深呼吸をしてから音を聞き始めた。
「何かお手伝いしましょうか?」
突然、若い男性の声がした。
「方向が判らなくなってしまって音を聞いていました。
助かります。阪急へ乗り換える改札口を教えてください。」
彼はサポートを引き受けてくれた。
彼の肘を持った瞬間、安心が僕を包んだ。
階段を上り改札口を出て阪急のホームまで、
僕達は話しながら歩いた。
彼は大学生でアルバイトに向かう途中だった。
「ホームから転落された視覚障害者のニュースを見ました。」
彼はポツリと言った。
その報道が彼の背中を押したのだろう。
別れ際に僕は彼に感謝を伝えた。
「声をかけてくれる人が増えれば転落事故はきっと少なくなります。
ありがとうございました。」
「どういたしまして。」
彼の返事の声がうれしそうに聞こえた。
あらためて報道の力を感じたような気がした。
(2016年10月28日)

松茸御飯

目が見えなくなるということは何もできなくなることに近いと思っていた。
実際に見えなくなった頃はたくさんのものを失ったような気がした。
自由に外出するという基本的な行動ができないということは何よりも大変だった。
それによって仕事ができないということが一番悔しかった。
リハビリを受けて白杖で歩けるようになったがなかなか職業には出会えなかった。
少しずつ努力は報われたが「人並み」とは程遠かった。
「人並み」を求めて歩き続けた。
「人並み」を目指して歩き回っていた頃、
帰宅した玄関によくおかずの入った袋がぶらさがっていた。
近くで暮らしていた両親が届けてくれたものだった。
僕の心には感謝と申し訳なさが同居していた。
本来ならこちらが届ける年齢だった。
ある時ガイドさんとデパートの地下を歩いていたら松茸を販売している声が聞こえた。
値段を尋ねたら3万円だった。
僕は衝動的に買ってしまった。
自分で食べたいと思ったわけではなかった。
デパートを出て包装紙をはずして実家に向かった。
「友達がプレゼントしてくれたんだ。すき焼きに入れたらおいしいらしいよ。」
僕は嘘をついて両親に渡した。
驚いたうれしそうな親父の声が今も忘れられない。
数日してまた玄関に袋が下がっていた。
松茸御飯だった。
松茸がどっさり入っていた。
きっとほとんどを僕に届けてくれたのだろう。
僕は泣きながら松茸御飯を食べた。
僕は僕のままでいいのかもしれないと何故か思った。
僕は「人並み」をあきらめられるような気がした。
(2016年10月24日)

キンモクセイ

PTAの研修会での講演だった。
僕はいつものようにそのままの自分で語りかけた。
笑いと共に理解が広がっていった。
「楽しい研修でした。」
司会者のまとめの感想が僕を満足させた。
悲しい話や辛い話はいくらでもできる。
涙腺を刺激することもできるし胸に刺さるだろう。
でもその後には同情や哀れみが生まれやすい。
笑顔で学び合った後には共感が生まれる。
そしてそれはきっと未来につながっていくのだ。
学校から駅まで手引きしてくださった女性は、
校門を出たところで足が止まった。
キンモクセイの香りに喜んだ僕の手をとって、
そっと花に触らせてくださった。
今年は会えなかったとあきらめていた香りが僕を包んだ。
今年も秋に会えた。
いや、ともだちになったばかりの彼女の目がエスコートしてくれたのだ。
(2016年10月19日)

風の会

『風になってください』がデビューしたのは2004年の12月だった。
見えない僕達のことを社会に正しく知って欲しい、
祈るような気持ちで原稿を書いたことを昨日のように憶えている。
故郷の川内高校での卒業30年の同窓会が開催されたのは翌年だった。
同窓生達は失明していた僕を暖かく迎えてくれただけでなく、
僕の活動を支援するグループ「風の会」を結成してくれた。
「風の会」は僕を川内に招待してくれ講演の機会を作ってくれるようになった。
毎年秋に川内に出かけるという僕のスケジュールは10年以上続いたことになる。
小学生から大人まで様々な会場で僕の話を聞いてくれた人の数は1万5千人を超えた。
今年の川内最終日は「青少年育成のつどい」での講演だった。
会場の国際交流会館には300人を超え得る人が集まった。
ここは風の会が初めて講演会を企画してくれた場所だった。
僕は特別な思いを抱いて壇上に上がった。
そして心をこめて灰色一色の向こう側に語りかけた。
「助け合えるって人間だけですよね。」
講演の最後に会場に問いかけた。
大きな拍手が答えだった。
未来に向かっての種蒔きができたことを実感した。
僕達は還暦を迎えた。
それぞれがまた新しい一歩を踏み出す年齢なのだろう。
この「風の会」の活動も変化していくのかもしれない。
それはまた時間が答えを出していくのだろう。
「煩悩が多いからなぁ。」
駅まで送ってくれた同窓生が照れ笑いした。
僕達は同じ時代に同じ故郷で同じ高校で学んだ。
60年の人生で共有した時間はたった3年間だ。
その人達がここまで動いてくれたのは何故だろう。
単純に僕の応援だけでは続かない。
煩悩を超えていく純粋さがあったからだろう。
『風になってください』はベストセラーにはならなかったがロングセラーとなった。
もうすぐ10刷を迎える。
(2016年10月16日)

阿久根にて

あてもなく走った車は海辺に着いた。
僕達は堤防の横から岩場に上った。
東シナ海の波の音がそこにあった。
風の音もそこにあった。
時々鳥の声も加わった。
でも主人公は静寂だった。
それぞれの音はそれを認識しているかのように緩やかだった。
無音がランダムに訪れた。
京都の日常では出会えない空間だった。
至極の時間が流れた。
旨いコーヒーが飲みたくなった。
無性に飲みたくなった。
僕達は阿久根駅のカフェに向かった。
(2016年10月13日)

新しい靴

50年前、社会にはまだ点字ブロックも音響信号もなかった。
福祉という言葉さえなかったのかもしれない。
その時代に先輩達は白杖を持って集い京都の街を行進した。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる未来に向かって歩き始めたのだ。
希望という名のバトンは引き継がれ
今年50回目を迎えた。
300人を超える仲間、関係者、支援者が集まった。
実行委員長の僕は新しい靴を履いて参加した。
ゴールはまだまだ遥か遠くのような気がする。
辿りつくのは困難だろう。
でも一歩でもそこに近づくために歩き続けるのだ。
僕にできることをやっていきたい。
コツコツとやっていきたい。
新しい靴の紐を結びながら、
無意識のささやかな決意を自覚した。
(2016年10月11日)

三日月

大学の講義は年間30回と回数が決まっている。
専門学校は半年で15回だ。
90分の講義をそれだけ実施するのだから準備も必要だし、
年間の予定も大切になってくる。
ところが僕は様々な活動をしているのでなかなか予定通りにはいかない。
休講とすることも多い。
休講にしたらどこかで補講をしなければならない。
龍谷大学は15時からの4講目が僕の講義があるのでそのまま5講目に補講を入れる
ようにしている。
90分が連続するのだから3時間の講義ということになる。
僕も大変だけど学生も大変だ。
申し訳ないという気さえ起ってくる。
今日も講義が終わってキャンパスを出る時は18時を過ぎていた。
通学が途中の駅まで僕と同じ学生がサポートしてくれた。
歩き始めるとすぐにもうすっかり陽が落ちていることを学生は僕に伝えた。
それからとりとめもない話をしながら僕達は歩いた。
目が見えないおじさんを手引きして夜道を歩くなんて、
1年前の彼女には想像さえできなかったことだろう。
知るということが学ぶということの始まりなのだ。
僕達は何の問題もなく歩いた。
地下に入る駅の手前で学生は夜空を眺めながら僕に伝えた。
「綺麗な三日月です。」
僕達は夜空を見つめた。
教えてあげる喜びと教えてもらう喜びが交差した。
笑顔がこぼれた。
幸せを感じた。
(2016年10月8日)

連鎖

バスターミナルから駅の改札口まで続く通路、
僕はいつものように点字ブロックを手がかりに歩いていた。
「阪急の者ですがお手伝いしましょうか?」
僕は驚いた。
そこは駅の近くだけれど構内ではなかった。
構内で声をかけてもらうことは時々あるが、
その通路では初めてだった。
阪急のとおっしゃったがあくまでも一人の通行人としての行動だった。
僕は改札口までのサポートをお願いした。
たった数十メートル、駅員さんの肘を持たせてもらって幸せな気分で歩いた。
改札口でお礼を伝えてそこからは乗車予定のホームに一人で向かった。
ホームで電車を待つ時間も気持ちは豊かだった。
電車が到着していつものように慎重に乗り込んだ。
間もなく乗客の一人が席を譲ってくださった。
感謝を伝えて座った。
目的の駅に着いて歩き出したら、また別の方が声をかけてくださった。
桂駅から烏丸駅までたった10分ほどの間に3人のサポートを受けたことになる。
一日中歩いても声がかからない日があるのも事実だけれど、
声がかかると不思議とそれはつながっていく。
どうしてかは判らない。
やさしさは連鎖していくのかな。
先日、小学校で子供に尋ねられた。
「目が見えなくなってから、いいことってありますか?」
僕は笑顔で答えた。
「目が見えている頃の何倍もやさしい人に出会えるね。それは幸せだよね。」
やさしい人に出会ったら笑顔になる。
笑顔になると声もかけてもらいやすくなるのかもしれない。
そうやって連鎖していくのかな。
(2016年10月5日)