始発からのバスだった。
問題なく座席に座れた。
目的地まで50分くらいかかるのでリュックサックを肩からはずして足元に置いた。
パソコンを出して仕事するか、スマホで音楽を楽しむか一瞬迷ったが、
遊び大好き人間の僕は音楽を選んだ。
リュックサックからブルートゥースイヤホンを取り出して耳に装着した。
ソニー製で音は外に漏れないタイプのものだ。
それからスマホでYouTubeのアプリを起動させた。
ミニコンサートが始まった。
懐かしい楽曲が僕をどんどん幸せにしていった。
楽しい時間だった。
停留所案内のアナウンスで目的地のふたつ前のバス停を確認できた。
僕は後片付けをして降車の準備をした。
僕の降りる予定の停留所のアナウンスが流れた。
僕は降車ボタンを探した。
座席の周囲をあちこち触ったが見つけられなかった。
停留所はどんどん近くなってきた。
あせった。
大きな声を出して運転手さんに知らせるしかないかと迷った瞬間、
降車ボタンが押された音がした。
「次、停まります。」
案内放送も流れた。
ほっとした。
間もなくバスは停留所に停まった。
先頭近くの座席の僕は間違いなく一番最初に降車口に向かった。
「気をつけてゆっくり降りてくださいね。」
運転手さんに見守られながらバスを降りた。
一歩進んだ時、バスのドアが閉まった。
降りたのは僕だけだった。
僕を見ていた誰かがボタンを押してくださったのだと分かった。
僕はバスを振り返ってお辞儀をした。
そっと見ていてくださる人もいるんだ。
歩き始めたら先ほどの音楽が頭の中で蘇った。
スキップをしたい気持ちになった。
(2019年6月20日)
スキップ
比叡山
視覚障害のリハビリを終了した仲間の同窓会があった。
ライトハウスには100名を超す人が集まった。
昨年の修了生も20年前の修了生も同じテーブルで歓談した。
現役の訓練生も恩師の先生方も一緒になった。
仲間の講演には心が震えた。
それぞれがそれぞれの人生を歩いていることを再確認した。
ボランティアの方も多く参加してくださった。
大学生から後期高齢者の方まで年齢層もいろいろだったが、
寄り添ってくださる思いは同じだった。
予定のプログラムがすべて終了して役員はほっとしていた。
反省会が始まるまでのわずかな時間のことだった。
ボランティアの男性が僕に話しかけられた。
「松永さん、目の前の壁面の大きなガラス窓を知っている?」
もう20年近く出入りしているのに知らなかった。
見えないとはそういうことだ。
「千本通りを挟んで低いビルがあるんだけど、
その上に比叡山がはっきりと見えるんだよ。
西日を浴びてとても美しい。一枚の絵だね。」
僕の頭の中に美しい比叡山が蘇った。
見えている頃、よく比叡山を見ていた。
四季折々に見ていた。
大好きな山だった。
窓ガラス一杯の比叡山が僕の頭の中一杯になった。
ひょっとしたら、もう見ることができないのは悲しいことなのかもしれない。
でも、その時の僕には喜びだけがあった。
幸福感に包まれていた。
仲間と集う、寄り添ってくださる人達と交わる、それはとても幸せな時間。
父の日に大好きなボランティアさんと会えて、やっぱりいい一日となった。
(2019年6月17日)
懐かしい曲
ラジオから高校時代によく聞いた曲が流れた。
部屋の片付けをしていた手が止った。
昨年この世を去ったガールフレンドを思い出した。
学校帰りに一緒に浜辺を歩いた。
彼女は桜貝を拾って僕の手のひらに載せてくれた。
淡い薄桃色を憶えている。
高校を卒業して違う土地でそれぞれの道を歩いた。
30歳くらいに再会した時、彼女はうれしそうに赤ちゃんを抱っこしていた。
会ったのはそれが最後だった。
それからは賀状のやりとりくらいだった。
老後に再会したいと思っていた一人だった。
突然届いた訃報の葉書の喪主はあの時の赤ちゃんだった。
時の流れだけを感じた。
僕の時間はあとどれだけあるのだろうとふと思った。
僕にできることは何なのだろう。
僕がしなければならないことは何なのだろう。
僕がしたいことは何なのだろう。
出ない答えを探しながら、それが生きていくということなのだろうか。
思い出の中のガールフレンドがニコッと笑った。
僕も笑い返した。
(2019年6月15日)
福祉授業
今年度も京都の小学校での福祉授業がスタートした。
小雨の中、いろいろな道具を詰め込んだリュックを背負って学校へ向かった。
教室では10歳の子供達が待っていた。
僕は視覚障害がどういうことか、どうしてなるのか、どんなことに困るのか伝えた。
できることとできないことを教えた。
そして共に暮らせる社会について皆で考えた。
点字も教えた。
一緒に給食もいただいた。
最後の反省会、いつものようにうれしい質問がならんだ。
「夢は見ますか?」
「うるさい音は嫌いですか?」
「どんな町になればいいですか?」
「どうしてサングラスをかけているのですか?」
「お風呂はどうするのですか?」
「白杖に鈴をつけているのはなぜですか?」
「見えなくなって良かったことってありますか?」
「服はどうやって選びますか?」
「食事は困りませんか?」
「もう一回見えたら何を見たいですか?」
僕はひとつひとつの質問に丁寧に答えた。
子供達は僕の毎日を想像し僕の人生を覗き込んだ。
僕は子供達のキラキラした眼差しを思い浮かべた。
担任の先生は最後に子供達に感想を求められた。
たくさんの手が挙がった。
予定の時間をオーバーして子供達はメッセージを言葉にした。
それぞれの感想は未来を見つめたものだった。
光が溢れる未来だった。
僕はとってもうれしかった。
最前列の男の子が僕の生き方について感想を語ってくれた。
「かっこいいと思います。」
僕は驚きながら素直にうれしかった。
10歳の少年と62歳の白杖を持ったおじさん、言う方も言われる方もいいなと思った。
僕が10歳の頃、障害を持った人にそういう感想を持つことはできなかった。
悲しい寂しい暗いイメージだった。
いろいろな立場の人を知ること、
子供達の人生そのものが豊かになっていくのかもしれない。
(2019年6月11日)
カラアゲ
久しぶりに立ち寄った中華料理店の店員さんは新人になっていた。
「テーブル席が空いていないのですが。」
店員さんは申し訳なさそうにつぶやかれた。
幾度も訪れている店なので僕の頭の中にだいたいの地図はあった。
「カウンターでもいいですよ。」
提案してみたが却下された。
背もたれのない回転イスは危ないと判断されたらしい。
しばらく待ってテーブル席が空いた。
店員さんは僕の希望通り肘を持たせてくださった。
でも不安だったのだろう。
反対の手では僕の身体を支えるようにしてゆっくりゆっくり歩かれた。
僕はテーブルまでくると自分でイスを探して座った。
店員さんはメニューの説明を始められた。
丁寧にひとつひとつ読んでいかれた。
お店は忙しそうな雰囲気だったので僕は恐縮した。
途中で店員さんの説明を止めて日替わり定食を頼んだ。
好き嫌いもないので何が出てきても大丈夫だ。
そして何よりリーズナブルのはずだ。
「日替わりはカラアゲか餃子か選べます。」
僕はカラアゲを頼んだ。
ついでにご飯も小さいのにとリクエストした。
店員さんは緊張しながらもひとつひとつにしっかりと返事してくださった。
テーブルの上の水の入ったコップの場所を再度僕に確認させてから離れていかれた。
カウンターの方で店員さんの声が聞こえてきた。
「定食一丁、餃子でお願いします。」
僕のカラアゲはいつの間にか餃子に変わっていた。
僕は苦笑しながら、それでも運ばれてきた餃子の日替わり定食をおいしく頂いた。
お勘定をすませて店を出る時、
「またのご来店をお待ちしています。」
心をこめて言ってくださった。
あと数回来店すれば店員さんも慣れてくださるだろう。
僕達が社会に参加するということは、慣れてもらうということなのかもしれない。
逃げていったカラアゲを次回は食べるぞと思いながら店を出た。
(2019年6月7日)
アジサイ
高校時代の同級生の車で中学校へ向かった。
片道1時間以上のドライブとなった。
思い出話に花が咲いた。
化学の時間、僕と彼女は隣り合わせの席だったらしい。
ノートも鉛筆も持たずに授業を受けている僕を彼女は幾度か諭したとのことだった。
でも、効果はなかったようだ。
その姿勢がそのままそれからの人生に影響を与えていったのだろう。
彼女は子供の頃からの夢だった教職を天職として人生を歩んだ。
僕はいい加減な人生を歩んだのかもしれない。
優等生も劣等生もそれぞれの人生を歩いていったのだ。
45年の時間を超えて、僕達はまた隣同士の席に座った。
彼女は運転席、僕は助手席。
もう諭されることはなくなった。
仕方がないとあきらめてくれたのだろう。
でも、フロントガラスに映るアジサイの色合いはそっと伝えてくれた。
アジサイの豊かな色合いが蘇った。
そして、高校生の頃の彼女の笑顔が蘇った。
(2019年6月2日)
黙祷
視覚障害者の全国大会が札幌市で開催された。
千人を超す仲間が全国各地から集った。
セレモニーの最初に黙祷があった。
会場が一瞬で静まり返った。
この一年間に亡くなられた先輩や仲間の人生に思いを寄せた。
僕も数日前に仲間の訃報を受け取ったばかりだった。
京都で一緒に訓練を受けた仲間だった。
職人だった彼は目が少しずつ見えなくなっていく中でも必死に仕事を続けていた。
それでも病魔は容赦なく彼を襲った。
とうとう愛用していた道具を処分する日が訪れた。
彼は泣きながら道具を手放した。
そして代わりに白杖を握りしめた。
同じような思いをした僕達は訓練所で出会った。
歩く訓練、点字の訓練、日常生活の訓練、訓練は進んでいった。
それと比例するように僕達は少しずつ笑顔を取り戻していった。
1年という時間が経過し、春が終わる頃、一緒に訓練を卒業した。
それぞれの地元のそれぞれの日常に帰っていった。
ある時、彼から文化作品展の案内が届いた。
会場に足を運んだ僕は驚いた。
一般の作品に混ざって、彼の作品が堂々と展示されていた。
見えていた頃の記憶を頼りに職人の手が生み出したものだった。
僕はガイドさんに説明を読んでもらい、それから作品を触らせてもらった。
うれしくて大粒の涙がいくつも流れた。
自分のことでは泣くことはないのに不思議だった。
わずか一分程度の黙祷の時間にたくさんの思い出が脳裏を駆け巡った。
そして最後に彼が笑った。
また一年、僕は僕の仕事を頑張ろうと思った。
(2019年5月29日)
聞こえない人
弱視の友人に手引きしてもらって歩いていた。
信号待ちのところで誰かが僕に近づいてきた。
僕に少し触れながら声を出された。
一生懸命に声を出された。
二人の女性だった。
聴覚障害の二人の言葉は聞きなおしても難しかった。
手話をしながらお二人が僕に何かを言っていると弱視の友人が教えてくれた。
言葉も手話も分からなかった。
僕は聴覚障害者団体が主催する盲ろう者通訳介助人の研修に毎年講師として参加して
いる。
そこでたくさんの聴覚障害の方と出会う。
手話通訳の方が間に立つことで僕の講演を聞いて頂けるのだ。
きっとそこで出会った人達に違いない。
僕は妙な確信を持って彼女達に手を差し出した。
「久しぶりやなぁ。ありがとう。」
彼女達はしっかりと僕の手を握り返してくださった。
僕達の間で笑顔が弾けた。
お一人がまた声を出された。
「ありがとう。」
はっきりとした言葉にはなってはいなかったが、間違いなくそうおっしゃった。
僕は、聞こえないことがどんなことか分からない。
その悲しみも苦しみもよく分からない。
ただ、見えない僕にも楽しい時間があるのだから、
聞こえない人にもきっと幸せがあると思っている。
そこを知っていくことが理解していくということのような気がする。
今日のお二人はとってもうれしそうだった。
幸せが伝わる再会だった。
(2019年5月23日)
英語
ホームは結構混んでいる感じだった。
電車が到着してドアが開いた。
僕は耳を澄ませて降りてくる人の足音を聞いていた。
その音と雰囲気で乗り込むタイミングを決めるのだ。
人の話し声やアナウンス、ゴロゴロ旅行かばんの音、発車を知らせる効果音、
その騒々しさの中にいるのだからほとんど勘の世界だ。
乗り込むのが早過ぎれば降りてくる人にぶつかる。
遅過ぎればドアが閉まってしまうかもしれない。
一瞬の判断だ。
「今だ。」と思った瞬間、誰かがそっと僕の肩を押した。
その押し方は僕にタイミングを教えているものだった。
「ありがとうございます。」
僕はつぶやきながら、そして安心して乗車した。
その流れの中で彼に話しかけられた。
英語だった。
情けないが僕の英語は中学生レベルだ。
きょとんとしている僕に彼は再度話しかけた。
「シート」という単語だけが聞き取れた。
「OK.」
僕はそう言いながら彼の肘を持った。
彼は近くの椅子まで移動して僕の手をシートに触らせた。
僕は座ることができた。
「サンキュー ベルマッチ!」
僕はそう言って頭を下げた。
彼は何か返してくれたがやっぱり判らなかった。
もっとちゃんと英語の勉強をしておけば良かったと後悔する瞬間だ。
彼は同伴の女性と話し始めた。
美しい発音だなと思ったが、やっぱり何も理解できなかった。
電車が京都駅に到着する直前、彼が僕に話しかけた。
「グッバイ!」
これは僕にも判った。
僕は瞬間的にポケットからありがとうカードを取り出して渡した。
「サンキューカード プリーズ!」
伝わったようだった。
彼は受け取ると下手な日本語でお礼を言ってくれた。
「ありがとございます!」
僕達は笑顔を交換して別れた。
英語の下手な日本人と日本語の下手な外国人。
ほんのひとときの出会いだった。
人間同士のやさしさは言葉を越えていくのだと思った。
英語なんかできなくても何とかなる、
また妙な言い訳が頭に浮かんで恥ずかしくなった。
(2019年5月20日)
ガラスコップ
さわさわの初めての研修旅行に出かけた。
中型のバスを借りて北陸まで出かけた。
たくさんのボランティアさんが協力してくださって実現できた。
一人の視覚障害者に一人のサポーターというベストの条件が整っていた。
仲間と一緒にお風呂に入ったり食事をしたり、くつろいだ二日間だった。
一人一人の声に耳を澄ますとそこにはお互いへのエールが感じられた。
生命のきらめきがあった。
かけがえのない人生があった。
僕自身を見つめなおす時間にもなった。
二日目の行程に視覚障害者が体験できそうな実習を職員が探してくれていた。
オリジナルデザインのガラスコップの制作だった。
シールを貼ったコップを工房のスタッフの人に機械で削ってもらうと、
そのシールの部分だけが削れないで残るというものだった。
ボランティアさんの目を借りながらそれぞれがガラスの色を選んだ。
それからシールの形や大きさを選んでコップに貼り付けていった。
ひとつひとつを手作業で削るのだからスタッフの人も大変だ。
1個が3分でできても1時間以上かかってしまうということになる。
浅く削れば時間は短縮できる。
でもスタッフの人はいつもより深く削っていかれた。
時間は刻々と過ぎていった。
削り終えた最後の1個を持ってスタッフの人は僕達の待機している場所に駆け込んで
こられた。
仕上げられたコップを持ってバスに乗り込んだ。
1分の遅れでバスは発車した。
見送ってくださったスタッフに向かって僕達は手を振った。
心を込めて手を振った。
僕はありがとうってつぶやいた。
削る担当ではない別のスタッフから僕はこっそり聞いていた。
僕達が手で触ってデザインを確認しやすいように、
削るスタッフの人はいつもより深く削っていかれたのだった。
そして最後までそんなことはおっしゃらなかった。
それぞれが作ったガラスコップはそれぞれの旅の思い出となる。
思い出に触れたらきっとやさしい笑顔になるだろう。
素晴らしい研修となった。
(2019年5月15日)