前奏が流れ厳かな空気が会場を包み込んだ。
開会の辞の後、聖書の一節が朗読された。
校長先生の祝辞にも聖書の一節が引用されていた。
僕は無宗教だが祈りを否定しているわけではない。
アーメンも唱えるし寺社仏閣では合掌もする。
そして祈りを捧げる人達の姿にはいつも何か美しさみたいなものも感じる。
入学式や卒業式で祝辞などを聞くのも好きだ。
そこにはいつも祝辞を述べる人の個性が光り、言葉に力があることが多い。
拝聴しながら自分自身の背筋が伸びるような気になったり学びにつながったりする。
卒業生達一人一人を記憶はできていない。
それは間違いなく画像のせいだと思う。
それでも自然におめでとうの言葉が漏れる。
そして最後には一緒に讃美歌を歌う。
式次第に歌詞があるが僕には読めないし記憶もできていない。
いつもメロディだけを口ずさんでいる。
記念写真には僕も参加している。
撮影者はきっと僕を意識してくださっているのだろう。
カメラがどこにあるか、いつ撮影するかなどを言葉にしながら進めてくださる。
自分では見ることのない記念写真だ。
そこに僕も入っていることがうれしいと思う。
会場を出て堀川通りを歩いた。
満開の寒緋桜に出会った。
濃いピンク色の下向きの花を触った。
最初左手の指で触ったが、すぐに白杖を持ち替えて右手の人差し指にした。
右手の人差し指の先に目があるのかなと自分で可笑しくなった。
春風がコートを脱ぎなさいと告げた。
卒業式が終わって、来月の始めは入学式だ。
桜もそめいよしのになっているだろう。
(2024年3月18日)
春風
水たまりの青い空
土砂降りの雨が止んだ。
雲の隙間から少しだけ青空が顔を覗かせた。
僕達は水たまりを避けながら歩いた。
ガイドの学生が突然つぶやいた。
「水たまりに青い空が映っています。」
瞬間、僕は地面を覗き込んだ。
見えなくなってからは初めての経験だった。
思い出そうとしたがなかなか実際の映像には結びつかない。
でも、確かに、見えている頃に見たことがある。
蜃気楼とか虹とかそういう種類のものだ。
光達の悪戯なのだろう。
そしてその悪戯はいつも幸せを運んでくれたような気がする。
足元に空がある。
ちっちゃな水たまりに大きな青い空がある。
そう思ったら幸福感が僕を包んだ。
見えても見えなくても関係ない。
光達、凄いなぁ。
とっくの昔に失くしていた大切な写真を見つけ出したような気になった。
2024年3月13日)
光だけでも
携帯電話から懐かしい声が聞こえてきた。
京都で活動していた頃の知り合いの女性だった。
弱視の彼女は全盲の僕のこともいつも一緒に考えてくれた。
直接話すのは数年ぶりだった。
メールでお願いしていた要件についてわざわざ電話をくれたのだ。
彼女の声は相変わらず元気でハキハキとしていた。
聡明な感じも当時と同じだった。
用件が終わった後、少しだけ間が空いた。
「ちょっとだけ病気が進んだみたいなの。」
戸惑い気味の小さな声が聞こえてきた。
僕は一瞬で状況を理解できた。
本当は次の用事で急いでいたが、それをあきらめて電話に集中した。
「例えば、どんな感じなの?」
僕はゆっくりと問いかけた。
目の前に霧が出たように感じる日があること、
時々画像がゆがむように感じること、
見るのが辛く思えることがあること、
そしてそれに付随する日々の生活の様子が語られた。
僕は相槌を打ちながら聞き続けた。
それは見えなくなる過程で僕も経験したことだった。
それからわざと尋ねた。
「女性に年齢を尋ねるのは失礼かもしれないけれどさ、今何歳だったっけ?」
僕が予想していたくらいの年齢だった。
「病気は少しずつ進んでいくよね。それは仕方ないよね。
でもその年齢だったら、きっと人生の最後まで光は残ると思うよ。」
僕は非科学的な答えと分かっていたがそう伝えた。
「こんなこと、松永さんにくらいしか言えないから。」
彼女はキャッチボールにならない言葉を僕に返してから少し笑った。
僕は最後に付け加えた。
「それからさ、貴女なら大丈夫だからね。」
電話を切ってしばらく考えた。
僕は夢中だったが、何が大丈夫と言おうとしたのだろう。
見えなくなっても大丈夫だよと本当は言いたかったのだと思う。
でも、見えなくなってもは言えなかった。
見えない毎日の暮らしを否定しているわけじゃない。
見えなくても楽しいこともあるし、25年間生きてきたのは事実だ。
でも、見えなくなってもは何故か口にできなかった。
それから神様に祈った。
「本当に光だけでもいいから、彼女に最後まで残してあげてください。」
(2024年3月10日)
春の始まり
啓蟄も過ぎた。
僕は作業着に着替えて庭に出た。
決して広い庭ではないが僕には十分だ。
今朝の気温は5度、まだまだ暖かいとは言えない。
庭のあちこちを歩いて数か所で腰を降ろした。
そしてゆっくりと地面に触れた。
触るということは僕にとっての見るということだ。
冬の間に積もった枯れ葉も残っていたが、あちこちから雑草が芽を出していた。
触れる度に指先はうれしそうに止まった。
数センチに育っているものもあった。
その強さと逞しさにはいつも感動する。
弱虫の僕はその姿に憧れてしまう。
深呼吸をしたら今度は耳が喜んだ。
ウグイスの鳴き声だ。
しかもまだまだ半人前の鳴き方だ。
頑張れってつい思ってしまう。
下手っぴの声の方が聞き入ってしまうから面白い。
神様のさりげないおもてなしはいつも凄いと思う。
笑顔になって空を見上げた。
空を見上げると無意識に空を見つめてしまう。
自分でもおかしいと思うが何故か閉じている瞼を開いてしまうのだ。
自分の無意識の行動がちょっと照れくさくなる。
そしてやっぱり考えた。
戦争が終わって、世界が平和に包まれますように。
何もできない自分自身の無力さが淋しい。
でも、とにかく春が始まった。
僕は感謝の気持ちを持って、この春を享受していきたい。
(2024年3月7日)
10年の時を超えて
彼女が高校生の時、当時僕がよく利用していた桂駅での出来事だった。
駅で困っていそうだった僕に彼女は声をかけてサポートしてくれた。
河原町行の電車に一緒に乗車したとのことだった。
そして僕は『ありがとうカード』を彼女に手渡した。
僕にはその時のしっかりとした記憶はない。
毎年、いろいろな場所でいろいろな人にサポートを受けて生きてきた。
『ありがとうカード』を受け取ってくださった人は計り知れない数だ。
老若男女、たまには外国人の方もおられた。
すべてに感謝しているがそのほとんどは記憶はない。
これは画像のせいだと思う。
しかもサポートを受けた時間はほとんどが数分程度だ。
声だけで記憶することはできない。
そして、彼女ともそれ以後出会う機会はなかった。
彼女は大学では社会人類学を学び、カナダでワーキングホリデーをしたり、バックパ
ッカーで世界中を一人旅したりしたらしい。
行動力のある人だということは伺えた。
様々な文化や価値観に触れながら、夢を育んでいったらしい。
夢はいろいろな立場の人達が癒される社会につながる内容だった。
その夢の途中で僕を思い出してくれたとのことだった。
約10年ぶりの再会となった。
僕達は地下鉄の駅の改札口で待ち合せた。
昔からの知り合いみたいに、彼女のサポートを受けて歩いた。
何の違和感もなかった。
近くのカフェで歓談した。
彼女の夢に僕が貢献できることはほとんどないかもしれない。
でも、まさにマイナーな僕達のことも考えてくれたという事実がうれしかった。
悲しい暗いニュースが世界を席巻していっているように感じる時がある。
報道に接して気分が重たくなることも増えたような気がする。
だからかもしれない。
キラキラとした目で未来を語る人達に出会うと幸せになる。
心から拍手を送りたくなる。
そして僕自身はもう若くはないが、いつまでも夢を語れる人でありたいと願う。
(2024年3月2日)
プラネタリウム
何歳の頃だったのかも憶えていない。
場所がどこだったのかも憶えていない。
誰と一緒に行ったのかさえも憶えていない。
連れて行ってくれた人には失礼だと思うのだが記憶がない。
目を見開いて天井を凝視したことは憶えている。
幾度もチャレンジしたことは憶えている。
それでも満天の星空はやっぱり見えなかった。
ないものねだりだったのは知っている。
頭で理解できていてもやっぱり見てみたいと思ったものがいくつかある。
星はその代表格だったのかもしれない。
見えている頃、僕には夜盲という症状があった。
物心ついた頃からそうだったのでそれは当たり前のことだった。
夜道を一人で歩くことはできなかったし、暗闇が怖かった。
ただ、月が見えるのに星が見えない理由が僕には分からなかった。
頑張ればきっと見えるとどこかで思っていたような気がする。
35歳を過ぎた頃から目に異常を感じ始めた。
視力がどんどん落ちていったし霧に包まれているような状態になった。
それでも35年間見えていた僕には失明はイメージできなかった。
それはないとどこかで思っていた。
拒否反応だったのか過信だったのか分からない。
だんだんと霧は濃くなっていった。
10年近くの時間をかけて目の前の変化は完全になくなった。
少し明るめのグレーが目の前に横たわっている。
目を開いても閉じても変化はない。
光を失いながら同時に影も失っていったのだろう。
白杖で夜道を歩いていても、もうそこには暗闇は存在しない。
変化のないグレーがあるだけだ。
見えていた頃よりも恐怖心は少ないかもしれない。
そしてないものねだりは姿を消した。
見ることはできないにしても感じられるようになりたいと思えるようになった。
もう一度、プラネタリウムに行ってみたくなった。
(2024年2月26日)
10センチ先
もう20年くらい関わっている高校から次年度の希望調査が届いた。
この高校は単位制の学校で、総合学習で点字という科目を実施している。
僕はその科目を担当しているのだ。
年に5日間だけ通っている。
その学校から次年度も講師を継続する意思があるかどうかのお尋ねが届いたのだ。
自由業の僕はこういうことの積み重ねで生活してきた。
収入につながることも勿論大切なことではあるが、何より次世代の若者たちにメッセ
ージを届けることができる。
また声をかけて頂けたということは有難いことだ。
だが、ひとつだけ変化が起こった。
学校が違う場所に引っ越ししたのだ。
同じ京都市内だが数十キロ離れた場所で、最寄り駅などもすべて違う。
滋賀県の自宅からバスに乗り、JR、東西線、烏丸線、そしてバスと乗り換えがある。
経路をすべて記憶しなければいけない。
ホームをどちらに動き、点字ブロックをどこでどちらに曲がるかなどのすべてを記憶
するのだ。
曲がる場所が一つ違っても、左右を一度勘違いしても辿り着けない。
そして、そこにはいつも危険が横たわっている。
恐怖心に打ち勝つためには身体に憶えこまさなければいけない。
今日で三日目の訓練、だいぶ自信ができてきた。
もう一息だと思う。
たった10センチに必死になる。
白杖を握りしめ、耳を澄ませて進む。
足裏の触覚も自然に頑張る。
ひょっとしたら不細工な姿かもしれない。
でも、僕は不細工な僕が好きだ。
10センチ先の未来に真剣に向かう自分が好きなのだと思う。
(2024年2月22日)
バレンタイン
バレンタインデーに和菓子が届いた。
届けてくださったのは視覚障害者の先輩だ。
いや、ガールフレンドと表現した方が適切かもしれない。
彼女は僕より一回りは年上だがいつもチャーミングだ。
僕はすぐにお礼の電話をした。
「チョコレートばかりじゃ食べ飽きるだろうからわざと和菓子にしたのよ。」
彼女は悪戯っぽく笑った。
現実、もう僕はバレンタインとはほぼ無縁の中で暮らしている。
そういう年齢だ。
学生から所謂義理で頂いたものと、たまにバッタリ出会うガイドヘルパーさんからの
ものなどの数個だった。
ガイドヘルパーさんからのチョコは思いもかけないものだったせいかとてもうれしか
った。
僕にとってのバレンタイン、世間のイベントが静かに通り過ぎていく感覚かな。
ただ、ガールフレンドの和菓子は何故かちょっと心に染みた。
彼女の目はだいぶ見えなくなってきていることを僕は知っている。
進行性の病気だ。
きっとガイドヘルパーさんの目を借りながら選んでくれたのだろう。
祇園界隈では有名な老舗の和菓子だった。
その辺りで生きてきた彼女らしいチョイスだと思った。
彼女と会ったら、別れ際に必ずハグをしてくれる。
性別などを超えたものが実在することを今更ながら感じる。
「人生の最後まで見えていたらいいね。きっと大丈夫だよ。」
僕はハグの中でつぶやく。
「ケセラセラよ。」
彼女は笑う。
ホワイトデーには何か届けたいな。
ちゃんと持って行こう。
ケセラセラを確かめなくちゃ。
(2024年2月17日)
桜の風景
日本気象協会のHPで今年の桜開花予想日を覗いてみた。
滋賀県彦根市は3月28日だが京都市は3月22日となっている。
大津市は京都市の隣に位置するから22日過ぎくらいとなるのだろうか。
3月末には満開を迎えるのかもしれない。
まだ啓蟄もきていないのに気が早すぎるのは自覚している。
それでもそんなことを思うのは春を待っているということだろうか。
目を閉じるといくつかの桜の風景が浮かぶ。
最初に浮かぶのは若い頃に見ていた桜だ。
ニュータウンの団地が立ち並ぶ一角、ゴミ置き場の近くという不似合いな場所に桜の
巨木が悠々と立っていた。
それを見ながら通勤していたのを憶えている。
幾度も足を止めて見上げたものだ。
団地の近くの小畑川の桜も見事だった。
北山の鴨川沿いの道を勝手に桜街道とな付けて喜んだりもした。
阪急河原町駅から地上に出たところ、木屋町通りの夜桜も好きだった。
丸山公園の桜も幾度も見た。
見たことのある桜を思い出すのは理解できる。
でも、実際には見ていないはずの桜も思い出したりする。
訓練を受けていた頃のライトハウスの近くのお寺にあった桜、
舞鶴に講演に出かけた時の駅の近くの桜、
東京に出張した時に仲間と歩いた千鳥ヶ淵の桜、
池袋の公園で雪の中で見た桜、
四条河原町の料理屋さんの大きな窓から見えた高瀬川の桜、
大津市に引っ越してからの三井寺の桜、数え上げればきりがない。
見たことがない風景があるというのは不思議だけれどうれしい。
見えない僕もいくつもの春を過ごしてきたということなのだろう。
僕の人生も四季折々の中に実在してきたということなのかもしれない。
今年もまた春を迎えられそうだ。
またどこかで桜に会えたらいいな。
(2024年2月13日)
留学生
介護の専門学校での今年度最後の講義が終わった。
マニタとプレナとマニシャが駅まで送ってくれた。
3人はネパールからの留学生達だ。
女性ばかりでは不安という理由でフィリピン出身のイアンも同行してくれた。
僕はボディガードと彼は笑った。
介護福祉士養成の専門学校の講師ということでいろいろな国からの留学生達と交流する機会を持つことができた。
覚えているだけでも、韓国、中国、インドネシア、ベトナム、台湾、フィリピン、コロンビア、モンゴル、ブラジル、沢山の留学生達と関わった。
留学生達は日本語は上手とは言えないことが多いのだがとても陽気で明るいイメージ
だ。
そして優しい。
僕のサポートも教えた通りにしっかりとやってくれる。
困っていそうな視覚障害者を見たら手伝いたいとのことだ。
留学生達と話をすると僕は日本について考える。
ネパールでは白杖も観たことがないし視覚障害者に出会ったことはなかったとのこと
だ。
僕は日本に生まれたこと、そしてたまたま日本という国で視覚障害者となったことを
自然に感謝してしまう。
「いつかネパールの障害者や高齢者の力になりたい。」
留学生達は屈託のない笑顔でそう話した。
留学生達が日本で生きていくのはとても過酷だと思う。
置かれている状況、生活の様子、それが伝わってくる。
アルバイトで得たわずかな収入から家族に仕送りをしていることも僕は知っている。
そして自分達はとても質素な生活をしている。
まさに夢を持って生きているのだ。
地下鉄の改札口で別れて点字ブロック沿いに階段へ向かった。
少し歩いたところでなんとなく背中に視線を感じて振り返った。
「ハーイセンセー、気をつけて。」
留学生たちは僕が大丈夫か見ていたのだろう。
「大丈夫、バイバイ!」
僕は手を振った。
留学生達も笑顔で手を振った。
しばらく歩いたところでまた声がした。
「センセー、また会いたいよ。」
背中の声に僕は頷きながら階段に向かった。
世界中の人が皆幸せになれたらいいな。
心からそう思った。
(2024年2月8日)