視覚障害者協会の地域団体の総会に出席した。
本部の役職をしている僕は来賓ということでお招きを受けることが多い。
挨拶をするのが役目みたいなものだ。
総会の後は懇親会だった。
カラオケも始まった。
歌うということが好きな視覚障害者は多い。
点字の歌詞カードを持参している人もいるし何曲かは記憶しているという人もいる。
弱視の人の中にはテレビ画面に顔がひっつくくらいに近寄って見ている人もいる。
耳元でガイドさんに歌詞を先読みしてもらいながら歌う人もいる。
それぞれの方法で楽しみながら歌っている。
進行役の人から僕にもお誘いがあったが辞退した。
聴く方が好きと伝えた。
いつもそう言ってお断りしている。
人前での歌はちょっと苦手なのだ。
宴会もお開きが近づいた頃、進行役の人が突然僕にマイクを手渡した。
「乾杯」のメロディが流れ始めた。
同時にボランティアさんが僕の耳元で歌詞の先読みを始めた。
照れながら僕は仕方なく歌った。
15年程前の記憶が蘇った。
協会の理事に就任した頃だった。
初めての新年会に出席した。
宴会で先輩に指名されて「乾杯」をアカペラで歌った。
先輩達があたたかな拍手をくださった。
白杖初心者の僕に励ましをくださった。
今思えば、古い建物の一室で食事なども決して豪華なものではなかった。
ただそこには絆があって未来が感じられた。
人前で歌ったのはそれが最初で最後だった。
先輩の一人が笑顔でおっしゃった。
「あの時のことを憶えていたのよ。よく頑張って偉くなったわね。」
僕は偉くはなっていないのだけれど、
先輩に言葉を頂けたことがうれしかった。
「ありがとうございます。」
心を込めて頭を下げた。
受け継いだバトン、僕もいつか次の世代にしっかりと渡していかなければと思った。
(2017年4月27日)
歌
蜃気楼
琵琶湖ホテルに到着するとフロントで会議の部屋と開始時刻を確認した。
会議が始まるまでには1時間くらいあった。
僕はボランティアの学生に遊歩道の散歩を頼んだ。
彼女は笑顔で引き受けてくれた。
学校に関わっていると学生がいろいろな機会にいろいろな場所で協力をしてくれる。
僕の活動を支援してくれる。
今回の会議も慣れない場所で困っていたのだが彼女がガイドを引き受けてくれた。
有難いことだと思う。
図々しい僕は学生だと少々の無茶も言える。
今日も朝のラジオで「行楽日和」という天気予報を聞いた時から、
タイミングが合ったらホテルの前の遊歩道を歩きたいと思っていた。
ホテルの前の遊歩道はこれまでにも幾度か歩いた経験があったのだ。
琵琶湖の風に吹かれながらのんびりと歩いた。
春の日差しの中をゆっくりと歩いた。
階段に腰を下ろして琵琶湖のささやきにも耳を傾けた。
穏かな波だった。
目の前には琵琶湖があるのだが僕の脳裏には菜の花畑があった。
一面の菜の花畑だ。
学生がホテルの前に菜の花が咲いているのを教えてくれたからだろう。
だから僕の頭の中で琵琶湖が菜の花畑に変わったのだ。
僕だけちょっと得をした蜃気楼かもしれない。
見えるとか見えないとかどうでもい時もある。
つきつめれば幸せには無関係だ。
人生そのものが蜃気楼みたいなものなのかもしれないな。
こっそり微笑んで会議に向かった。
(2017年4月23日)
見たくないもの
歯医者さんでの治療を終えて歩きながら、
ふと子供の頃の通院を思い出した。
注射が苦手だった。
注射器も注射針も見たくなかった。
その瞬間目を閉じて顔をそむけていた。
歯を食いしばって身体ごと思い切りそむけていた。
懐かしい思い出だ。
目が見えなくなって目を閉じることも顔をそむける必要もなくなった。
見たくないものを見なくてよくなったということだろう。
そんなことを思いながら歩いていたらガイドさんが街路樹の様子を伝えてくれた。
生まれた黄緑色がどんどん濃くなってきているらしい。
見たくないものは見なくていいけれど見たいものも見えない。
そんなことを思っている間に僕の目の前に絵の具のチューブから色が溢れ始めた。
空も地面も黄緑色一色に染まっていった。
笑顔になった。
人間の感性って素晴らしい。
もうすぐすれば風が薫るのだろう。
今度は嗅覚が風を感じてくれるのだ。
そうやって僕も春色になりたい。
(2017年4月19日)
東舞鶴
電車が東舞鶴駅に到着した。
駅を出てちょっと歩いただけで微風に気づいた。
京都市内で感じる風ではない。
特別に潮の香りがするというわけでもないのだけれど、
間違いなく海を渡ってきた風だ。
それを感じただけで心が落ち着いていく。
不思議な感覚だ。
バス停の椅子に腰かけて風に吹かれながら、
子供の頃の懐かしい映像がいくつもフラッシュバックする。
小学校の運動場から見た海、
波止場から見た海、
島に渡る小舟から見ていた海、
海のある故郷で育ったというのはそれだけでちょっと幸せだったのかもしれない。
今はもう第三セクターになってしまったローカル線で故郷に帰省する時、
車窓から海の風景が見えてきたら胸が熱くなったものだ。
忙しさに言い訳をして飛行機の利用が多くなってしまった。
情けないことなのかもしれない。
のんびりと鈍行列車で動く方が贅沢なのを本当は知っている。
今年はまたローカル線に乗ってみようかな。
落陽の時間に合わせてね。
(2017年4月17日)
レンゲのお花畑
故郷の友人と電話で話をしていた。
「桜はどう?」
挨拶代りのフレーズだった。
それから、子供の頃見ていた花の話題になった。
ところが桜の思い出は出てこない。
桜がなかったのだろうか、
少年時代に見ていた記憶がないのだ。
桜を愛でる習慣がなかったのかもしれない。
ふと彼女はレンゲの花の思い出を口にした。
その瞬間、僕の脳裏にレンゲのお花畑の画像が映し出された。
一気にテンションが高くなった。
それから一輪のレンゲの花の映像も蘇った。
確かに僕が過ごした時代がそこにあった。
故郷の匂いがした。
寝っ転がって見上げた空はとても澄んでいたような気がする。
電話の向こうで彼女が笑った。
僕も笑った。
電話を切って深呼吸をした。
レンゲの首飾りを作ってくれたのは誰だったのだろうか。
思い出そうとしても思い出せなかった。
失った記憶に意味があるのかもしれない。
それでいいような気がした。
(2017年4月11日)
メジロ
ベランダに出て洗濯物を干していたら、
団地の向こう側から聞こえてきた。
間違いなくメジロの鳴き声だ。
距離は判らないがきっと里山のふもとからだろう。
僕は手すりに寄りかかって聞き入った。
少年時代を思い出した。
はこべなどの野草を摘んですり鉢で丁寧につぶした。
薄茶色のすり鉢の中で緑色が美しかった。
それからぬかと混ぜてエサを作った。
そのエサを小さな白い陶器のエサ入れに入れて竹製の鳥かごに置いた。
うれしそうに飛び跳ねながら泣いてくれるメジロをずっと見ていた。
飽きもせず見ていた。
ウグイス色の羽根が綺麗だった。
少しずつ泣き方が上手になっていくのがうれしかった。
口笛で真似したりしていた。
季節は春だったのだろうか。
鳴き声に気づいただけなのに、
ほこりをかぶっていた記憶が見事に蘇っていた。
色彩までが鮮やかなのに驚いた。
幸せを感じた。
ふと空を見上げた。
いつもと同じだった。
映像はなかった。
もう見るということはないのだろう。
でもこれからも美しいものに出会いたい。
耳で聞いててで触れて感じながら生きていきたい。
(2017年4月7日)
春風
彼女と初めて出会ったのは地元の小学校の教室だった。
僕はたまたまその小学校の総合的な学習にゲストスピーカーとして参加していた。
熱心だった彼女とニュータウンの中を歩いたような気がする。
中学校での福祉授業でも出会った。
手引きや点字も勉強してくれた。
毎年いろいろな学校に出かけるけれどそれは要請があってのことだ。
昨年出かけた学校に今年行けるかは判らない。
ちなみに10年という単位で継続しているのは1割くらいだろう。
複数回出会うというのは縁があるということだろう。
ところが、たまたまなのだが、彼女とはその後も出会うことになった。
彼女が通っていた高校の先生方の研修にお招き頂き、
学校までのサポートを彼女にお願いした。
教師を目指していた彼女は教育大に進学した。
大学時代は駅で僕を見かけたら幾度か声をかけてくれた。
この春彼女は大学を卒業し大学院に進学することになった。
お祝いを兼ねてささやかなランチタイムを一緒に過ごした。
食事の後、彼女の手引きで烏丸通りをのんびりと歩いた。
出会った時僕の胸までくらいしかなかった少女は僕よりも少し高くなっていた。
手引き、そこにつながる理解、彼女は10年以上の経験があるということになる。
実際、技術もプロ級だった。
僕は春風を感じながら歩いた。
そんな余裕があったということだろう。
思いを込めて祈りながら種を蒔く。
見えない向こうに種を蒔く。
答えが出るにはやはり時間がかかる。
でもきっと発芽する種があり育ってくれる種がある。
希望を失わないことの大切さ、
春風がささやいた。
(2017年4月4日)
さくらまつり
毎年4月の第一土曜日と日曜日に洛西さくらまつりが開催される。
小畑川沿いの桜並木が桜色に染まる頃だ。
会場ではボランティアさん達が点字や手引きの体験コーナーを開設してくださる。
地域での大切な啓発活動の場となっている。
地味な企画だから特別ににぎわうことはないが、
参加してくださる人は毎年必ずいる。
参加してくださればきっと正しい理解につながっていくだろう。
コツコツと継続することがとても重要だ。
僕もほとんど毎年参加している。
今年の桜はまだつぼみだったがそれなりの人出だった。
数十名の方が点字や手引きの体験をしてくださった。
僕も精一杯頑張った。
年度始めという設定も僕の気持ちを強く推してくれた。
休憩でテントの奥に腰を下ろしていた時、
1人の女性が僕を尋ねてきた。
「小学生の時に松永さんのお話を聞きました。
それから何度かお手伝いをしました。」
28歳になっていた彼女が笑った。
地味な活動でもコツコツやり続ければ、
必ず未来につながっていく。
彼女はそれを伝えるために僕を尋ねてくれたような気がした。
抱っこされていた彼女の赤ちゃんも笑った。
未来が笑った。
(2017年4月1日)
チューリップ
僕達は様々なことを社会にお願いする。
企業に対してであったり地域や行政に向けてであったりする。
見えない人も見えにくい人も参加しやすい社会になって欲しい。
思いはいつも同じだ。
見える人と同じように「普通」に生きていきたい。
ただ何もかもが一気に解決するとは思っていない。
あきらめないということが大切なのだろう。
それぞれの人がそれぞれの立場を超えて理解が深まる時に社会は一歩前に進む。
社会が成熟していくとはそういうことだ。
僕自身も自分のことになれば欲が出る。
それをコントロールするのは難しいから、
50年先の後輩達がと考えるようにしている。
そうすればそんなに大きな間違いにはならないだろう。
今日も行政関係者に相談をするために市役所を訪ねた。
難しい案件だったが丁寧に話を聞いてくださった。
誠実さが伝わってきた。
解決したわけでも好転したわけでもなかったが、
感謝の思いで市役所を出た。
市役所の花壇にはチューリップがあった。
膨らみかけた蕾をそっと触った。
力強く感じた。
うれしくなった。
風はまだまだ冷たい。
でもきっといつか開く。
春がくる。
(2017年3月28日)
10刷り
2003年の師走、僕はボランティアさんと京都駅近くの喫茶店で話をしていた。
彼女は出版関係で仕事をしていた人だった。
たまたま僕のメールの文章を読んでくれた彼女は本を書くということを僕に提案して
くれた。
本を書くなんて素人の僕には何もイメージすることはできなかった。
不特定多数の人が読むかもしれないということへの気恥ずかしさに、
僕の気持ちが硬直したのも事実だった。
それでも決心ができたのは「活字の力」への希望が膨らんだからだろう。
いざ始まるといろいろと大変だった。
まず自分自身が読むかもしれないという現実から逃れたかった。
結局、原稿を書いたらすぐに彼女にメールで送信し、
僕の履歴からは削除するという方法で取り組んだ。
その後の著書もこのブログも方法は受け継がれている。
僕の手元には何もないので自由と平穏が保たれているのだと思う。
2004年12月に「風になってください」がデビューした時専門家に尋ねたことがある。
「どれくらい売れたら成功と言えるのですか?」
その際重版という言葉を知った。
きっと出版社も専門家も勿論僕自身も無縁のことだと思った。
それが重版になってしまった。
たくさんの子供達が読んでくれたということが大きかったような気がする。
それから10年以上の時間が流れた。
どこの本屋さんでも注文も購入もできるけど、
メジャーではないし年数が経っているからほとんど店頭には置かれていない。
それでも少しずつ売れ続けているのはインターネットのせいだろう。
この時代の物流のしくみが後押ししてくれたことになる。
フェイスブックやラインやツイッターなどの口コミも現代の力なのかもしれない。
まさに「活字の力」は僕の活動の力となった。
この春「風になってください」はとうとう10刷りを迎えた。
社会の中にあるやさしさが起こした奇蹟だ。
春のぬくもりのようなやさしさだと思う。
心から感謝申し上げます。
ありがとうございます。
(2017年3月24日)