ちまき

灰汁で炊かれた竹の皮は茶色に変化していた。
その竹の皮を剥がすと黄金色にも似た灰汁まきが横たわっていた。
僕達は灰汁まきではなくて粽と呼んでいた。
もち米だけでできているとは思えない風貌だった。
母ちゃんが糸を使って適当な大きさに切り分けてくれた。
それに砂糖と黄な粉をまぶして食べた。
5月5日の端午の節句の頃に食べていた。
子供の頃はそれを特別においしいと思ったことはなかった。
それなのに遥か彼方の記憶の中にしっかりと生きている。
年を重ねながら蘇ってくる記憶には何か意味があるのかもしれない。
兜を愛用するような勇猛果敢な人生はおくれなかった。
弱虫の男の子だったのだろう。
でも竿からはずれたこいのぼりのように自由に生きてこれた。
臆病者だから大空を逃げ回っていたのかな。
戻っていく川を探し続けているのかもしれない。
久しぶりにちまきを食べてみたくなった。
(2018年5月5日)

無言のぬくもり

バス停でバス待ちをしていた僕に彼女は声をかけてくださった。
名乗ってくださったが誰なのかは判らなかった。
僕の本を読んだということをうれしそうにおっしゃった。
それから三日前も一か月くらい前も僕を見かけたと教えてくださった。
でも誰かと一緒だったので声をかけるのを躊躇されたらしかった。
やっと機会に出会えたという感じだった。
彼女は本の感想などは何もおっしゃらなかった。
今朝の天気予報と目前の雲一つない空の青さを口にされた。
それからバスが到着するまでの時間は無言で過ごされた。
僕達は無言で会話していた。
見えない僕が言葉をやりとりできない世界は本当は難しい。
でも心はそこを越えてしまう時があるから人間って素晴らしい。
数分間の無言の会話の後やっと彼女は口を開かれた。
「バスがきました。気をつけていってらっしゃい。
お会いできてうれしかったです。」
「ありがとうございます。行ってきます。」
僕は感謝を伝えてバスに乗り込んだ。
(2018年5月2日)

高校生と外国人

高校での授業がスタートした。
初めて出会った高校生達に僕が高校生だった頃の思い出を語った。
思い出はキラキラと輝いていた。
そして少しの切なさも秘めていた。
自分の世界がどんどん広がっていった時期だった。
ただ、障害を持った人達について学ぶ機会はなかった。
だから大人になっても障害を持った人とのコミュニケーションは難しかった。
初日のたった2時間の授業で高校生達は見えない僕と笑顔をかわせるようになった。
若い頃の経験はそのまま血肉となるのだろう。
僕と出会ったことで人生はほんの少し豊かになるに違いない。
「ありがとうございました。」
「失礼します。」
授業が終わるとそれぞれが言葉を声に出しながら教室を出ていった。
「また今度ね。」
僕も1人ひとりに声を出して答えた。
学校を出てバス停に向かった。
バス停に着いたら周囲は皆外国人だった。
僕はいろんな国の言葉が飛び交う中で自分の乗るバスを探さなければならなかった。
ドアが開いた瞬間に流れる行先案内の放送を確認しなければならないのだ。
たった一回の放送は耳を澄ませても雑踏では聞き分けにくい。
緊張感を持って立っていた。
一台目のバスが停車した音が聞こえたが確認はできなかった。
僕はきっと不安そうな顔でキョロキョロしたのだろう。
隣で男性の声がした。
僕は英語は判らないのだけど最後の「セブン」は聞き取れた。
ひょっとして、まさか、そう思って立っていた。
次のバスが到着するエンジン音が聞こえた。
「サーティナイン」
彼はその言葉を2度繰り返した。
バスの39号という案内も聞こえた。
やっぱり彼は僕に番号を教えてくれていたのだ。
僕は彼に向かい合って、
「ナンバー スリー」と伝えた。
「ナンバー スリー OK!」
彼は笑った。
数台のバスが行った後3号のバスが到着した。
彼が今度は僕にそっと触れながら教えてくれた。
「サンキュウ ベルマッチ!」
僕はそう言いながらバスに乗り込んだ。
後ろから「バイバイ」という彼の声が聞こえた。
僕は彼に手を振ってそれから頭を下げた。
異国の地で日本語もできない彼の行動をカッコいいと思った。
あの高校生達がそんな大人になってくれるかもしれないとふと思った。
(2018年4月28日)

60万アクセス

おめでとうとメールが届いた。
たくさんの人から届いた。
他府県の人も複数おられた。
ブログは2012年に始まった。
覗いてくれた人のカウントは少しずつ少しずつ積み重ねられていった。
そして今日60万という数になった。
僕が両手を使って1から指折り数えてもきっとたどり着けないだろう。
数字と真正面から向かい合ってあらためて背筋が伸びる気がした。
僕達のことを少しでも正しく理解して欲しい。
僕達も参加しやすい社会になって欲しい。
願いがきっかけでスタートした。
だからはけ口にならないようにしようとその時決めた。
日常の暮らしの折々に悲しいことや辛いことはいくらでもある。
それを書けば涙をこぼしてもらえるかもしれない。
でも怒りや悲しみの涙からは笑顔は生まれない。
願いは希望、希望は未来、それは輝いていて欲しい。
だからいつも未来を向いて書いてきた。
これからもそうだ。
未来を向いてさえいれば共感してくださる人達がきっと風になってくださる。
60万人目のアクセスは視覚障害の女性だった。
届いた報告メールには60万の偶然への喜びと一緒に「体調に気をつけて」と書いてあった。
うれしかった。
光栄だと思った。
60万のひとつひとつのアクセスに心からありがとう。
これからも読んでいただければうれしいです。
(2018年4月24日)

木曜日

木曜日、午前中の専門学校での講義が終わると一旦休憩モードになる。
昼食を済ませて午後の大学へ移動する。
電車を乗り換えての移動は大変ではあるけれど、
ラッシュアワーは過ぎているのでマイペースで行ける。
それでも1時間くらいのゆとりがある。
その1時間を大学のキャンパスにあるカフェでぼんやりと過ごすことが多い。
この季節は冷暖房がオフで入口のドアが開放してある。
店内を柔らかな風が吹き抜ける。
のどかな音楽が控えめに流れている。
新年度を迎えた学生達はまだ真面目に講義に出ているのだろう。
店内はまばらだ。
僕はうとうとしながら睡魔と闘ったり仲良くなったりする。
コーヒー一杯で過ごす時間の豊かさに笑顔がこぼれる。
こういうのを贅沢って言うのだろう。
意味がないことに意味があることに気づく。
今年度もまた新しい学生達との出会いがある。
いつも何かを教えてもらったり感じさせてもらったりしている僕がいる。
こういう仕事をさせてもらえることに感謝したい。
(2018年4月20日)

会長

僕の地元の西京視覚障害者協会の総会が開催された。
会員とボランティアさん、50名を超す人が集まった。
新しい会長が選出された。
40歳代の全盲の男性だ。
満場一致の拍手が彼のスタートを激励した。
そしてこの7年間会長として頑張ってくださった前会長にも深く感謝が伝えられた。
僕も40歳代の頃地域の会長を経験したことがある。
活動の意味の理解もその方法も僕自身が未熟で大変だった。
忙しく感じた。
でも先輩達が真摯に社会に関わろうとされる姿を見て、
僕にもできることを精一杯やろうと思った。
あれから20年近くの時間が流れた。
地域の会長を退いてから京都府の理事となり様々な委員会や審議会にも関わった。
とうとう国の同行援護の委員会などにも関わるようになった。
我ながらよく頑張ってこれたなと思う。
自分のためだけだったらここまでできなかっただろう。
活動が仲間や後輩の力となっていくという確信があるからやってこれたのだ。
あの頃は忙しくなったと思っていたのはスタートに過ぎなかった。
いつの間にか忙しいと感じなくなってしまった。
忙しいと感じる時間がなくなってしまったのかもしれない。
裏返せば元気でやってこれたということだろう。
まだもう少しはやれそうだ。
今年度も僕は僕の立場で頑張ろう。
(2018年4月15日)

EMS

15年程前、3人の日本の女性達は家族の仕事関係でそれぞれセブで暮らしていた。
そしてたまたま出会った。
彼女達はサントニーニョ教会の周辺で物売りをしている子供達のことを知った。
学校にも行かずに、いや行けずに物売りをしている子供達だった。
屈託のない笑顔の子供達は痩せこけていた。
彼女達は政治家でもないし宗教者でもない。
国が抱える貧困問題を解決するなんてできない。
大きなことはできない。
でも痩せこけた笑顔の子供達のために何かをしたいという思いを抑えることはできなかった。
3人は6人の子供達に小学校に通う機会をプレゼントした。
それがささやかなスタートだった。
賛同する人達が少しずつ増えていった。
2008年にNPO法人として組織化された。
現地事務所が開設されフィリピン人のスタッフも雇用された。
会員は間もなく100人となり支援している子供の数は40人近くになった。
僕は日本と言う国で生まれて、平和の中で今こうして暮らしていることに心から感謝している。
日本と言う国を愛している。
その暮らしの中で何かを否定する気はまったくない。
凡人としてありふれた幸せを求め続けている。
煩悩を抱えながら生きている。
これからもきっとそうだろう。
でも、少しだけ、地球人でありたいと思っている。
セブで出会った子供達は僕の手を握って自分の額にあてて祈ってくれた。
「bless you!」
貴方に神様のご加護がありますように。
僕は10周年イベントで子供達にメッセージを伝えた。
「将来どんな仕事をしたいか夢を持って頑張ってください。
教育は夢をかなえる力のひとつになります。
これからも支援を続けます。」
白杖を持つ手に少し力が入った。
自分自身への決意表明だったのかもしれない。
明日から新年度の仕事がスタートする。
また新しい気持ちで生きていこう。

EMS http://cebu-kodomotachi.jp

(2018年4月11日)

ジョンディーコン

僕が支援しているジョンディーコンが6年間の小学校生活を終えた。
関係者や現地スタッフに手伝ってもらって家庭訪問することにした。
彼の家は港の近くのスラム街のような場所にあった。
人間同士がやっとすれ違えるくらいの路地の両側に小さな家が建ち並んでいた。
竹や廃材を利用して作られた家はまさに小屋のようだった。
それが30度の気温の中に密集していた。
野放しの鶏があちこちで鳴いていた。
独特の異臭が立ち込めていた。
僕はボランティアさんの手引きでやっと歩いた。
急な坂の手すりもない自然石と廃材の階段のような場所を幾度かよじ登った。
危険な場所では住民達が幾度も僕の身体を支えてくれた。
6人の家族が暮らす家は2畳の広さで窓もなかった。
全員は寝れないので道端で寝たりするとのことだった。
台所もトイレもなかった。
勉強机もなかった。
ジョンディーコンと彼のお父さんとお母さんが僕達を迎えてくれた。
笑顔だった。
ご両親は心のこもった感謝の思いを僕に伝えてくださった。
部屋には成績優秀でジョンディーコンが表彰されたメダルが飾ってあった。
「将来何になりたいの?」
僕はおとなしそうなジョンディーコンに尋ねた。
「ドクター。」
彼ははっきりと答えた。
堂々と答えた。
僕はうれしくなった。
その可能性がどれだけあるのか見当もつかない。
でも彼の夢がかなうように同じ地球人の僕はできることをやりたいと思った。
順調にいっても大学を卒業するのにあと10年かかる。
僕の生きていく目標がひとつ増えた。
僕は感謝しながらジョンディーコンと握手した。
(2018年4月8日)

セブ

大学を卒業してからの17年間は児童福祉の仕事に関わっていた。
元々やりたかった大好きな仕事だった。
一生続けたいと思っていたしそうなるだろうと勝手に思っていた。
35歳頃から目に異変を感じ始めた。
少しずつ病気は進行していった。
39歳になった頃には文字もほとんど読めなくなり、
普通に歩くことにさえ不安を感じるようになってしまっていた。
間もなく退職を決意したが涙が止まらなかったことを憶えている。
悔しかった。
残念でならなかった。
見えなくなったら何もできなくなってしまうのではないかと不安に怯えた。
それでも何か僕にでもできることがあるのではないかという思いを消すことはできなかった。
願いだったのかもしれない。
でも自分が生きていくことさえ大変な時が続いた。
見えない人間が仕事をして収入を得るということはまだまだそんなにたやすいことではない。
ある意味、失明そのものよりも苦難の日々だった。
そんな中でフィリピンのセブの子供達のことを知った。
貧困で教育を受けられない子供達がいるとのことだった。
1か月1000円あれば学校に行かすことができるとのことだった。
それくらいなら僕にもできるかもしれない。
僕はその活動に参加することにした。
あれからどれくらいの時間が流れたのだろう。
何人かの子供を小学校に行かすことができた。
見えなくなった僕にもできること、僕でも役に立てること、
ささやかだけど自分自身を認めてあげられるひとつになった。
その団体の法人化10周年の記念イベントがセブで開催されることになった。
僕はもう縁がないだろうと思っていたパスポートを再申請した。
子供達の支援を続けてこられたのは、
僕が僕であり続けられたというひとつの証なのかもしれない。
僕に関わってくださったすべての人に感謝しながらセブ行の直行便に搭乗した。
(2018年4月7日)

おにぎり

50歳直前に再会した小中学校時代の友人、
彼の名前ははっきり憶えていたが顔は思い出せなかった。
最後に会ってから30数年という時間が流れていたのだから仕方ない。
卒業アルバムも確認できない僕にはそれはどうすることもできなかった。
彼はそんなこととは無関係に僕と接してくれた。
僕の人生に思いを寄せてくれた。
自宅に招待してくれて少年時代を振り返った。
僕の活動に賛同してサポートしてくれるようになった。
彼のサポートで実現した講演は10会場を越え、聞いてくださった人は数千人となっ
た。
彼はそれをいつも自然体でさりげなくやってのけた。
僕の気持ちに負担をかけないようにとの配慮もあったのだろう。
幼馴染っていいなと感謝した。
ただ彼の奥様は僕とは直接の接点はない。
電話で話したりメールでのやりとりはあったが直接会ったのは数回だ。
勿論、彼女の顔を見たことは一度もない。
そんな会話になると「残念ね。」と悪戯っぽく笑う。
今回の鹿児島、二人が駅まで送ってくれた。
友人とトイレにいっている間に彼女は売店に走ったのだろう。
おにぎりとパンを僕に手渡した。
「新幹線の中でお腹が空いたらこれを食べるのよ。」
彼女が彼氏に言うように、いや、母が息子に言うように。
僕は握手をしながら笑った。
彼女も微笑んだ。
今回の講演で出た質問を思い出した。
「見えなくなって、幸せを感じるのはどんな時ですか?」
僕は事実をそのまま伝えた。
「見える人よりも、やさしい人に出会える機会は多いよね。」
僕は新幹線の中でニヤニヤしながらおにぎりを頬張った。
(2018年4月2日)