故郷の同級生が送ってくれた宅急便に入っていた。
大きさは普通のみかんくらいだった。
持ったらなんとなくちょっと重たく感じた。
皮をむこうとして親指を突き刺した瞬間に柑橘系の香りが溢れてきた。
皮はむきやすくはなかったが一応むけた。
一房を口に放り込んだ。
内皮は柔らかかった。
果汁がいっぱいだった。
噛んだら何とも言えない甘さが口中に広がった。
甘さと酸っぱさのバランスが絶妙だった。
一房、また一房、あっという間に一個を平らげてしまった。
食べながら同級生の声を思い出した。
空港まで送ってくれた彼女は微笑みながら言った。
「健康に気をつけて頑張ってね。」
本当に気をつけようと真面目に思った。
(2019年3月4日)
クレメンタイン
医療関係者
著書へのサインを求められたらすることにしている。
最初の頃は照れくささがあった。
凡人なのだから仕方がない。
いつの頃からか好んでするようになった。
感謝を表現できるひとつの方法だと思えるようになったからだろう。
今回も講演後のサイン会に準備された本はすべてなくなった。
医療関係者の学会だった。
有難いことだと感謝した。
そしてそのやりとりの際に会話が生まれたりすることも多い。
「いいお話でした。心に沁みました。」
「本、小学生の息子に読ませます。」
「またいつかどこかでもっと話が聞きたいです。」
「明日からの仕事、頑張ろうと思いました。」
「障害を持った人に声をかける勇気が出ました。ありがとうございました。」
「応援しています。頑張ってください。」
身に余る言葉が並んだ。
40歳代だという男性は彼が出会った病魔について話をしてくださった。
突然、身体がどんどん動かなくなっていったらしい。
告げられた病名を調べるためにスマートフォンを握っても、
その指さえが動かなくて愕然としたとのことだった。
絶望感の中でやっと呼吸をしておられたのが想像できた。
幸い、彼は効果的な治療と出会うことができた。
「治って本当に良かったですね。」
僕は自然に彼の手を強く握った。
いろいろな病気がある。
治るか治らないか、それは仕方のないことなのだろう。
どの時代なのか、どの国なのか、様々な環境が医療を変えていく。
いつか僕の病気も治る日がくるのかもしれない。
ただ、僕の人生に間に合うかは分からない。
例え治らない病気に出会っても人は生きていく。
そしてその命を人は応援していく。
生きていく価値を人は認め合う。
そこが人間の素晴らしさなのだと思う。
彼は僕の手を強く握り返した。
(2019年2月28日)
各駅停車
鹿児島中央駅から川内駅まで新幹線なら12分だ。
でも僕はわざと鹿児島本線の各駅停車に乗車する。
所要時間は約1時間、のんびりとタイムスリップできるのだ。
伊集院、湯之元、市来、串木野、木場茶屋、
記憶にある駅名のアナウンスが流れる。
高校時代に幾度も乗車した列車はまだSLだったかもしれない。
キラキラした眼差しで車窓の風景を見ていたのだろう。
あれから半世紀近くの時間が流れた。
風景は確認できなくなったが、思い出は生きている。
その思い出に触れる度に人生を振り返る。
これで良かったのか分からない。
でも一生懸命に走ってきた結果が今なのだろう。
そしてもう戻れない。
ここまできて気づいたこと、
早いことがいいのでもなく、勝つことがいいとも限らないということ。
残りの時間、せめて各駅停車で過ごしていこう。
寄り道しながら、休憩しながら過ごしていこう。
僕なりに生きていきたい。
(2019年2月25日)
行動的
先生は駅まで送ってくださった。
駅に着いたのは発車2分前だった。
次の電車まで30分あることも知っていた。
僕は駅員さんへのサポート依頼を断念して飛び乗った。
行動的なのか無謀なのか、そんな部分が僕にはあるようだ。
数年ぶりに訪れた滋賀県の中学校、
生徒達はしっかりと話を聞いてくれた。
未来への種蒔きができたような気がした。
滅多に乗ることのない草津線の電車の中で僕は充実感と一緒にくつろいだ。
電車が草津駅に到着して琵琶湖線に乗り換えなければいけなかったが、
通行人のサポートを受けて無事乗り換えられた。
電車が山科駅に近づいて降りる準備を始めた。
進行方向を確認できていなかったことに気づいた。
乗っている電車がどちらに向かって動いているのか、
画像がないとなかなか判らない。
全盲でも確認が上手な人もおられるが僕は苦手だ。
「次の駅は右側のドアが開きます。」
などのアナウンスを利用して方向を確認しているのが日常だ。
その確認をしていなかったのだ。
山科駅に電車が到着した。
一か八かで決めたドアと反対側が開いた。
気づいた女性が咄嗟に手引きして降車口まで連れて行ってくださった。
なんとか間に合った。
僕はお礼もちゃんと言えなかったがポケットのありがとうカードだけは渡せた。
いつも胸ポケットに入れているのが功を奏した。
山科駅でのJRから地下鉄への乗り換えも失敗した。
途中でどちらに動いたらいいか分からなくなってしまった。
年に数えるほどしか利用しない駅なのだから仕方ない。
地図が頭に入っていないのだ。
「地下鉄の駅を教えてください。」
足音は一発で止まった。
二人連れの女性が地下鉄の駅の改札口まで連れて行ってくださった。
僕はまったく違う方向に行っていたようだった。
「助かりました。ありがとうございました。」
僕はまたありがとうカードを渡した。
「うれしい。大事にします。」
彼女たちは微笑んだ。
それを聞いて僕は更にうれしくなった。
無謀の先に幸せがあった。
心と心が触れ合った。
こんなことがあるから行動的になってしまうのだろうな。
妙に納得しながら地下鉄に乗車した。
(2019年2月21日)
朝の交差点
地元の視覚障害者施設で月2回の相談支援の仕事をしている。
当事者の相談員として当事者と向かい合うのだ。
僕自身の資質はともかくも意味のあることだと思っている。
そして僕よりもはるかに大変な状況を抱えて生きている仲間から学ぶことは大きい。
バスを利用しての通勤が多かったのだが、
最近は努めて歩いていくようにしている。
健康作りもあるのだがそれだけではない。
見えないで歩くというのはどういうことなのか、当たり前のことを再確認している。
時間にして30分、1キロ程度の距離なのでそれもいい。
大きな交差点が最大の難所だ。
音響信号も付いているので青の確認は容易なのだが、
道路が斜めに交差しているのでつい感が狂ってしまう。
恐怖感を押さえてから、気合を入れて渡らなければいけない。
今朝もその交差点で点字ブロックを確認して一旦停止した。
気持ちを整えて渡ろうとした時だった。
「おはようございます。」
女性が僕の真横にきてくださった。
僕は挨拶を返しながら彼女の肘を掴んだ。
条件反射みたいに肘を掴んだ。
僕達はそのまま信号を渡った。
勿論、彼女が誰なのかは分かっていない。
渡り終えたところで、彼女の行先を尋ねた。
途中までは僕と同じ方向だと分かった。
僕はそのままサポートをお願いした。
「以前、カード頂きました。」
彼女はそう言いながらそのまま普通に歩いてくださった。
工事中の場所などがあったりしたが、
彼女がいてくださったお陰で問題なく通過できた。
分岐点まで着いてからお礼を言った。
「とっても助かりました。ありがとうございました。」
これで二度助けてもらったが、声で判別できるほどの記憶はできていない。
また今度出会ってもきっと分からない。
でも彼女は助けてくださるだろう。
お互いを認識できるかなんてたいしたことじゃない。
手伝う勇気が持てるかどうかが重要なのだろう。
僕の相談支援の仕事もそれが大切なのだと思った。
ささやかでいいから、誰かの力になれるような仕事をしたい。
(2月18日)
春の味
今年も友人から春姫が届いた。
春姫は鹿児島県の南薩摩地方で生産されているキンカンだ。
一定の大きさと糖度を兼ね備えていて綺麗なオレンジ色一色らしい。
水洗いしてそのまま丸ごと頬張る。
甘さが口中に広がる。
甘さに溶け込んで隠れていた早春の微かな苦みに気づく。
苦みが春の味なのだということを知る。
水と土と空気とお日様の合作だ。
自然というシェフの腕前に感動してしまう。
一年という時間の中でこの時期にだけ出回る。
ほんの一瞬だ。
口の中で生まれたての春が命を主張している。
見えるとか見えないとかは何も影響しない。
その命を僕の命が愛おしむ。
生きているってやっぱり素晴らしい。
(2019年2月15日)
通りかかった車
柔らかな早春の日差しの中、粉雪が舞っていた。
光を皮膚で感じながら歩いていた。
顔に当たる粉雪を感じながら歩いていた。
気分が良かった。
良過ぎたのかもしれない。
いつもの横断歩道、スタート地点の点字ブロックを確認する作業を怠った。
しばらく歩いて気づいた。
反対側の点字ブロックが見当たらない。
その時だった。
「方向がズレてますよ。」
反対車線で一旦停止した車の運転手さんの大きな声が聞こえた。
いつの間にか歩道から車道に飛び出してしまっていたのだ。
車道を歩いてしまっていたのだ。
やってしまった。
後悔の思いと恐怖感が混ざりあった。
僕は歩道と思われる方向に歩き始めた。
4車線のほとんど中央まで行ってしまっていたようだった。
車のエンジン音だけに注意しながら少しずつ移動を始めた。
「ガードレールで入り口がありません。」
さっきの運転手さんは車を降りて僕のところに駆け寄ってくださった。
車は中央付近の路上に止めたままで助けにきてくださったのだ。
そして、僕を歩道のところまで案内すると急いで戻っていかれた。
助かった。
気づいてくださる人がいる。
気づいて声をかけてくださる人がいる。
でも、わざわざ走行中の車を路上に止めてまでして助けるというのはなかなかできる
ことではないだろう。
そういう人が通りかかってくださったというのは僕に運があったのだ。
走り始めた車に向かって頭を下げた。
心からのお礼をつぶやいた。
歩き始めたら、再び早春の光を感じた。
人間って素敵だなと思った。
(2019年2月11日)
使命
「発信のために書くのよ。」
17年前の冬だった。
京都駅の上にあるオープンスペースのカフェだった。
寒風にさらされながら彼女は静かにそして熱く話をされた。
躊躇している僕を説得された。
「活字の力」と何度もおっしゃった。
それは出版の世界で仕事をしてこられた経験からのものだった。
僕は半信半疑でそれでも書き始めた。
2年後、「風になってください」というささやかなエッセイが産声をあげた。
彼女との二人三脚の結果だった。
やがてその本は重版になり、僕の活動の原動力となっていった。
10刷りを迎えるなんて、僕自身を含めて誰も予想はしていなかった。
いや、彼女だけはひょっとしたら、そう思ってくださっていたのかもしれない。
とにかく、出会いが僕の人生を変えた。
偶然の出会いは必然だったのかもしれないとさえ思っている。
緩和病棟の彼女を見舞った帰り道、彼女の言葉を幾度も思い返した。
いつものごきげんようの言葉はなかった。
それに気づいた時は涙がこぼれそうになったが我慢した。
「使命があるのだから頑張るのよ。」
そう言いながら握手した手をとても強く握ってくださった。
僕が彼女からいただいた最後の言葉となった。
どんな使命なのだろう。
何のための使命なのだろう。
まだよく判らない。
でもとにかく頑張ってみる。
僕の人生の残っている時間、
僕なりに頑張ってみる。
それが僕ができる彼女への感謝の方法なのだと思う。
(2019年2月7日)
無償の愛
皇居東御苑を散策した。
江戸城天守閣跡に続く道は急な上り坂だった。
「もうすぐ頂上ですよ。」
サポートしてくれていたたかひろちゃんは僕を励ますように伝えてくれた。
僕達は45年前のおぼろげな思い出を語りながらのんびりと歩いた。
横浜の叔母宅へお世話になったのは僕が高校一年生の夏休みだった。
たかひろちゃんは6歳、弟のひでおちゃんはまだ幼稚園だった。
叔父さんが食べさせてくださったシュウマイがおいしかったのは憶えているのに、
二人の顔は憶えていない。
でも一緒に過ごした時間が楽しかったことは記憶している。
僕は高校を卒業して京都で暮らすようになったこともあって、
それ以降、彼らと会う機会はなかった。
数年前、親族の法事で再会した。
そして今回、東京でいとこ数人と会うことになった。
血縁がどれほどの意味があるのかは分からない。
いとこくらいになれば、会う機会のない人の方が数的にも多い。
でも他人とは違う何かを感じるのは不思議だ。
DNAがささやいているのかもしれない。
利害もなく、また会える保証もなく、ただ無償の愛が微笑む。
「梅が咲いていますよ。」
ひでおちゃんのパートナーのともこさんが僕の手を誘導する。
無償の愛はさりげなく血縁さえも超えていく。
(2019年2月3日)
ふきのとうの塩漬け
ふきのとうの塩漬けをご飯の上に乗せる。
それをゆっくりと口に運ぶ。
ふきのとうのほろ苦さが口中に広がる。
いつもは鈍感になってしまっているご飯の甘さにも気づく。
キラキラと輝くご飯粒の上に深緑色のふきのとうが寝転ぶ。
気恥ずかしそうに寝転ぶ。
しばらく見つめてからまた口に運ぶ。
見えてはいない筈なのに見つめてしまう。
その動きに自分では何の違和感もない。
ほろ苦さを愛おしく味わう。
どこかで春が生まれ始めているのかもしれない。
そんな思いが僕自身の心を高揚させる。
もうすぐ春に会えるんだ。
また会えるんだ。
うれしくなる。
(2019年1月30日)