数年ぶりに偶然バスの中で出会った。
小学校5年生の一人息子の成長をうれしそうに話してくれた。
夏休みが始まって大変になるとも話してくれた。
普通のお母さんの姿があった。
バスを降りて駅までのサポートを依頼した。
わずかな距離だったが僕はわざと彼女に依頼した。
彼女と歩きたいと思ったのだ。
「素肌でごめんなさい。」
彼女はちょっと照れながら肘を持たせてくれた。
彼女と歩くのはこれで何回目だろうか。
10回にはならないのかもしれない。
初めて一緒に歩いた日を僕ははっきりと憶えている。
22年前、僕が初めて参加した視覚障害者協会のイベントだった。
彼女はボランティアのお母さんに連れられて参加していた。
小学校5年生か6年生だったと思う。
僕自身もまだ手引かれることに慣れていなくてドキドキしていた。
少女はもっとドキドキだっただろう。
「僕が初めて手引きしてもらった小学生だからね。」
僕は不思議な喜びを伝えた。
「息子は生まれてすぐに松永さんに抱っこしてもらったんだから、
私よりデビューが早いですよ。」
彼女はうれしそうに笑った。
夏休みのうちに息子と歩きたいとふと思った。
三世代でサポートしてもらうということになる。
(2019年7月25日)
三世代
仕事
午前中は「京都市盲ろう通訳・介助員養成講座」での講師の仕事だった。
視覚障害、聴覚障害の重複障害の方々の支援をする大切な制度だ。
視覚障害の意味、支援のポイントなどを伝えるのが僕の役目だった。
受講生の方に感謝をしながら話をした。
もし僕自身が、今後耳も不自由になったらと考えると恐怖を感じる。
でも現実にそういう方々がおられるのだ。
その支援を志すこと自体が素晴らしいことなんだと思っている。
終了後、同行したボランティアさんと急いで京都駅に向かった。
学生時代によくガイドをしてくれた彼女は、卒業して障害児の教育に関わる仕事に就
いた。
縁とは不思議なものだ。
今回はボランティアとして僕のアシストをしてくれた。
食事を済ませて、地下鉄の改札で彼女と別れた。
僕は次の仕事のために向島にある京都福祉専門学校に向かった。
オープンキャンパスでの講師が仕事だった。
福祉に興味を持った若者達に視覚障害者という立場で話をした。
いつもそんな感じなのだが、つい力が入ってしまう。
もう少し手抜きも必要なのかもと反省もするのだが、
一期一会に感謝して心が熱くなってしまう。
終わった時には疲労感もあった。
近鉄、地下鉄、阪急、市バスと乗り継いで帰らなければならない。
アイマスク状態で白杖だけを手がかりに歩くのだから、我ながら凄いことだと思って
いる。
でも、やっぱり不安はある。
乗り換えの四条烏丸の混雑は半端じゃない。
夏休み、日曜日、祇園祭、想像しただけで足が竦む。
頑張るしかない。
地下鉄四条駅の改札を出て歩き出した時、女性が声をかけてくださった。
僕はすぐに彼女の肘を持たせてもらった。
「人込みは大変ですね。」
彼女の的を得た言葉が僕の身体を軽くした。
阪急の改札口までのわずかな距離の中で彼女はいくつか話をしてくださった。
彼女は難聴の障害を持っておられた。
先天性で補聴器を装着しているのだとおっしゃった。
通勤の際も視覚障害者のおじさんがいるのでよく声をかけているとのことだった。
数えきれない数の人が僕の横を歩いていかれたが、
声をかけてくださったのは彼女だった。
僕は何故かとてもうれしくなった。
人間としてのきらめきがある彼女を素敵だと思った。
「可哀そうな人を支援するのではなくて、障害を持った人の幸せをアシストするのが
仕事だと思ってください。」
午前中の講座で話した言葉が蘇った。
心からのお礼を彼女に伝えてさよならした。
見えない僕にもできる仕事がある。
そう自分に言い聞かせたらまた元気が出た。
(2019年7月22日)
無言の手
バスはほぼ満員状態だった。
祇園祭の山鉾巡行の日だからと予想していたし、
座るなんて無理と最初からあきらめていた。
僕は押し流されるようにバスの中まで移動してから吊革をにぎった。
その僕の手を誰かが握った。
間違って握られたのだと思ったが違った。
僕の手を握った手がそのまま僕をゆっくりと引っ張った。
そして僕が立っていた後ろの席に誘導した。
ずっと無言だった。
座ろうとした時、また別の手が僕のもう片方の手を握った。
それもまた無言の手だった。
両方の手を支えられるようにしながら僕は座った。
僕がちゃんと座るのを見届けたように手は離れた。
「ありがとうございます。」
僕は声を出した。
それを聞き終えたように手の持ち主が会話を始めた。
二人の若い感じの女性だった。
韓国語だった。
無言だった理由が分かった。
僕はふと今朝のニュースを思い出した。
日本と韓国のもめ事のニュースだった。
同じ人間の手がこぶしを握れば悲しくなる。
武器を持てば恐ろしいことが起こる。
お互いに触れれば優しくなる。
同じ人間の手なのに。
僕は手の持ち主に再度「ありがとうございました。」と伝えてバスを降りた。
韓国語のありがとうを憶えておきたいと思った。
(2019年7月17日)
プール
最寄りのバス停から8時48分のバスに乗車する日だけその子に会える。
それも平日だけだ。
最初にその子を意識したのはもう一年くらい前だろうか。
バス停に近づいた僕にその子が何か言った。
何と言ったのかも僕に言ったのかも分からなかった。
僕はそれを無視した。
しばらくしてまたそのバスに乗る日、同じ状況があった。
「おはががが」と聞こえた。
僕はひょっとしてと思って立ち止った。
僕のひょっとしては当たっていた。
知的障害のある子だった。
その子はお母さんと一緒に支援学校の送迎バスを待っているのだった。
お母さんがその子の言葉をアシストした。
「おはようございます。」
僕は笑顔になって返した。
「おはようございます。」
それから、その子は僕を見つける度に挨拶をしてくれるようになった。
いつの間にか、その時間にその子に会うのが僕の楽しみにもなった。
先日会ったら、挨拶以外の言葉があった。
またお母さんがアシストしてくださった。
プールがあると言ってくれたらしかった。
その子の喜びと興奮が伝わってくるようだった。
僕は夏の陽ざしの中のプールを思い出した。
うれしくなった。
「行ってらっしゃい。」
僕は大きな声で挨拶を返した。
(2019年7月13日)
さくらんぼ
初夏になると食べたくなるもののひとつがさくらんぼだ。
一年という時の流れの中ではほんの一瞬の果物かもしれない。
年に一度だからと贅沢して大粒を口に含む。
甘いが、ほっぺたが落ちるほどの美味しさでもない。
でもうれしくなる。
なんとなく幸せになる。
色を尋ねると赤とピンクの中間らしいが、
僕の頭の中では下地が黄色で赤やピンクに染まっている。
いくら尋ねても僕の想像とは違う。
20代の頃、果物屋さんで見たのは確かにそんな感じだったような気がする。
高価で食べる機会はほとんどなかった。
10歳代では缶詰のさくらんぼがあった。
お店でソーメンを食べると入っていた。
フルーツポンチにも入っていた。
色付けしているのは僕にも判った。
朱色に近かったような気がする。
子供の頃はさくらんぼ自体を知らなかった。
時代によって変わっていくのかもしれない。
品種だけでなく、物流の技術なども関係しているのだろう。
昔も今も、口に含んだら幸せ感を感じるのは何故だろう。
可愛らしい形状だからかな。
さくらんぼを口に含んで空を眺めたら、
やっぱり真っ青な夏の空だった。
夏が始まるんだ。
(2019年7月9日)
ホーム
忙しい一日だった。
充実感と疲労感を自覚しながらホームへ続く階段を下りていった。
階段が終わりに差し掛かる頃、いつものように緊張感が膨らんだ。
怖さから生まれる緊張感だ。
子供の頃は人一倍幽霊が怖かった。
成人してもジェットコースターには乗れなかった。
怖がりで弱虫だった。
見えなくなって性格が変わるはずはない。
その僕が目隠し状態でホームを歩くのだ。
点字ブロックのすぐ脇には線路がある。
想像しただけでゾッとする。
時々電車が通り過ぎる。
その音を聞いて風を受けただけで足が竦む。
立ち止ってしまいたい。
でも少しずつ前に向かって進む。
乗車駅と降車駅の構造が違うので歩かなければいけない場所なのだ。
「一緒に行きましょうか?」
男性が声をかけてくださった。
僕はすぐさま彼の肘を持った。
歩きながらいろいろ話をした。
電車も一緒に乗った。
彼は夜勤の多い仕事でこれから出勤とのことだった。
ビルのスプリンクラーなどの点検補修をする仕事とのことだった。
大変そうだなと思ったが社会の一員として活躍しておられる姿があった。
なんとなく輝いておられた。
「失礼ですけど何歳ですか?」
僕は突然彼に尋ねた。
43歳とのことだった。
僕が最後の光を失ったのがその頃だった。
最寄り駅に着くまでの数分間、不思議な気持ちになっていた。
失明がなかったら僕の人生はどうなっていたのだろう。
人生にたらればなんか存在しないということは知っているのにふとそんなことを考え
た。
「ホームで声をかけてくださって肘を持たせてもらった時、ほっとしたのですよ。
落ちなくてすみますからね。」
僕はしっかりとお礼を伝えて電車を降りた。
ドアの位置が階段と違うことに気づいた彼は、
わざわざ電車を降りて僕を階段まで誘導してくださった。
そして急いで電車に戻られた。
数秒してからアナウンスが聞こえた。
「急行のドアが閉まります。」
間に合われたようだった。
「彼のような優しい人がいつまでも元気に普通に働いていけますように。」
僕は階段を上りながらなんとなく願った。
(2019年7月5日)
お煎餅
一日一枚、決めたはずだが止まらない。
パリパリポリポリ、止まらない。
食べ過ぎはよくない。
カロリーはどうだろう。
もう一人の僕がささやくのだけれど止まらない。
結局今日も5枚も食べてしまった。
お煎餅好きの僕の味覚にぴったりはまってしまった。
堅いのが好き。
お醤油の香ばしいのが好き。
パリパリの海苔巻きだったら最高。
ひとつひとつが絶品だった。
柚子みそ味には興奮してしまった。
お煎餅好きを再認識した。
ひょんなことで頂いたお土産だった。
予定外のお土産だった。
深いお付き合いでも昔からの知り合いでもなかった。
それなのに僕の好みにバッチリの品物だった。
こういうのをラッキーって言うのだろう。
神様からご褒美をもらったような気になった。
5枚食べ終わってふと気づいた。
見える人は個包装に書いてある品名で開ける前から味が分かる。
ひょっとしたらそれを読んでから選ぶかもしれない。
見えない僕は個包装を開けるまで分からない。
口に運ぶタイミングで味と香りに出会う。
分からないで開けて堅い醤油味の海苔巻き煎餅に出会った時の感動。
見えない僕達だけが味わえる幸せかもしれないな。
これって得をしているってことかな。
(2019年7月2日)
梅雨空
「松永さん、お久しぶりです。」
彼女は僕に声をかけてから氏名を名乗った。
声での認識はできなかったけれど、氏名は記憶にあった。
初めて出会ったのは小学校での福祉授業だった。
中学生の時も高校生になってからも偶然地元の駅で出会った。
今回はたまにしか使わない駅での再会だった。
彼女は大学生になっていた。
目指す職業のために頑張っていることを教えてくれた。
たったそれだけの会話を交わし、握手をし、それから彼女は雑踏に消えていった。
コーラを飲んだ後のような爽やかな感覚になった。
見えなくなって活動を始めてからの時間を考えた。
長い時間が流れたのだなと思った。
見えないのが普通になったのだなとなんとなく思った。
普通になったのはうれしいことなのか残念なことなのか分からない。
ただこれからどれだけの時間が通り過ぎたとしても、
見えることへの憧れは持っていたいなと思う。
持ち続けて生きていきたい。
そんなことを思ったら、ついまたいつものように空を眺めてしまった。
梅雨空さえも愛おしく感じた。
(2019年6月28日)
メロン
甘いメロンの香りが鼻腔をくすぐった。
脳まで沁みていくのを感じた。
スプーンやフォークで食べるのが上品なのかもしれないが、
僕は六つ切りになったメロンの両端を掴んで頬張った。
唇から鼻の頭までベタベタにしながらメロンを味わった。
送ってくれた北海道の友人の可愛い笑い声が聞こえそうな気になった。
特徴のある笑い声だった。
京都からは遠いから、また会う予定も今のところはない。
自分が元気だよと伝えるために、
僕に元気で頑張れよと励ますために送ってくださったのだろう。
一期一会という言葉を思い出した。
人間同士っていいなと思った。
食べ終わってラジオをつけたら、夏至になったことを知った。
メロンの残り香の中で夏の始まりを感じた。
(2019年6月24日)
50年後
いつも歩いている道。
いつものバス停。
天候が悪いわけでもなかった。
あえて言い訳をすればちょっと疲れていたということくらいだろう。
早朝から夜遅くまでの仕事が続いていた。
でもそれも珍しいことでもなかった。
時々あることだった。
それなのに見事に失敗した。
整備された歩道上の分かりやすいはずの点字ブロックを探すことができなかった。
バス停を知らせるしっかりとした点字ブロックだ。
前方を白杖で探っても見つけられなかったので、
行き過ぎたと判断して折り返した。
「何かお手伝いしましょうか?」
バッチリのタイミング、そして模範解答のような言葉かけだった。
僕はバス停がどこか分からなくなってしまっていることを伝えた。
彼女は自分の手の甲を僕の手の甲にそっと触れてくれた。
僕は何の問題もなく彼女の肘を持つことができた。
彼女は僕が掴んだ手をまっすぐ伸ばしたまま、しかも脇をしめて歩いてくれた。
プロのガイドさんのようだった。
バス停はすぐ近くだった。
僕があきらめた地点からほんの数十センチ先だったのかもしれない。
見えないとはそういうことなのだ。
点字ブロックを確認した時にやっと、彼女の声が若いことに気づいた。
「学生さんですか?」
昨日福祉授業で訪れた中学校の一年生だった。
登校中の三人組の女子中学生だったのだ。
声かけもサポートも上手だったので中学生とはすぐには気づかなかった。
僕は驚いたがとてもうれしかった。
学んだことをすぐに実践してくれたのだ。
中学一年生ということは12歳か13歳ということになる。
50年後、彼女たちは僕と同じ年齢になる。
彼女達が創っていく未来、どうなっているのだろう。
ワクワクすりような気分になった。
(2019年6月21日)