ジョンディーコン

僕が支援しているジョンディーコンが6年間の小学校生活を終えた。
関係者や現地スタッフに手伝ってもらって家庭訪問することにした。
彼の家は港の近くのスラム街のような場所にあった。
人間同士がやっとすれ違えるくらいの路地の両側に小さな家が建ち並んでいた。
竹や廃材を利用して作られた家はまさに小屋のようだった。
それが30度の気温の中に密集していた。
野放しの鶏があちこちで鳴いていた。
独特の異臭が立ち込めていた。
僕はボランティアさんの手引きでやっと歩いた。
急な坂の手すりもない自然石と廃材の階段のような場所を幾度かよじ登った。
危険な場所では住民達が幾度も僕の身体を支えてくれた。
6人の家族が暮らす家は2畳の広さで窓もなかった。
全員は寝れないので道端で寝たりするとのことだった。
台所もトイレもなかった。
勉強机もなかった。
ジョンディーコンと彼のお父さんとお母さんが僕達を迎えてくれた。
笑顔だった。
ご両親は心のこもった感謝の思いを僕に伝えてくださった。
部屋には成績優秀でジョンディーコンが表彰されたメダルが飾ってあった。
「将来何になりたいの?」
僕はおとなしそうなジョンディーコンに尋ねた。
「ドクター。」
彼ははっきりと答えた。
堂々と答えた。
僕はうれしくなった。
その可能性がどれだけあるのか見当もつかない。
でも彼の夢がかなうように同じ地球人の僕はできることをやりたいと思った。
順調にいっても大学を卒業するのにあと10年かかる。
僕の生きていく目標がひとつ増えた。
僕は感謝しながらジョンディーコンと握手した。
(2018年4月8日)

セブ

大学を卒業してからの17年間は児童福祉の仕事に関わっていた。
元々やりたかった大好きな仕事だった。
一生続けたいと思っていたしそうなるだろうと勝手に思っていた。
35歳頃から目に異変を感じ始めた。
少しずつ病気は進行していった。
39歳になった頃には文字もほとんど読めなくなり、
普通に歩くことにさえ不安を感じるようになってしまっていた。
間もなく退職を決意したが涙が止まらなかったことを憶えている。
悔しかった。
残念でならなかった。
見えなくなったら何もできなくなってしまうのではないかと不安に怯えた。
それでも何か僕にでもできることがあるのではないかという思いを消すことはできなかった。
願いだったのかもしれない。
でも自分が生きていくことさえ大変な時が続いた。
見えない人間が仕事をして収入を得るということはまだまだそんなにたやすいことではない。
ある意味、失明そのものよりも苦難の日々だった。
そんな中でフィリピンのセブの子供達のことを知った。
貧困で教育を受けられない子供達がいるとのことだった。
1か月1000円あれば学校に行かすことができるとのことだった。
それくらいなら僕にもできるかもしれない。
僕はその活動に参加することにした。
あれからどれくらいの時間が流れたのだろう。
何人かの子供を小学校に行かすことができた。
見えなくなった僕にもできること、僕でも役に立てること、
ささやかだけど自分自身を認めてあげられるひとつになった。
その団体の法人化10周年の記念イベントがセブで開催されることになった。
僕はもう縁がないだろうと思っていたパスポートを再申請した。
子供達の支援を続けてこられたのは、
僕が僕であり続けられたというひとつの証なのかもしれない。
僕に関わってくださったすべての人に感謝しながらセブ行の直行便に搭乗した。
(2018年4月7日)

おにぎり

50歳直前に再会した小中学校時代の友人、
彼の名前ははっきり憶えていたが顔は思い出せなかった。
最後に会ってから30数年という時間が流れていたのだから仕方ない。
卒業アルバムも確認できない僕にはそれはどうすることもできなかった。
彼はそんなこととは無関係に僕と接してくれた。
僕の人生に思いを寄せてくれた。
自宅に招待してくれて少年時代を振り返った。
僕の活動に賛同してサポートしてくれるようになった。
彼のサポートで実現した講演は10会場を越え、聞いてくださった人は数千人となっ
た。
彼はそれをいつも自然体でさりげなくやってのけた。
僕の気持ちに負担をかけないようにとの配慮もあったのだろう。
幼馴染っていいなと感謝した。
ただ彼の奥様は僕とは直接の接点はない。
電話で話したりメールでのやりとりはあったが直接会ったのは数回だ。
勿論、彼女の顔を見たことは一度もない。
そんな会話になると「残念ね。」と悪戯っぽく笑う。
今回の鹿児島、二人が駅まで送ってくれた。
友人とトイレにいっている間に彼女は売店に走ったのだろう。
おにぎりとパンを僕に手渡した。
「新幹線の中でお腹が空いたらこれを食べるのよ。」
彼女が彼氏に言うように、いや、母が息子に言うように。
僕は握手をしながら笑った。
彼女も微笑んだ。
今回の講演で出た質問を思い出した。
「見えなくなって、幸せを感じるのはどんな時ですか?」
僕は事実をそのまま伝えた。
「見える人よりも、やさしい人に出会える機会は多いよね。」
僕は新幹線の中でニヤニヤしながらおにぎりを頬張った。
(2018年4月2日)

新年度

企業の新入社員の研修会にお招きを受けた。
3週間という研修の最後の日だった。
担当者から「人間力」というテーマを預かった。
とは言うものの、僕に特別なことができるわけでもない。
灰色の向こう側にいつものように話をした。
1人ひとりに心を込めて語りかけた。
「一分間だけ見えるとしたら何を見たいですか?」
講演の最後に1人の女性が質問をしてくれた。
質問の裏側には見せてあげたいというやさしさが隠れている。
そんな質問が出るということが僕にとっては成功だった。
見えなくなって間もない頃、講演先の小学校で出会った少女を思い出した。
12歳だった少女は同じ質問を僕に投げかけた。
あの少女はどんな人生を歩み、どこでどんな風に生きているのだろうか。
幸せに暮らしているだろうか。
どんな幸せを見つけただろうか。
不思議な気持ちになった。
失明してから20年あまりの歳月が流れた。
こうして元気にここまでこれたのは僕は間違いなく幸せということだ。
149個の門出、それぞれの人生がそれぞれの幸せにつながるように祈った。
僕もまた新しい年度を迎える。
幸せに向かって歩んでいこう。
(2018年3月31日)

2通のメール

同じ日に2通のメールが届いた。
24歳と92歳、どちらも女性というのはちょっとうれしい。
24歳の女性とは彼女が19歳の時に出会ってから5年ぶりに再会した。
当時の目標を彼女は達成できなかったらしく、
この5年の時間の中で苦しんだり悲しんだりしたらしい。
彼女の心の中では挫折の領域だったのだろう。
どう生きるのかということと向かい合う日々を過ごしたらしい。
5年ぶりに一緒に歩いた彼女は素敵な大人の女性になっていた。
悲しみや苦しみは少ない方がいい。
避けて通りたい。
でもそれは長い人生のどこかで意味を持ってくるのだろう。
きっと幸せにつながっていくのだろう。
92歳の女性は今まさに失明と向かい合っておられる方だ。
教え子の介護士から紹介された。
たまたま出会った僕の著書が少しは役に立ったらしい。
僕は感謝の手紙を介護士に託した。
僕は40歳で光を失った。
人間が人生の最後のステージでその事実と向かい合わなければならないとはどういう
ことなのだろう。
僕には想像さえつかない。
そこまでどう年を重ねてきたかということがカギになるのかもしれない。

2通のメールを以下に貼り付けておきます。
同じ日に届いたということが僕へのメッセージのひとつになりました。
生きるということは深い営みの中にあるのかもしれません。
これ以上の僕の言葉は薄っぺらくなるのが判っているので書きません。

昨日は、楽しくて豊かな時間をありがとうございました。
私の下手くそな誘導に、根気よく付き添っていただき、感謝しています。
紳士的でチャーミングなおじさまとデートができて1日中幸せでした。
一時期は京都に行くのが辛くて、意識的に避けていたこともあったのですが、
昨日 松永さんとゆっくりとお散歩をして、改めて「京都ってきれいな街だなぁ」と
思いました。
桜も、すれ違う着物の女の子たちも、鴨川も、整然とした道も何もかもきれいでした。
京都で学生生活を送ることができ、本当に良かったです。
そして、「松永さん!」と声をかけてくれる人たちや、電車やバスで席を譲ってくれ
る方々、出会う人たち皆んなが、とても優しい笑顔でした。
もしも、暇で暇でしょうがない日や、書類整理が面倒で泣きそうな日があれば、いつ
でも呼び出してくださいね。

ご丁重な お手紙をありがとうございました。
思いがけないことで感謝の思いでいっぱいです。
先生からじきじきのお便りを頂けるなんて夢のようです。
ここに至るまでの多くの方のご好意とつながりに感謝です。
私のために先生の御本を買ってくださった方、カセットテープに録音してくださった
方、そして私の感動を先生にメールしてくださった介護士さん。
私は、こんなやさしさと、いたわりに囲まれている幸せな92才のおばあさんです。
今失明を間近に感じながら日々を過ごしていますが、大丈夫です。
まだ少し残されている光を感謝しつつ歩みたいと願っています。
先生の御本にお出会いできたおかげでこんなに大きな恵みを頂いて感謝いっぱいです。
ありがとうございました。
先生の御健康と御活躍をお祈りしつつ一言御礼申し上げたくつたないペンをとりまし
た。

(2018年3月30日)

お花見

バス停で一緒になった彼女は僕の乗るバスを尋ねた。
僕の乗る予定のバスは彼女が乗る予定のバスと同じだった。
バスが到着して僕は乗り込んだ。
僕の後ろから乗車した彼女はすぐに僕の腕を持って優先座席に案内した。
ただ足元はおぼつかなかった。
「おやすいごよう。」
そうつぶやきながら彼女は僕の隣に座った。
咲き始めた桜の話が皮切りだった。
もうすぐ90歳とのことだった。
仲良しだった友人は皆老人ホームに入所してしまったらしい。
それが原因で外出の機会はとても少なくなったようだ。
通院と買い物だけが外出の機会らしく、今日は買い物とのことだった。
数年前まで出かけたお花見の話題もあった。
ただ、どの話題にも家族は登場しなかった。
お一人暮らしなのが伺えた。
淡々と切なく流れる時間の中に彼女の暮らしがあった。
「網膜症って知ってるか?」
突然彼女は今朝のニュースの話題になった。
iPS細胞のニュースだったらしい。
「もうちょっと頑張りや。見れるかもしれんからな。」
どこの誰かも知らない彼女が心のこもった言葉を僕にくださった。
「頑張ります。」
僕は笑って答えた。
いつかそんな日があったら、
桜の花弁を1枚手のひらに乗せて、そっと見てみたい。
小さな小さなお花見だ。
それから青い空を見上げて彼女にありがとうって言おう。
誰にも気づかれないように、そっと。
(2018年3月29日)

過去のブログ、オープンのお知らせ

松永信也です。
ブログを読んでくださってありがとうございます。
書きためたものを整理して、
いつか形にできればという思いがありました。
そのため、一定期間過ぎたブログはロックをかけていたので
読んでいただけない状態でした。
いろいろとご要望もありましたし、
また形にこだわることもないと思うようにもなりました。
そこで、過去のブログもすべてオープンとすることにしました。
また気が向かれたら、時間が許せば、いろいろとお楽しみいただければ光栄です。
まだまだ、日々の発信も続けますので、
引き続き宜しくお願い致します。
(2018年3月28日)

先生

三日間のガイドヘルパー講座が無事終了した。
僕はいつものように全力で取り組んだ。
受講生とはほとんどが初対面で今後の再会の予定はない。
僕が僕達のことを伝えるということではワンチャンスということになる。
いつの間にか知らず知らずのうちに力が入ってしまう。
受講生はいろいろな立場の方がおられる。
教育関係者、福祉関係者、家族、一般の方、学生・・・。
最終日の意見交換、
「知ったふりをしていることもあったので」
専門学校の先生は淡々と感想を述べられた。
僕は仕事柄たくさんの先生と出会う。
先生と呼ばれる職業の方達と出会う。
「知らない」と告白することは難しい場合もあることは知っている。
まして教え子の前では先生を演じきらなければならないこともある。
学ぶということは知らないことを知ったり勘違いしていたことを修正したりする作業
だ。
そこには基本的には立場はない。
でも講座の中でその立ち位置に立つには勇気もいるだろう。
感想を述べられた先生を素直に素敵だと思った。
そういう先生方と出会う学生達がきっと得をするのだろう。
僕ももうすぐまた新しい学生達と出会うことになる。
自分を戒めて、そんな先生にならなくちゃと改めて思った。
(2018年3月25日)

春景色

ふきのとう、タラの芽、タケノコ。
季節がてんぷらになって出された。
僕はひとつ食べるとお茶で舌を整えて次の食材に箸を進めた。
それぞれの苦みやえぐみがそれぞれの春を主張した。
愛おしいと思った。
春を迎えられたという普通のことを純粋に幸せだと感じた。
子供の頃、苦みを美味しいとは思わなかった。
年を重ねながら味覚は変化してきたのだろう。
人生の苦しみや悲しさに出会いながら、
その深さと豊かさに築いていったのかもしれない。
東京は雪の舞い降りる中に桜が見えた。
忘れられない春景色になった。
(2018年3月22日)

介護施設で働く教え子から連絡があった。
卒業してから5年の歳月な流れていた。
高齢になって目が不自由になってこられた女性との会話に僕の本が登場したらしい。
素直にうれしいと感じた。
僕の本が誰かの力になってくれたとすればそんな光栄なことはない。
僕が失明したのは40歳くらいの時だった。
それまでの仕事を続けられなくなって社会での居場所を失ったような気になった。
挫折感もあったし孤独感にも襲われた。
ただ体力はあった。
まだまだ気力もあったのかもしれない。
目だけではないが、高齢になってから身体のあちこちが不自由になる人がおられる。
その辛さや口惜しさは僕には想像できない。
でも人は生きていく。
きっと生きていく。
長い暗いトンネルの中でただ押し黙って呼吸する。
頬を伝う涙が、自らの吐息が、雪解けのように少しずつ何かを解かしていく。
僕は突き動かされるように一気にメッセージを書いた。
それを教え子に託した。
「見えなくなって20年という時間が流れました。
今でも見たいという気持ちと決別することはできません。
でも、見えていた頃の僕も今の僕も、やっぱり僕は僕なんだと自信を持って言えます。
たくさんの先輩や仲間達との関わりの中で、
障害へのイメージは変わりました。
人間の価値と障害は無関係です。
そしてどんな状況でもキラキラと生きていけることを学びました。
貴女と教え子との出会い、そして僕の本との出会い、
人間同士のつながりって素敵ですね。
貴女の生活が少しでも笑顔の中にあるように、
心から願っています。
そして、いつか出会える日がありますように。
もうすぐ、今年の桜が咲きますよ。
それぞれに春を楽しみましょう。
感謝を込めて。」
書き終わってラジオをつけたら東京の桜が咲いたとニュースが流れた。
千鳥ヶ淵の桜を見たいと思った。
(2018年3月18日)