宝物

17時前に京都駅を発車した電車は地元の比叡山坂本駅に17時13分に到着した。
20分かからない近さなので座れない僕には有難い。
京都駅ではわざと電車の後方車両に乗車するようにしている。
比叡山坂本駅では後方車両が改札口に続く階段に近いからだ。
今回もロスのないほぼ完ぺきな動きで3分後にはバス停に到着することができた。
先日全盲の後輩が僕の単独移動の力量を絶賛してくれたが、僕自身もちょっとはそう
思っている。
白杖一本で見える人と同じように動いているからだ。
目隠し状態で世間の流れになんとか乗れている。
我ながら凄いことだと時々思う。
39歳で見えなくなった時に1年間の歩行訓練を受けた。
そしてそれから27年間歩き続けた。
社会に参加したいという一心だった。
必然が僕の歩行技術を伸ばしていったのだろう。
その僕の弱点は記憶力の低さだ。
特に数字は苦手だ。
人の名前も憶えられない。
最初からあきらめている。
一番の原因は憶えるための努力が苦手なのだと思う。
時刻表が見れないということは記憶するしかないのだがそれはしていない。
だからバス停に到着しても次の発車時刻は分からない。
いつくるか分からないバスを待っているという日々だ。
バスの本数が1時間に2本くらいだということだけは分かっている。
そのバス停からは2方向のバスが発車するのだが僕が乗れるのは片方だけだ。
行先を到着時の自動音声で確認する。
バスのドアが開いた時に行先案内が自動で流れるしくみだ。
時々音量が小さくて聞こえなかったり動いていなかったりすることもある。
時々と言っても数十回に1回くらいかな。
ドアの自動音声以外にも運転手さんがマイクで復唱してくださることもある。
これはとても助かる。
バスを待っている周囲の人が教えてくださることもある。
20分くらい待った時にバスのエンジン音が近づいてきた。
僕は耳を澄ませた。
運悪く自動音声が流れていなかった。
運転手さんのアナウンスもない。
周囲のお客さんはバタバタと乗り込んで行かれた。
僕はこれまでも違うバスに乗り込もうとした経験があるので躊躇してしまった。
どちらのバスだろう。
誰かに尋ねなければと考えている間にドアが閉まってしまった。
なんとなく嫌な予感がしたがその予感は的中してしまった。
それから時間だけが過ぎていった。
帰宅してから調べてみたら17時台のバスは02分と31分だった。
乗れなかったのは31分発のバスだったのだ。
次のバスがきたのは18時06分だった。
50分くらい立ち続けたことになる。
素直じゃない僕は思う。
見えないことが悔しいんじゃない。
記憶力がないことが淋しい。
でも開き直る。
社会に参加したいという強い思い、持って生まれた平衡感覚と運動能力、それに困っ
た時のコミュニケーション力などすべてが僕の外出を支えてくれている。
そして失敗して落ち込んでも一晩寝たら回復してしまう気持ちは宝物だ。
考えようによっては鈍感ということなのだろうが、とにかく単純なのだろう。
そしてその単純な自分がどこかで好きなのだと思う。
結局、また時刻を記憶しようという努力には結びつかない。
無事帰宅できたのだからいいやと思ってしまう。
立ち尽くす練習はしてもいいかな。
(2024年5月2日)

地球儀

小学校高学年の頃だったと思う。
お年玉で地球儀を買った。
球型のプラスチックに世界地図を貼ったような簡易なものだった。
それを飽きることなく見ていた記憶がある。
少年の心はきっといろいろな旅をしていたのだろう。
空想が尽きることはなかった。
丸い地球が宇宙空間に浮かんでいることはなんとなく理解した。
でもいくら考えても南半球の人が落ちないのは不思議だった。
海は広いと思った。
日本が小さいのにも驚いた。
あの時にいろいろな国を憶えればよかったのにと今頃後悔している。
最近知り合った人はチリという国に住んでいる。
チリがどの辺りなのかあまり分からない。
情けない。
季節は日本と逆らしくもうすぐ秋が終わって冬を迎えるらしい。
時間も日本が朝を迎える時に夜が始まるらしい。
分かるような気にはなるがやっぱり不思議だ。
それでも僕達の言葉はメールを使って一瞬にお互いに届く。
見える人は画像もやりとりするのだろう。
エアメールの便箋や封筒を知っている僕は凄い時代になったのだと実感する。
彼女のメールには雲一つない空の様子が描かれていた。
澄み切った空気の中で空は真っ青らしい。
僕の心は少年時代のように空を飛んだ。
思い描く空想の時間は豊かに流れた。
もし目が見えたら、スマホのカメラが映し出した空を眺めるのかもしれない。
でも、それはいくら画素数が高い画像だとしても本物のそらじゃない。
そして空の大きさはスマホの画面では何百万分の1も映し出されない。
と考えると見えない僕の空想の方がひょっとしたら真実に近いかもしれない。
そんなことまでも空想しながら僕はふと笑顔になる。
負け惜しみって言われるかもしれないけれど。
(2024年4月28日)

爽やかな言葉

木曜日はハードスケジュールのことが多い。
龍谷大学での講義が通年で4時限目に入っている。
午前中に別の用事が入ればどうしてもハードになってしまう。
4月と5月は1時限目に福祉の専門学校での講義がある。
6月以降は大阪の高校も10日程ある。
長時間の外出となるし移動距離も長くなる。
昨日も朝7時前には家を出た。
バスで比叡山坂本駅まで行き、そこから湖西線で山科まで行く。
山科で地下鉄東西線に乗り換えて烏丸御池、そこで烏丸線に乗り換え、次に竹田で近
鉄電車に乗り換えて向島だ。
ちなみに目が見える人はこんなに複雑な乗り換えはしない。
見えない僕はいつもリスクを考えて動く。
朝7時台の京都駅での移動は避けたいと思う。
とんでもない数の人が動くからだ。
大きなスーツケースをゴロゴロ動かしながらの観光客も多い。
白杖や点字ブロックのことを知らない外国人も多い。
その中を目隠し状態で単独で動くのだからスムーズに行くのは難しい。
ちょっと遠回りで乗り換え回数が多くなっても仕方ないという判断だ。
ただ、このルートだから簡単ということでもない。
朝の駅はどこもそれなりに凄い人だ。
その中でホームを歩き、階段を上り下りし、エスカレーターを利用し、改札を通過し
なければいけない。
人の流れに乗りながら改札機にカードをタッチするのも至難の技だ。
電車も時々押しつぶされそうなくらいに込んでいる。
手すりを探すのも一苦労だ。
幸いに体力もあるしそれなりの移動技術もあるからできているのだと思う。
それでもちょっとしたサポートで助かるし安全度も高くなる。
烏丸御池の乗り換えで男性が声をかけてくださった。
声からして20歳台か30歳台かくらいだろう。
混雑の中で僕達は瞬時にお互いの行先などを確認して動き始めた。
僕は階段でもエスカレーターでもどちらでも大丈夫とかの情報も伝えた。
僕達は問題なく烏丸線のホームに到着した。
階段を昇って数十メートル、これだけでも助かる。
いつもは混雑時に電車に乗るのは緊張する。
降りる人がいつ終わったかを微かな音で判断しなければいけないからだ。
彼が一緒だったのでそこも不安なく対応できた。
電車に乗り込むとすぐに彼が僕に伝えた。
「席を譲ってくださるみたいですが、座りますか?」
僕はありがとうございますと口に出しながら喜んで座った。
席を譲ってくださる確率は単独移動の時よりサポーターと一緒の時の方がはるかに高
いから不思議だ。
見える人同士はコミュニケーションを取りやすいということだろう。
その後驚いた。
彼は譲ってくださった人に再度丁寧にお礼を言ってくださった。
彼はついさっき僕と出会ったばかりで、まさに赤の他人だ。
しみじみとうれしさが込み上げてきた。
やがて電車は十条に到着した。
「僕はここで降ります。ドアは5歩くらい先の左です。」
「ありがとうございました。助かりました。」
僕はありがとうカードを渡した。
彼は右手で軽く僕の肩に手を添え、
「良い一日を。」と言って降りていかれた。
たった7文字の言葉をとても爽やかに感じた。
帰宅したら20時を過ぎていた。
専門学校と大学での90分ずつの講義、友人とのランチ、学生との懇談、乗り換えた
交通機関は11、歩数は1万3千歩を超えていた。
充実した一日だった。
そして、爽やかな言葉が僕の良い一日をアシストしてくれたのは間違いないとしみじ
みと思った。
(2024年4月26日)

関西阿久根会

関西阿久根会のイベントに誘って頂いた。
関西阿久根会は鹿児島県阿久根市出身で関西に住んでいる人達の会だ。
今回は愛知県からの特別参加もあった。
僕以外は皆僕より1歳年下の同学年の人達だった。
ひとつ間違えば招かざる客と成り兼ねない危険性もあったが、
それでも阿久根という言葉に魅かれて参加した。
小さな不安はすぐに解消された。
皆あたたかく迎えてくださった。
僕が参加することを知って、わざわざ著書を読んでくださった人もおられた。
光栄だと感じたしうれしかった。
著書に書いていた東シナ海に沈む落陽の美しさを共有した。
それは子供の頃に当たり前のように見ていた風景だった。
そんな話題などで歓談してから昼食場所に向かった。
昼食はバーベキューだった。
見えない僕は座っているだけで何も手伝いはできなかったが、おいしく食べることは
できた。
お腹いっぱい食べた。
食後のトイレも問題なく対応してくださった。
それから醍醐寺を散策した。
雨の中、僕はゆうこちゃんの肘を持たせてもらって歩いた。
僕の小学校1年生の時の担任の先生は翌年も1年生を担任されたらしかった。
僕とゆうこちゃんはたまたま同じ先生の思い出で以前から知り合いだった。
それでも数年ぶりの再会だったのだが何の違和感もなくサポートしてくれた。
おいが、はんが、うんどんが、阿久根の言葉が自然にこぼれた。
本堂も五重塔も絵画も仏像も僕には見えない。
それでも一緒に散策する時間は楽しかった。
遠足のような気分になった。
八重桜が春の終わりを告げていたし、つつじがつぼみを膨らませていた。
久しぶりに雨の似合う風景に出会ったような気がした。
記念写真には僕も笑顔で参加した。
途中幾度も思った。
ここにいる人達はほとんど同じ時代にあの阿久根の風景を見ていたのだ。
それだけでどこかに同じDNAがあるような気になった。
故郷の不思議な糸を感じた。
今見えていても見えていなくても、思い出す風景があるということは幸せなことなの
だろう。
それも最高の風景だ。
また機会があれば参加させてもらえたらと思った。
(2024年4月22日)

ハブ ア ナイスデイ

電車を降りて点字ブロックの上に乗った。
烏丸線から東西線に乗り換えるのだが、目的の方向は分かっていた。
ただ、そこに行くための点字ブロックが右に行けばあるのか左に行けばあるのかで一
瞬迷った。
人波が落ち着いてから動くことにした。
こういう時に慌てないのも技術のひとつだと思っている。
「何か困っていますか?」
女性の声だった。
「東西線に向かおうと思っているところです。」
彼女は僕の隣に動いてくださった。
「どうぞ肘を持ってください。手引きします。」
手引きという言葉で何か経験のある人なのかと思った。
僕達は通路を抜け階段を降り東西線のホームに向かった。
彼女は実際に慣れた感じで動かれた。
「慣れておられますね。」
彼女はホームヘルパーの仕事を長くしていて、利用者さんに視覚障害の方もおられた
と話してくださった。
「もうおばあちゃんだから、昔のことよ。」
少し照れくさそうにそう付け加えられた。
ただ、僕と一緒に歩く姿勢にも動きにも、そして会話にも老いは感じられなかった。
電車が到着すると彼女は空いてる座席を見つけて誘導してくださった。
僕が座るのを確認して彼女も僕の隣に座られた。
「私は東山で降りるから、後は気をつけてね。」
僕はありがとうカードを渡して感謝を伝えた。
彼女はそれを読んでくださっている様子だった。
「こんなカード、初めてもらった。うれしいわ。
この年になっても誰かの役に立つって本当にうれしい。」
その話しぶりからうれしさが僕にも伝わってきた。
「もうおばあちゃんなのよ。」
彼女は再度そうおっしゃった。
きっと老いの始まりを感じておられるのだろう。
受け入れなければならない事実と戸惑う気持ち、それは僕自身も最近感じ始めている
心境だった。
「手引きの動きもお話も、まだまだ歳は全然感じられませんよ。
僕は見えないから、若いよとおっしゃればそれで通じます。」
それについての言葉は返ってこなかった。
しばらく静かな時間が流れた。
車内放送が東山を告げた。
ハブ ア ナイスデイ ありがとう。」
彼女はそう言ってドアに向かわれた。
その言葉と動きを可愛いと感じた。
「ありがとうございました。またお願いします。」
僕は笑顔で彼女の背中に返した。
(2024年4月19日)

チューリップの花

咲いた、咲いた、チューリップの花が。
僕は上機嫌だったが、でも小さな声で歌った。
近所の人に聞かれると恥ずかしいと思ったからだ。
昨年の冬、視覚障害者の友人からチューリップの球根をプレゼントしてもらった。
見えない彼女が僕のために数種類の色を選んでくれた。
ひとつひとつが大きな球根だった。
僕は玄関先のプランターなどにそれを植えた。
冬の終わりくらいに出た芽はどんどん成長した。
そして4月初旬くらいから次々と開花した。
大きな球根だったからか大きな花が咲いた。
僕がこれまで知っていたチューリップでは一番大きな花だった。
僕はひとつひとつの花をゆっくりと触った。
掌で包み込めないくらいの大きさだ。
その見事さに感心した。
赤、白、黄色、ピンク、紫、想像した。
春の光を浴びている姿を想像した。
並んだ、並んだ、チューリップの花が。
歌いたくなるくらいにうれしかった。
それから咲いたことをメールで彼女に報告した。
彼女のうれしそうな笑い声が聞こえたような気がした。
(2024年4月15日)

乗り換え

大阪から地元の比叡山坂本に帰る時には京都駅で電車を乗り換える必要がある。
大阪から京都駅に到着する電車は2番ホームだ。
比叡山坂本に向かう湖西線は3番ホームから発車する。
これは同じホームの両側ということで乗り換えにはラッキーだ。
問題は人の多さだ。
朝夕のラッシュ時には半端な数じゃない。
大きな人波を横切らなければいけない。
点字ブロックを白杖で確認しながらの数メートルの移動なのだが大変だ。
大きな川にかかる手すりのない一人分の幅の橋を渡るという感覚だ。
渡るスピードも早過ぎても遅すぎてもいけない。
白杖も前に出し過ぎると他の人の足に絡んで危険だし、でも周囲に僕を知らせる役目
もある。
渡り切るのは芸当と言ってもいいかもしれないとさえ思っている。
渡り始めて半分くらいのところで声がした。
「こんにちは。15,6年前に授業を受けました。」
彼女はそう言って僕をサポートしてくれた。
短いやりとりの中でそれがどこの学校だったかも分かった。
僕達はお互いに名乗らなかった。
でも、それはどうでもいいことだった。
彼女は僕の名前を呼ばなかったのできっと忘れていたのだろう。
名前は憶えていなくてもサポートは憶えていてくれたのだ。
僕が一番伝えたかったことをちゃんと憶えていてくれたのだ。
僕を電車に乗せながら彼女は付け加えた。
「全然変わっておられなかったのですぐに分かりました。」
そんなことで僕が喜ぶというのも憶えていてくれたのかもしれない。
僕はニコッと笑って、それから深く頭を下げて感謝を伝えた。
帰り着いたらその学校から今年度の学生の名簿が届いていた。
しっかりと伝えていく仕事をしなければと思った。
(2024年4月10日)

ダイヤ改正

JRのダイヤ改正に合わせて地元のバスもいろいろと変更になった。
だいたいが赤字路線だったと思われるし、運転手さんの確保も難しい時代らしい。
それにしても大幅な改正となってしまった。
平日の便数が59便から36便になってしまったのだ。
土日祝は32便、1時間に2便くらいということになる。
僕の家から駅までは1キロはないと思う。
見える人は駅まで歩いておられるようだ。
見えない僕にはそれはさすがにハードルが高い。
道は曲がりくねっているし、交差点も数か所ある。
白線だけで示された細い歩道もあるようだ。
その地図を理解し記憶し、そして対応するというのはそうたやすいことではない。
自分の歩行技術、体力、総合的に判断してあきらめている。
ということは公共交通機関のお世話になるということになる。
往路はバスの時刻に合わせて家を出ればいい。
それでも駅での電車待ちの時間が少し増えそうだ。
復路はどうしようもない。
電車で駅に着いてからゆっくりとホームを歩く。
改札を出てロータリーのバス停に向かう。
電車が遅延することも珍しくない。
バス停で30分近く待機ということもあるかもしれない。
考えただけでため息が出る。
それでもまた今年度もいろいろと予定が入ってきているのはうれしいことだ。
既に半分くらいはスケジュールは埋まっている。
社会に参加できるということだ。
僕にもできることがまだあるということだ。
いくらバス停で待つことになったとしても、感謝して過ごしていきたいと思う。
(2024年4月1日)

風雨

強烈な雨だった。
傘を叩く雨音、水路を走る水の音。
それ以外の音は消えていた。
近くを走っているはずの車のエンジン音さえも聞こえなかった。
僕は背筋を伸ばして前を向いた。
白杖のグリップを握った感覚を確認した。
強すぎても弱すぎてもいけない。
路面の感覚を一番感じる握り具合、それは経験が学習していた。
歩き始めた。
点字ブロックもない普通の歩道だ。
溝蓋の端の微かな切れ目を白杖の先で感じながら歩くのだ。
そうすれば真っすぐに歩ける。
まさに神経をそこに全集中だ。
転機のいい日の歩行では顔の前、頭部付近には若干の恐怖心がある。
木の枝など空中にあるものにぶつかると痛いからだ。
雨の日は幸いにこれがない。
傘をさすことで顔や頭部を自然に防禦することになるのだ。
歩道が緩やかな下りになるまで歩き続ける。
そこが最初の目標地点だ。
予定通りにその坂を降りると横断しなければいけない車道が待っている。
滅多に車はこない場所だがゼロではない。
そして一応車は一旦停止となっている。
エンジン音も聞こえないのだから、後は祈りだけだ。
渡りますよと身体全体で訴えながら歩く。
渡り切ったところはまた歩道の縁石がある。
ここが二つ目の目標だ。
そしてそこから17歩進めばバス停だ。
ここは手掛かりがないから歩数でいくしかないのだ。
ここという場所で白杖を静かにゆっくりと車道側に動かす。
バス停に白杖が当たる。
到着。
見えない人間がほとんど聞こえない環境で歩くというのは大変な作業だ。
それでもやればできるものなのだ。
「ご苦労様」
到着した自分自身の労をねぎらう。
そして願う。
「帰りには雨も風邪も止んでいますように!」
(2024年3月27日)

お彼岸

部屋のすぐ外でメジロが鳴いた。
語り掛けるように鳴いた。
耳を疑った。
日の出までにはまだまだ時間があるはずだ。
僕はそっと触針腕時計の針を触った。
音声時計はわざと控えた。
やっぱり朝までにはまだまだ遠い時間だった。
思いを巡らせてすぐにお彼岸であることに気づいた。
瞬間的に理解した。
「父ちゃんが会いにきてくれたんだ。」
子供の頃に父ちゃんと一緒に育てたメジロの姿が蘇った。
いや、父ちゃんが育てていたメジロの世話を僕も手伝ったりしたのだ。
野草を摘んですり鉢でくだいてからきな粉と水を加えた。
トロッとした感じになったのを陶器のエサ入れに入れた。
それを鳥かごに置いた。
メジロはおいしそうにえさをつついた。
そのエサがメジロの鳴き声を美しくするのだと父ちゃんは教えてくれた。
僕は飽きることなくメジロの歌声を聞き入った。
その姿にも見とれた。
だから今でも鳴き声はすぐに分かるし、その姿をはっきりと思い出すことができるの
だと思う。
メジロの身体の色合い、緑の野草、きな粉の黄色、エサの黄土色、エサ入れの陶器の
白、鳥かごの薄茶色、そのままに蘇った。
父ちゃんが蘇らせてくれたのだ。
メジロの鳴き声の後からは父ちゃんの声も笑顔も蘇った。
科学では説明しきれない出来事を自然に受け止められる年齢になってきたのだろう。
僕は布団の中で喜びをかみしめた。
「父ちゃん、ありがとう。」
僕は心の中でつぶやいた。
(2024年3月22日)