高校の後輩

故郷の川内高校の後輩と鴨川沿いを歩いた。
後輩と言っても彼は25歳だから孫みたいなものだ。
たまたま僕達はそれぞれの大学時代を京都で過ごしたのだ。
ふとしたきっかけで彼と出会った。
縁があったのだろう。
40年前、確かに僕は鴨川沿いの道を歩いた。
比叡山を観ながら歩いた。
何を考えて歩いていたのだろう。
何を夢見て歩いていたのだろう。
あれからずっと歩き続けてきたのだな。
気が遠くなるような時間だ。
夢はことごとく消えてしまったのかもしれない。
それどころか、40年後の全盲の人生なんて考えたことがなかった。
悔しさや悲しさがないわけではない。
でも、見えないことも含めて受け入れている今がある。
僕なりに精一杯生きてきたのだろう。
後輩の肘を持って歩き続けた。
春風が心地よかった。
彼の未来が豊かでありますようにと心から願った。
そして、僕ももうちょっと頑張ろうと思った。
(2020年3月20日)

ふきのとうの佃煮

春の風を感じたせいかもしれない。
無性に食べたくなった。
僕はデパートに電話して尋ねた。
「ふきのとうの佃煮はありますか?」
調べて折り返しの電話をしてくださるとのことだった。
祈りながら電話を待った。
子供みたいだと思いながら待った。
しばらくして電話がかかってきた。
老舗の佃煮屋さんにあるとのことだった。
僕は友人に手引きを頼んでデパートに出かけた。
地下の食料品売り場にそのお店はあった。
すぐに食べるならと店員さんは自然のままの方を勧めてくださった。
僕は喜んでそちらを買い求めた。
家に帰り着くなり袋を開けた。
タッパーに入れながら我慢できずに指でつかんで少し口に入れた。
それから数回噛んで、口を動かすのをやめた。
舌先に神経を集中させてじっとした。
静かに呼吸しながらじっとした。
なんとも言えない苦みがじわじわと口中に広がった。
幸せを感じた。
たった一口のふきのとうに魔法をかけられたような感じだった。
つくづくとうれしくなった。
もうしばらくすれば桜が咲くだろう。
春を迎えられることは幸せなことなのだとなんとなく思った。
(2020年3月18日)

桜の思い出

桜の開花のニュースを聞いた。
雪が散らつく中での開花とのことだった。
僕にも経験があった。
いつだったのだろう。
どこにでもありそうな児童公園の桜だった。
名残雪の中での淡いピンク色をしっかりと憶えている。
美しさに足が竦んでしまった。
しばらく佇んでいた。
飽くことのない時が流れていた。
記憶とは面白いもので、その後焼肉屋さんに行ったことまで憶えている。
雪と桜と焼肉が似合うとは思えない。
それなのに記憶はとても鮮やかだ。
地下の焼肉屋さんに続く階段まで憶えている。
切り取られた記憶が幸せに包まれているということだろうか。
もうしばらくすれば、京都の桜も咲き始める。
満開の桜の木の下を歩きたい。
のんびりとゆっくりと歩きたい。
(3月15日)

白杖と自転車

僕の散歩コースは人がやっとすれ違うことができるくらいの道幅だ。
白杖でいろいろと確認しながら歩く。
路面の感覚がザラザラだったりツルツルだったり所々変化するので情報となる。
白杖の路面に当たる感覚で道の傾斜が伝わってくる。
自分が道の右側を歩いているのか左側なのかも白杖で確認する。
左右に動かした時に右側の草むらに当たれば右側、左の手すりに当たれば左側という
ことになる。
右に行ったり左に行ったりして歩いている。
見えないとはそういうことだ。
前方から人が歩いてくることもあれば後ろから追い抜かされることもある。
ぶつかってはいけないのでしっかりと耳を澄ませて歩いている。
道路を行き交う車のエンジン音もひとつのナビゲーションだ。
だいたいの方向などを確認している。
たまに聞こえる鳥の鳴き声などは緊張感をほぐしてくれる。
橋を渡る時の小川のせせらぎの音もそうだ。
季節によっては花の香りに気づいて足が止まる。
幸せの瞬間だ。
一番怖いのはやはり自転車だ。
すれ違う瞬間までほとんど音がしない。
昔はベルを鳴らすのが一般的だったが今はそうではない。
歩行者優先だから鳴らしてはいけないという考え方らしい。
僕は鳴らしてくださった方が助かる。
「自転車、通りまーす。」
たまに後ろから自転車に乗っている方の声が聞こえることがある。
僕は瞬間立ち止る。
自転車が横を通り抜けていくのを確認してからまた歩き出す。
一声で安全度が確実にあがる。
うれしくなる。
「ありがとうございます。」
僕は自転車に大きな声でお礼を言う。
たまに返事がある時もある。
「頑張ってくださーい。」
「行ってらっしゃーい。」
「応援していまーす。」
恐怖の自転車が幸せを運ぶ乗り物に変化する。
やっぱり人間の声は素敵だと思う。
(2020年3月11日)

5年生からの手紙

5年生の子供達から届いた手紙に心が震えた。
福祉授業で僕の話を聞いてくれた子供達からのメッセージだった。
視覚障害についての正しい理解ができたとのことだった。
障害への考え方が変わったとも書いてあった。
人間の生き方について考えたというのもあった。
自分達が未来を作っていくという宣言もあった。
一人一人のひとつひとつの言葉がキラキラと輝いていた。
キラキラとした眼差しで書いてくれたのが伝わってきた。
愛が溢れていた。
愛には力があるのだと思った。
子供達と向かい合う時、いつも全力の僕がいる。
ある意味、必死になっている僕がいる。
子供達に話しかけるということは未来に語りかけるということなのだ。
こうして子供達のメッセージを読みながら、ほんの少しそれができたことに気づく。
そして充実感が僕自身をも幸せにする。
僕にできるささやかなこと、これからもまだまだ頑張りたい。
メッセージを届けてくださった先生方にも心から感謝したい。
(2020年3月7日)

菜の花

僕は自宅で電話をしていた。
晴眼者の彼は戸外を歩きながらの電話らしかった。
仕事の話だった。
突然、彼は会話を遮った。
「空き地が菜の花でいっぱいですよ。黄色一色です。
売地という看板が出ています。」
僕は一気にうれしくなった。
「700円だったら、僕が買うよ。」
僕はすかさず答えた。
どこから700円という数字になったのかは自分でも分らない。
40歳で見えなくなって仕事を失った。
その後、頑張ってトライしたけどちゃんとした就職はできなかった。
いろいろな書類の職業欄には自由業と書き続けて20年が過ぎた。
僕の人生、僕の経済力では土地を購入するなんてあり得ない。
自嘲しながらの数字だったのかもしれない。
でも、ここまでの道をどこかで満足しているのだろう。
土地を買えないことよりも、菜の花を喜ぶ自分を受け止めている。
電話を切って気づいた。
六畳の僕の部屋は菜の花の黄色で埋め尽くされていた。
幸せの黄色だなと思った。
(2020年3月4日)

マスク

バスや電車の中ではマスクをしている。
マスクは息苦しい感じがして嫌いなのだけど社会情勢からして仕方ない。
僕は毎年この季節は咳が出やすくなる。
何かのアレルギーなのかもしれない。
でも、今年はバスや電車の中では咳き込むのを我慢している僕がいる。
咳をしてしまうと何となく視線を感じてしまうのだ。
罪悪感みたいな感覚になってしまう。
恐怖が曇り空みたいに社会を覆っているせいだろう。
見えないもの、
聞こえないもの、
匂わないもの、
触れないもの、
それは厄介だ。
被害者になるのは嫌だし、加害者になるのはもっと嫌な気がする。
でも、どうしようもない。
仕方ないからしばらくはマスクをつけて歩くのだろう。
しばらくがいつまでかも想像できない。
「松永さん、サングラスにマスク、不審者みたいですね。
野球帽はかぶらないでくださいね。」
先日出会った眼が見える知り合いに茶化された。
確かにマスクを付け始めてからサポートの声は激減した。
早く平穏になりますようにと祈るだけだ。
(2020年3月1日)

鹿児島弁

先日の会議で頂いた名刺を確認した。
見えない僕には裏表も上下も分からない。
とりあえず、名刺を机の上に置いた。
それから、スマートフォンのカメラ部分をその方向に向けた。
そして話しかけた。
「これ読んで。」
スマートフォンはほぼ完璧に読んでくれた。
子供の頃、ワクワクしながら見ていた鉄腕アトムの世界が現実になってきている。
化学の進歩というのは凄いことなのだ。
写真のアプリを使えば、撮影された風景をスマートフォンが説明してくれる。
でも、同じ説明でも人間にしてもらった方がうれしく感じるのは何故だろう。
人間の言葉にはぬくもりがある。
人間の声にはぬくもりがある。
ぬくもりに出会うとうれしくなる。
故郷の言葉を聞くとうれしくなるのはそういうことなのだろうか。
今日、電車の中で鹿児島弁の会話を耳にした。
そっとうれしくなった。
(2020年2月25日)

のどか

白杖でバス停の点字ブロックを探した。
僕はその上に乗って深呼吸をした。
のどかな光を顔に当たるぬくもりで感じていた。
そよ風さえものどかだった。
「何番に乗るの?」
突然、少し離れたところから声がした。
バス停の待合の椅子に座っていたおばあちゃんだった。
横に座るように勧められたが、立ったままで会話を続けた。
彼女は最近膝が痛くて出かけるのがおっくうになったことなどを話してくださった。
話の途中にバスが近づくと、その行先と番号をしっかり教えてくださった。
それから、どこの病院が新設だとか話を続けられた。
風が気持ちいいとかの話題もあった。
「ブゥー。」
突然、でも確かに聞こえた。
「ごめんごめん。聞こえてしもたなぁ。
年取るとお尻までいうこときかんなぁ。」
おばあさんのおならだった。
「春だからいいですよ。」
僕は咄嗟に訳の分からない返事をした。
「そうかぁ。春やしなぁ。」
おばあさんも何となく納得されたようだった。
僕は心の底からのどかさを感じてうれしくなった。
(2020年2月20日)

笑顔

講師陣は愛媛、大阪、京都、埼玉、東京から集合した。
受講生は鹿児島からも北海道からも、日本の各地から参加してくださった。
同行援護を勉強するための当事者対象の研修会が東京で開催されたのだ。
同行援護というのは視覚障害者にとってとても大切な制度だ。
同行援護の資格を取得したガイドヘルパーさん達が視覚障害者の外出をサポートして
くださる。
ガイドヘルパーさんのサポートによって安心して外出ができるのだ。
ガイドヘルパーさんがおられなかったら、買い物も通院もままならないという方もた
くさんおられる。
とにかく、視覚障害者にとってはとても大切な制度ということになる。
それを学ぼうという当事者の方々のモチベーションは高い。
僕は講師役なのだが、教えることより教えられることの方が多い。
受講生の中には元々聴覚障害でありながら視覚障害になってしまったという盲ろうの
女性がおられた。
彼女には盲ろう者通訳・介助員という専門家の方が同行してサポートしてくださって
いた。
僕達が話したことを彼女の微かに見える目の前で手話をされたり、彼女がその手話を
触って確認したりして伝え合うのだ。
通訳の方は彼女が少しでも見えやすいようにわざと黒い上着を着ておられた。
僕は彼女に挨拶をした。
それから握手を求めた。
僕達はしっかりと手を握り合ってお互いを確認した。
「頑張ります。」
通訳・介助員の方が彼女の言葉を僕に伝えてくださった。
それから、彼女の笑顔を教えてくださった。
それを知った僕も笑顔が弾けた。
見えない聞こえない、イメージだけだと大変さを先に思ってしまう。
そして実際に大変なことなのかもしれない。
ついついお気の毒にとか可哀そうという感情につながりやすい。
ただ、現実に生きている本人に会えば、その命のきらめきの方がはるかに大きいこと
に気づく。
そしてその気づきはこちらの幸せ感にもつながり生きる力にも変化していくのだ。
彼女の笑顔に、そしてその笑顔をさりげなく会場に溶け込ませてくださった関係者の
皆様に心から感謝したい。
(2020年2月15日)