協会の活動もスタートした。
専門学校の授業もスタートした。
さわさわもスタートした。
三条通、柳馬場通、御池通、麩屋町通、高倉通、六角通、四条通、仏光寺通、烏丸通。
僕が今日一日で歩いた道、歩数にして8,536歩だった。
一歩一歩は小さいけれど、歩き続ければ少しは進む。
ゴールインしようなんて元々考えていない。
ほんの少し未来に近づければそれでいい。
分相応の歩みでいい。
帰り着いたら夜だった。
「星がとっても綺麗ですよ。」
ガイドさんが夜空を見上げて教えてくれた。
「綺麗な月やなぁ。」
直後にすれ違った通行人の会話が聞こえてきた。
やっぱり今日はよく頑張れた一日だったのだ。
僕も夜空を見上げながらなんとなくそう思った。
(2017年1月10日)
夜空
ラグビー
ラジオから流れるラグビー中継を聞きながらのんびりとした時間を過ごした。
高校時代にラグビー部だった僕は卒業してもラグビーが好きだった。
東京での浪人時代には国立競技場までジャパンの観戦に出かけたこともあった。
ウエールズとのテストマッチだった。
桜のジャージィが外国の大柄な選手に果敢に挑む姿に心が震えた。
ノーサイドのホイッスル、試合は大敗だったがその姿に誰もが拍手を送った。
両国の選手がジャージィを交換してグラウンドを一周した時には、
何故か荒ぶる心と熱い涙で映像が曇った。
そういうことができるのが若いということだったのかもしれない。
三回り目の成人の日、僕はどれだけ成人になれたのだろうか。
あの純粋さはどこにいったのだろう。
無関心はいつ憶えたのだろう。
穏かになったのか鈍感になったのか、苦笑してしまう。
苦笑することもいつの間にか身に着けたのかな。
四回目の成人の日にはもう少しましな人間でありたい。
無心に楕円形のボールを追いかけたあの頃のように、
よし、三回目の成人式、もう一度仕切り直しのスタートだ。
(2017年1月9日)
還暦
60歳になった。
60歳になれた。
60歳まで生きてこられた。
じんわりとうれしくなった。
しみじみとうれしくなった。
目が見えたらそれはいい。
見えないよりも見えた方がいい。
見たいという気持ちは今でも捨てられない。
それなのに何も見えない僕がここまでこれたのはどうしてだろう。
目覚めた時から眠るまでいつも灰色の世界なのに生き続けてこられたのは何故だろう。
見るということはあきらめられたのに、
生きるということはあきらめられなかったということなのかもしれない。
そして今湧き上がってくるのは「ありがとう」という純粋な思い。
僕を支えてくださった人にありがとう。
僕を応援してくださった人にありがとう。
そして僕を見捨てなかった僕自身にありがとう。
せっかくの人生、まだまだ楽しみます。
もっともっと楽しみます。
(2017年1月5日)
2017年 元旦
のんびりと2017年の元旦を迎えました。
朝一番にベランダに出て、
亡き父が大切にしていた寒ランにジョーロでたっぷりの水をあげました。
身体に当たる陽光がとても柔らかでした。
見えないのにどうしてそう感じられるのだろうかと自分でも不思議に思いました。
それでそっと手のひらを空中にかざして光を探してみたのですが、
捕まえた光はやっぱり柔らかでした。
微かな風も慎ましやかでした。
それでいいのだと思いました。
失明して20年という時間が流れました。
僕の人生の三分の一を過ぎたということになります。
見えていた頃が少しずつ遠くになっていきます。
記憶がセピア色になってきているのも事実です。
見えていた頃の話をするのに少し照れくささも感じるようになってきました。
でも、僕自身はやっぱり何も変わっていません。
変われなかったということなのかもしれません。
年末に中学校から届いた講演の感想文を読んでもらったのですが、
「カッコいい」とか「素敵」などの表現がいくつもありました。
画像からすれば、
頭の禿げた中年、いや老年にさしかかっている僕の姿がそんな筈はありません。
まだ清らかな中学生の心が人間の生きる力に反応してくれたのでしょう。
僕が中学生だった頃、障碍者に対してそういう感覚を持てませんでした。
社会は確かに変化しています。
そしてもうひとつ共通していたのは、
歯を食いしばっている僕ではなくて、明るく普通に話す僕に向けられていたというこ
とです。
共に生きていく社会の原点を生徒達に教えてもらっているような気がしました。
今年もそういう活動をできればと思います。
僕の歩幅で僕の速さで、
いや僕ののろさで歩いていきます。
このブログも書き続けます。
もう書かなくていい社会がくるまでは書き続けます。
読んでくださっている人が少しずつ増えています。
応援してくださっている人が増えているということでしょう。
ありがとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
(2017年1月1日)
バーバリーのコート
20歳代の後半、リュックサックを背負ってヨーロッパに出かけたことがある。
英語も話せない二人の青年はホテルの予約もなしに出かけたのだから、
若さは無茶で無謀だったということなのだろう。
スーパーマーケットのパンを齧りながら列車で仮眠をとりながら旅を続けた。
約二か月の滞在で一泊1,000円を目指したが無理だったのはパリとスイスだけだった。
なんとかなるという自信は行動をどんどんエスカレートさせていった。
イギリスから始まった旅はオランダ、ドイツ、スイス、ユーゴスラビア、ギリシャ、
イタリア、フランス、スペインと続いた。
スペインまでたどり着いた僕達は何の躊躇もなくジプラルタル海峡を超えてモロッコ
を目指した。
サハラ砂漠を見たいという一心だった。
マラケシュからバスを乗り継いで最後はジープで砂漠に向かった。
やっとたどり着いた砂の大地には青い空と風の音だけが存在していた。
時が止まったような空間を僕は怖いとさえ感じた。
その風景はしっかりと脳裏に残っている。
それ以外にも宝物となっている風景がいくつもある。
絵画のようなヨーロッパの街並み、オランダの風車、スイスの登山電車の終着駅から
見たマッターホルンの雄姿、エーゲ海の港の風景、まるでどれもが絵葉書のようだ。
そしてロンドンのバーで出会った紳士の重圧なコートも何故か強く記憶に残っていた。
そのコートの裏記事の模様が静かで控えめでよく似合っていたからだろう。
それがバーバリーのコートだったと知ったのは帰国して何年もたってからだった。
欲しいと思ったが若い僕には手の届かないものだった。
50歳を超えてから憧れのコートを手に入れた。
見えない僕が裏記事のデザインにこだわるのはおかしいのかもしれないが、
きっとこだわっているのは僕自身の大切な人生なのだろう。
また海外に行きたいとは思わない。
それは見えないからではない。
青春は時代がエスコートしてくれた旅のようなものだったからだろう。
ただこれからも、僕は僕であり続けたい。
見えていても見えなくても。
(2016年12月30日)
歌姫
歌姫の透き通った声が会場をやさしく包み込んだ。
見える人の心にも見えない人の心にも見えにくい人の心にもその声は沁みこんだ。
他を圧倒するような歌唱力でもないしどちらかと言えば地味な歌い方だろう。
それなのに彼女の歌う声は静かにゆっくりと心に沁みこんだ。
僕は北風の中の日だまりを思い出した。
人は誰も望んで障害者にはならない。
病気でどんどん視界が閉ざされていく時、
そこには不安や挫折や悲しみが存在する。
押しつぶされそうになることさえある。
ただじっと、ただじっと耐えるだけだ。
そんなことしかできない。
でもその間に無意識の中で、
人は生きていく力を蓄えていっているのだろう。
冬の凍てつくような大地の下で春が生まれてくるのと似ている。
ちょっと時間はかかったけれど、彼女の春が始まったのかもしれない。
僕は歌姫に大きな拍手を送った。
(2016年12月27日)
先斗町
2016年も残り少なくなった師走の夜、
僕達は先斗町の細い路地を上機嫌で歩いた。
大声で笑いながら歩いた。
細い路地は車も通らないし溝もないのでそこは安全だった。
あっちにふらふらこっちによとよと歩いた。
百年以上前、尊王攘夷の志士達は腰に刀をさしてここを歩いたのかもしれない。
僕達は刀の代わりに白い杖を持ってあるいた。
逞しくて強かった集団とはかけ離れていたが、
未来を夢見た仲間同士の笑顔は同じだったに違いない。
尊敬できる先輩と信頼できる仲間、格別な時間だった。
今年もいい一年だったということだろう。
苦境の中にいても心をひとつにできるということは幸せなことなのかもしれない。
(2016年12月22日)
握手
2時限の授業を終えて帰り支度をしている僕を子供達が取り囲んだ。
「握手してください。」
いくつもの小さな手が僕の前に差し出された。
僕は未来を創造していくひとつひとつの手をしっかりと握った。
ひとつひとつの手にありがとうと言った。
見えないという不便さと不自由さを子供達は学んでくれた。
それでも同じ命であることを知ってくれた。
共に生きていく社会を考えてくれた。
そして出してくれた答えが握手だった。
今年もたくさんの子供達に出会った。
出会うことができた。
機会をくださった先生方、関係者に心から感謝したい。
(2016年12月19日)
素敵な先生
四条通りを祇園に向かうバスはとっても込んでいた。
身動きに困るほどだった。
晴眼者の友人は僕の手を手すりに誘導してくれた。
僕は手すりを握って少しほっとした。
動き出したバスの中で僕は半分ぶらさがったような感じになっていた。
「この席に座ってください。」
ちょっと離れた場所から突然女性の声がした。
それから彼女は僕の白杖をそっと支えて座席に誘導した。
僕は何の問題もなく座った。
プロのガイドでも難しそうな場面だったがタイミングも誘導方法もスマートだった。
僕は感謝を伝えた。
そして隣で立っていた友人にありがとうカードを渡してもらった。
「修学旅行の引率です。」
彼女は中学校の先生らしかった。
僕の喜びは更に大きくなった。
先生と一緒にいた中学生達は一部始終を見ていたはずだ。
きっと先生のさりげない行動を素敵だと感じたに違いない。
僕達に声をかけるのはまだまだ勇気が必要な社会だ。
こういうシーンを見た子供達が大人になると楽しみだな。
途中でバスを降りていった中学生と先生に、
楽しい京都になりますようにと僕は心の中でつぶやいた。
(2016年12月16日)
仲間
研修会場でいろいろな仲間に出会う。
鹿児島から北海道から仲間が集う。
それぞれの人生が集う。
僕は講師という立場なのだけれど実際はいつも僕自身が学ぶ機会となっている。
今回出会った彼は42歳で失明したとのことだった。
企業の第一線で活躍していた彼はヨーロッパでの赴任を終えて帰国した。
ベーチェット病という病魔に突然襲われたのはその直後、
そして入院し三か月後に退院する時には両方の眼球は失っていた。
彼はそれからの人生を多くは語らなかったが、
ここまで来れたことを良かったと表現した。
淡々と話すどの言葉にも悲壮感はなかった。
僕が完全に光を失ったのがそれくらいの年齢だったのかもしれない。
どこかでこんな話を耳にした人はお気の毒にと思うだろう。
かわいそうにと感じるのかもしれない。
それはきっと、自分がその運命と向かい合ったらどうだっただろうかとイメージでき
るからなのだ。
だからその思いの出発はやさしさなのだろう。
ただ実際に彼と話し終えて僕の心に生まれてくるものは同情でも哀れみでもない。
人間が生きていく姿への感動なのだ。
キラキラと輝く人間の命の美しさに胸が震えるようにさえ感じるのだ。
「ヨーロッパの風景を記憶していますか?」
僕は若い頃歩いたイタリアの街並みを思い出しながら尋ねてみた。
「うん、しっかりと憶えているよ。」
彼は静かに笑った。
(2016年12月12日)