放課後の会議室、
1年生から6年生までの先生方が集われた。
新学期の授業が始まったばかりとのことだった。
世間にはまだお正月気分も残っていたが、
会議室の中には厳しい感じの空気が漂っていた。
真剣さが作り出す空気だった。
十数年前に僕の話を聞いてくださった先生方がお招きくださったのだ。
後輩の若い先生方にも僕の話を聞かせたいとのことだった。
光栄なことだと思った。
正しく知る機会が大切だとおっしゃった。
同じ空間で当事者の思いを聞くことに意味があるともおっしゃった。
僕は一生懸命に話をした。
教育は未来を切り開いていく大きな力となる。
先生方が子供達に与える影響を考えると身が引き締まる思いがした。
研修会が終わって、一人の先生が声をかけてくださった。
「松永さん、一緒に帰りましょう。家が近所です。」
僕はともだちと帰るような感覚で学校を後にした。
目が見えても見えなくても、
人間と人間はやっぱりともだちなんだと思った。
いい仕事始めとなった。
(2021年1月10日)
仕事始め
ライト
迎えの車に乗り込んですぐのことだった。
彼女はハンドバッグの中から小さな袋を取り出して僕に渡してくださった。
僕へのお誕生日プレゼントだった。
ラッピングされた袋の中には手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさのものが入っ
ていた。
「夜になったら、紐の反対側の小さなスイッチを3回押すのよ。3回だからね。」
彼女は自分のも一緒に購入されたらしくてとても詳しく説明してくださった。
弱視の彼女にもとても眩しい強い光の出るライトだった。
「1回目が強い光、2回目が弱い光、3回目が点滅、4回目がスイッチオフ。」
彼女は僕がちゃんと記憶できるまで数回繰り返して説明された。
すぐにリュックサックにつけるようにと付け加えられた。
「夜遅くに帰ることがあるでしょう。ちゃんと押してね。」
僕はそうすることを約束した。
彼女と僕はたまに会ってコーヒータイムをするお付き合いだ。
視覚障害ということで出会った。
彼女は終戦後に中国から単独で帰国された。
父は台湾で戦死され母は彼女を産んですぐに病死されたらしい。
舞鶴に船で帰った時のことを彼女は鮮明に記憶されている。
12歳の時のことだった。
それから生きてこられた。
生き抜いてこられた。
弟さんももうこの世を去り肉親はおられない。
残された時間を静かに受け止めて暮らしておられる。
やさしさも上品さも出会った頃とちっとも変わらない。
生きていくということが美しいことなのだと教えてくださっているような気がする。
強い光も僕には分からない。
それを知っている彼女は僕にスイッチの回数を教え込もうとされたのだ。
僕が夜道を安全に歩けるようにと考えてくださったのだ。
大切に使っていきたいと思った。
ライトはきっと僕の心まで照らしてくれるに違いない。
(2021年1月7日)
エール
元旦はサッカー天皇杯を楽しんだ。
今日は毎年恒例の箱根駅伝を応援した。
スポーツ観戦が好きなのだろう。
気がつけばラジオの実況中継に聞き入っている。
繰り広げられるドラマに胸が熱くなる。
目頭が熱くなることさえある。
僕と同じ病気の大学生が箱根を走っていることを知ったのは昨年だった。
夜盲の症状もあるらしいのでなんとなく目の状態は理解できる。
その中での大学生活、クラブ活動、練習でさえ大変なことが伺える。
親心みたいな感情が僕を突き動かす。
彼の力走に拍手を送りながらふと考える。
40歳の彼はどうなっているのだろう。
自分が失明した頃を重ねながら不安がよぎる。
その不安を同じ僕が打ち消す。
そして僕はそっと前を見つめてささやく。
「走り続けるんだ。エールがきっと君の人生を応援してくれる。僕自身の人生がそう
だったように。」
頂いたたくさんのエールに感謝をしながら生きていきたい。
ほんの少しでも誰かにエールを送れるような一年にしていきたい。
(2021年1月2日)
体重測定
音声体重計のスイッチを入れる。
「お乗りください。」
機械音が流れる。
僕は手で場所を確認しながら足を乗せる。
両足が乗ったところでまた機械音が流れる。
「体組成測定中」
間もなく次の音声が流れる。
「測定終了、下りてください。」
それから測定結果が流れる。
体重 62,1キログラム
BMI 23,1
体脂肪率 22,9パーセント プラス標準
筋肉量 45,4キログラム 標準
推定骨量 2,5キログラム
内臓脂肪レベル 13,5レベル やや過剰
基礎代謝量 1292カロリー 標準
体内年齢 55歳
体水分率 52,1パーセント
納得できなかったら再度計測する。
体重計を置く場所で結構な違いが出たりしてしまう。
微妙な違いならいいのだが体重が1キロも違うと悩んでしまう。
今日は2,3回測り直したが同じだった。
今年はやっぱりちょっと太ってしまった。
お腹の脂肪がついたのが自覚できている。
コロナの影響で外出が少なかった。
部屋でおやつを食べるのが多かった。
自業自得と分かっているがちょっと悔しい。
体内年齢が1年で3歳も老いてしまった。
来年はちょっと頑張ろうと思いながらこれを書いている。
書き終えたらコーヒーとシュトーレンのおやつタイムになる。
パン作りが趣味の視覚障害の友人からシュトーレンを教えてもらってから癖になって
しまった。
冬によく似合う。
これも幸せのひとつだからと自分に言い聞かす。
言い訳が得意なのは昔からかな。
いやいや、来年は体内年齢を3歳引き下げられるように頑張ります。
頑張る予定です。
一応そのつもりです。
(2020年12月28日)
柚子風呂
団地のお風呂は小さな湯船だ。
足を延ばすこともできない。
いつも膝を抱えた状態でお湯につかる。
身体を温めるのが目的になっている。
今日は違った。
小さく深呼吸をして気づいた。
ささやかな柚子の香り。
僕は柚子の入った袋をそっと掴んで鼻に近づけた。
香りが脳に溶けていくのを感じた。
無条件に幸福を感じた。
心までが温かくなっていった。
ささやかなささやかな香りが生きている自分の命を意識させてくれた。
香りに感謝した。
そしていつも脇役の鼻にあらためて感謝した。
(12月23日)
雪の思い出
数歩歩いただけで気づいた。
足の裏の感触で気づいた。
ほんの少しだけ靴が沈むような感覚だった。
雪!
僕は立ち止って腰をかがめた。
手袋を外してそっと指先を地面に触れた。
人差し指が愛おしそうに白色を撫でた。
濡れた指をズボンで拭いて息を吹きかけた。
暖かさを確認してからまた白色を触った。
見えないということは見られているということに気づかない。
いいことなのかどうかは分からない。
人の目を気にせずに行動してしまうことがある。
実際には通行人もおられただろう。
でも僕の中では僕と白色だけが存在したのだ。
それからバスに乗車したが、僕の脳はどんどん白色の世界を旅した。
大学生の頃に雪を見たくて出かけた冬の北海道を思い出した。
友人と二人で10日間ほどの旅だった。
ただただ雪に会いたくて出かけた。
深夜に走る鈍行列車や駅の待合室をホテル替わりに使っての旅だった。
体力も気力も満ち溢れていたのだろう。
一緒に旅したあいつは元気にしているのだろうか。
あいつが撮ってくれた写真を僕はしっかりと憶えている。
釧路から北へ向かう線路のどこかの無人駅で下車した。
一面の新しい白色の中で身体を大の字にして寝ころんだ。
真っ白の中で空を見上げていた。
うれしいのか悲しいのか自分でも分からない涙が一筋こぼれたのを憶えている。
それなのに大の字の写真の僕は満面の笑顔だった。
懐かしい記憶が僕にささやく。
「見えていたんだよね。」
確かめるように思い出させるように僕にささやく。
喜ばせるためなのか悲しませるためなのか僕にささやく。
今も昔も真っ白な雪が大好きなのは間違いないことなのだろう。
(2020年12月18日)
種蒔き
話をする僕を彼女はじっと見ていたのだろう。
そして気づいてくれたのだろう。
「どうして白杖に鈴をつけているのですか?」
僕は気づいてくれたことに感謝を伝えてからその理由を告げた。
「通行人とぶつかりたくないんだ。
音で気づいてもらえるように鈴をつけているんだよ。」
そして、スマホを見ながら歩いている人がとても怖い存在であることも付け加えた。
質問してくれた彼女は中学一年生だ。
人権講演会で僕の話を聞いてくれたのだ。
興味を持つということ、思いを寄せるということ、きっと理解につながっていく。
未来につながっていく。
こういう活動を始めたのは失明して数年した頃からだろうか。
もう20年近く活動してきたことになる。
先日入った市内の食堂で他のお客さんに話しかけられた。
「突然声をかけてすみません。松永さんですね。
小学生の時に話を聞きました。
職場がこの近くなんです。」
僕は憶えていてくれてありがとうと答えた。
そしてうれしかった。
今年伺った小学校では新任の先生が声をかけてくださった。
やはり、小学校の時に僕の話を聞いたとのことだった。
未来に向かって蒔き続けた種が少しずつ発芽してきているのだろう。
今日の中学校ではまた別の質問を受けた。
「夢は何ですか?」
ひょっとしたら、もう夢を語るような年齢ではないのかもしれない。
でも、僕は答えた。
「せめて60歳代は未来に向かって種を蒔き続けていきたいと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれるようにね。」
会場を後にする時、生徒達は大きな拍手で送ってくれた。
担当の先生が小声でささやかれた。
「松永さん、まだまだ全然大丈夫ですよ。頑張ってくださいね。」
僕は素直に頑張ろうと思った。
(2020年12月13日)
奨励
同志社女子大学宗教部から奨励依頼が届いた。
耳慣れない言葉だが、教会のお祈りの際に少し話をして欲しいとのことだった。
本来は牧師様やいろいろな先生方が話をされるのだろう。
僕なんかおこがましいというのが本音なのだがその場所に魅かれてお引き受けした。
1932年に建てられた栄光館チャペルがその場所だった。
新島八重さんの葬儀もここでおこなわれたという歴史のある登録文化財だ。
ヘレンケラーさんが来日した際の講演会場にもなった。
その場所が過去のものではなく現在も脈々と息づいているのだ。
栄光館に足を踏み入れるとパイプオルガンの荘厳な音色が漂っていた。
僕は心を落ち着けてから少しだけ話をした。
ささやかでいいから僕の人生の喜びを伝えられればいいと思った。
誰かに聞いてもらうとかではなく、自分自身に話しかけているような感じがした。
不思議な満足感を感じた。
講演が終わって、宗教部の職員の方が最寄り駅までサポートしてくださった。
冬枯れの空を眺めながら歩いた。
帰ったら彼からお礼のメールが届いていた。
「いつもお支え頂いてありがとうございます。」
という言葉で始まる挨拶文だった。
素敵な表現だと思った。
そして僕自身もその思いを忘れてはいけないのだと強く思った。
(2020年12月8日)
夢のマイホーム
洛西ニュータウン、この街が誕生した頃から僕はここで暮らしている。
当時、新築の市営住宅に抽選で入居することができたのだ。
母親の介護のために一度だけ引っ越ししたが、
それも同じニュータウン内にある公団住宅だ。
団地での生活がもう40年近くになったのだ。
大学を卒業して就職し、普通に働いていた頃、いつかマイホームをという夢も持って
いた。
その当時の福祉労働者の給与は淋しいものだった。
僕の夢は新築から中古に移っていった。
それでも、小さな庭があってとかささやかな夢はあった。
39歳での失明はすべての夢を飲み込んだ。
僕なりに努力はしたが、僕を雇ってくれるところはなかった。
正規職員だけでなくパートもアルバイトもなかった。
生きていくために必死にならなければならない日々が続いた。
本の出版がきっかけとなったような気がするのだが、
少しずつ非常勤講師などの仕事ができるようになっていった。
それでも、収入は同世代の見える人の半分にもならなかった。
マイホームの夢はあきらめるしかなかった。
正真正銘の夢のマイホームになってしまった。
不思議なことに、その現実への不満はなかった。
少しでも働けるようになったことへの感謝の方が大きかったような気がする。
社会に関わって生きていく喜びが大きかったのだろう。
裏を返せば、失明はそれさえも奪おうとしていたということなのだ。
団地の郵便受けに入っている住宅物件のチラシを今でも時々見ている。
ただ販売価格は見なくなった。
遥か遠くに消えてしまった夢が懐かしいのかもしれない。
僕にできること、僕達も参加しやすい社会に向かうこと。
まだまだ頑張らなくちゃ。
(2020年12月4日)
風の朗読サイト
確かにそれは僕が書いたものなのかもしれない。
それを人間の声に載せることで別の命が生まれるのだ。
それぞれの人間の持つ声のぬくもりが変化を齎す。
同じ作品が読み手によって様々に変化していく。
素材が料理人によって変わっていくことに似ている。
深くなったり美しくなったり、或いは意外な味を醸し出したりする。
それぞれの人間の声がそれぞれの魂から生まれてくるということだろう。
これまでもいろいろな声が僕の作品を読んでくださった。
カセットテープやCDに録音されたり電波に載ったりした。
有難いことだと思う。
光栄なことだと思う。
そしてまた新しい形の朗読が始まった。
インターネットで聞くことができるのだ。
僕のホームページのリンク先にある
「06風の朗読サイト」
一度味わってみてください。
目を閉じて味わうのが秘訣です。
コーヒーでも飲みながら。
(2020年11月29日)