教えられて

きつい雨だった。
午前中は専門学校で1時限目と2時限目の授業の予定が入っていた。
午後の大学も対面授業の予定だった。
天気予報は終日の豪雨を告げていた。
逆算すれば7時半の出発で間に合うが豪雨対策で30分早めた。
僕はいつもの折りたたみ傘をやめて大きなジャンプ傘を選択した。
一番広くてしっかりした作りだからだ。
右手に白杖、左手に傘、土砂降りの雨、僕は出発した。
予定通りに僕のバランスはくずれ、雨音で他の音はかき消された。
僕は左のガードレールにぶつかり、右側の壁にぶつかりを繰り返しながらゆっくりと
歩いた。
バス停までの距離もいつもの倍くらいに感じた。
石垣のびしょ濡れの草が突然顔に当たった時はちょっと悲しくなった。
湧き上がってくる恐怖心をなだめながら少しずつ少しずつ前に進んだ。
バス停の点字ブロックをキャッチできた時は何とも言えない安堵感に包まれた。
始発から二つ目のバス停なのでいつものように座れた。
駅までの20分ほどをのんびりと過ごした。
ただ、その後の電車はすべて立ったまま過ごすということになった。
桂から烏丸までの阪急電車、さすがに朝のラッシュで混んでいた。
人波にもまれながら乗車して入り口の手すりを掴んだ。
二つしかない手で白杖と傘と手すりの三つを持つのは結構大変だった。
濡れた傘が他の乗客に当たらないようになど、いつもとは別のマナーも必要だった。
そんな感じで移動を続けた。
地下鉄、近鉄を乗り継いで専門学校のある向島駅に到着した。
向島駅と学校の間は学校が車で送迎してくださる。
有難いことだ。
予定通りに授業を追え、昼食を済ませてから大学に向かった。
近鉄、京阪と乗り継いで大学の最寄り駅まで行かなければいけない。
乗り継ぎ駅の構内で迷子になってしまった。
両手がふさがった移動は僕の頭の中の地図までをだめにしたらしかった。
僕はウロウロと歩き回ったが、目的のホームにはたどり着けなかった。
しばらく立ちすくんでも援助の声はなかった。
あきらめて、聞こえてきた足音に向かって声を出した。
「階段を教えてください。」
足音は通り過ぎた。
しばらく待って次の足音に向かって声を出した。
また足音は通り過ぎた。
年に数回の運の悪い日だったらしい。
僕はまた駅の構内をウロウロした。
長いジャンプ傘は幾度も僕をからかった。
どれほどの時間が流れたのだろう。
「お客様、何かお探しですか?」
駅員さんの声だった。
僕は龍谷大学前深草の駅まで行きたいことを告げた。
駅員さんはホームへの階段まで案内してくださった。
僕はホームに移動して電車を待った。
やがて到着した普通電車に乗り込んで手すりを持った。
やっぱり手すりを持つのも大変だった。
背中のリュックサックまでが重くのしかかった。
「僕は何をしているのだろう。」
自問自答の言葉が自分自身に向けられた。
ちゃんと歩けない苛立ち、運の悪さ、気持ちを支えきれなくなったのだろう。
大きな疲労感も加勢したのかもしれない。
すぐ近くからご婦人達の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
すぐ近くなのに別の世界だった。
不意に悲しみがこみ上げてきた。
どこかに空いてる席があるだろうに、それに座れない自分が悔しかった。
見えないということが悔しかった。
僕はその場に座り込みたくなった気持ちを押さえるために手すりを強く握った。
一度座り込んだら、もう立てなくなることは分かっている。
それは阻止しなければいけない。
僕は意識して手すりを持つ手に力を込めた。
ふと、午前中の専門学校での前期最後の授業が蘇った。
学生達の思いの書かれた文章を皆で共有した。
やさしさに包まれた内容だった。
思いやりがにじみ出た内容だった。
介護と言う仕事を目指そうとしている人達のぬくもりが伝わる内容だった。
僕への質問もあった。
「何故頑張るのですか?」
僕は当たり前のように答えた。
「自分のために頑張るのは長続きしない。
でも、誰かのためにと思えば、人は頑張れるよね。
未来のためにと思えば頑張れるよね。
ささやかだけど、僕にできることを僕がするのは僕のミッションだと思っている。」
学生達の声や名前や言葉が蘇った。
「誰かのために、未来のために」というフレーズがリフレインした。
気持ちが緩やかに落ち着いていった。
手すりを持った手の力が抜けていった。
僕は自分の力でしっかりと立っているのを感じた。
僕が教えているのではなく学生達に教えられていることを実感した。
エールをくれた学生達に感謝しながら大学の仕事に向かった。
いい授業をしようと強く思った。
(2021年7月9日)

コロナワクチン終了

コロナワクチンの二回目の接種が終了した。
今年度中に65歳を迎える僕はギリギリセーフで高齢者と認められたのだ。
うれしいようなちょっと淋しいような複雑な気持ちだった。
若い人は発熱などの副反応が出やすいとのことだったのでちょっと心配していた。
こっそりと発熱の予感もあった。
残念ながら腕が痛い以外は何も起こらなかった。
これもまた複雑な思いだった。
自分で思っているよりも老化は始まっているのかもしれない。
自分自身の画像を確認できないということは致命的な弱点なのかもしれない。
いや、考えようによっては得をしている可能性もある。
見た目を気にする必要もないのだ。
接種の日は家で安静にして過ごした。
そして翌日から普通の生活に戻った。
午前中は小学校での講演だった。
午後は京都の真ん中にある福祉の専門学校での特別講義だった。
結構ハードな一日となった。
クタクタになって四条通を歩いた。
コンチキチンの鐘の音が流れていた。
録音の放送だった。
通りには提灯も飾ってあることをボランティアさんが教えてくれた。
今年も祇園祭は中止らしい。
コンチキチンが淋しそうに聞こえた。
人間は失ってから初めてその大切さを知るのだろう。
振り返れば人生もそんな感じだ。
さりげない日常が早く戻ってくれるようにと願った。
(2021年7月6日)

幼馴染

故郷の風景がニュースで流れたらしい。
海辺の風景だ。
幼馴染からのメールにはそれが描写されていた。
僕はワクワクしながら記憶のアルバムのページをめくった。
しばらく時間をかけて頑張ってみた。
でもそこにはたどり着けなかった。
半世紀という時の流れはもうセピア色を越えてしまったのだろう。
それは仕方のないことなのだと自分に言い聞かせながら目を閉じた。
グレー一色に塗られたいつもの風景が立ちすくんだ。
何も変化のない無表情の風景だ。
僕は静かに呼吸をした。
ふとアルバムの別のページがめくられた。
そこには幼馴染の笑顔があった。
キラキラした目で笑っていた。
声までが聞こえてきた。
その新鮮さに驚きながらうれしくなった。
つい昨日見たような映像だった。
宝物は大切にしまわれていたのだ。
僕はありがとうってつぶやきながらそっとアルバムを閉じた。
(2021年7月1日)

くちなしの花

今年度もまた大阪府の高校で授業をすることになった。
教員免許は持っていないので特別講師という位置づけだ。
高校生達に出会えると思うとワクワクした気持ちになる。
教室の空気がキラキラとしているからだろう。
未来に関われるということになる。
今年度最初の出勤日、僕はまた新しい気持ちで学校へ向かった。
この学校は最寄り駅から離れているので単独で行くのは無理がある。
僕は例年のように、ボランティアさんのサポートを受けながら学校への道を急いだ。
「焼肉屋さんだった場所は空き地になって雑草が生えていますよ。」
もう何年もサポートしてくださっているボランティアさんが教えてくださった。
焼肉屋さんになる前は中華料理屋さんだった。
その頃は数回訪れた記憶がある。
この学校に行くようになってどれくらいの年月が流れたのだろう。
たまたまテレビに出演していた僕を見た学校関係者がお招きくださったのがスタート
だった。
丁度50歳の時だ。
ということは今年で15年目ということになる。
どれだけの数の高校生に出会ったのだろう。
最初の頃に出会った高校生達はもう30歳を越えているということになる。
蒔いた種が少しは芽を出しているかもしれない。
数にもその強さにも自信はない。
でもあのキラキラの教室で共感した時間は確かだ。
そんなことを思いめぐらしながら校門を入った。
「くちなしの花が咲いていますよ。」
ボランティアさんが教えてくださった。
僕はくちなしの花を触らせてもらった。
そして顔を近づけて香りを嗅いだ。
初夏の高校の校庭に白いくちなしの花がよく似合うと感じた。
(2021年6月27日)

夏至

最近はzoomでの会議が多かったので久しぶりの東京だった。
早起きしてコーヒーだけ飲んでタクシーで桂駅に向かった。
阪急と地下鉄を乗り継いで7時前には京都駅に着いた。
僕は京都駅で高田馬場までの援助依頼をした。
高田馬場にある日本視覚障害者連合での10時半の会議に間に合わなければいけない。
ガイドさんと高田馬場駅早稲田口で10時に待ち合わせだった。
計算上は間に合うはずだが気持ちは少し焦っていた。
京都駅の駅員さんと新幹線ホームに急いだ。
予定ののぞみ号まで10分弱の時間があった。
僕の乗車する6号車まではだいぶ歩かなければいけなかったが、
僕達はスムーズに動けたので3分程の余裕を持って到着できた。
駅員さんの肘を持ったまま、ただ無感覚でホームに立っていた。
突然、駅員さんは何の脈絡もなくおっしゃった。
「きれいな青空です。今日は夏至ですね。」
僕は下を向いて立っていたことに気づいた。
そっと空を見上げた。
ふと朝の風も感じた。
望み号がホームに入ってきた。
「気をつけて行ってらっしゃい。」
乗車口までサポートしてくださった駅員さんがおっしゃった。
「ありがとうございました。行ってきます。」
僕は元気に答えた。
いい会議になりそうな予感がした。
(2021年6月23日)

ウグイスさん

いつもの散歩道、久しぶりに歩いた。
雨の日、暑い日は散歩を控えているので最近は週に2回くらいのペースだ。
春に気づいた時と同じ場所でウグイスの鳴き声に気づいた。
あのウグイスさんだ。
僕はすぐに確信を持った。
そしてとってもうれしくなった。
春に出会った頃、ウグイスさんはまだ下手な鳴き方だった。
「ホー」があったりなかったり、「ケキョケキョ」だったりした。
それでも一生懸命に鳴いていた。
僕は「がんばれ、がんばれ。」
幾度も心の中でエールを送った。
立ち止って聞きながら、そっと声に出して応援した日もあった。
いつの間にこんなに上手になったのだろう。
「ホーホケキョ」だけではなかった。
谷渡りも交えながら、幾度も鳴いてくれた。
いや、楽しそうに歌ってくれた。
僕は立ち止って聞き入った。
「凄いね。よくがんばったね。」
白杖を脇にはさんでそっと拍手をした。
何か元気が出たような気がした。
何をという事ではないけれど、
僕も頑張らなくちゃと思った。
(2021年6月19日)

枇杷

何年ぶりだろうか。
枇杷を食した。
むしゃむしゃと食べたのではなく、ひとつひとつをゆっくりと味わった。
皮をむきながらほんのりとした枇杷の香りに気づいた。
指先で皮を感じながら丁寧に剥いていった。
色々な黄色が脳裏に浮かんだ。
淡い黄色から玉子の黄身の黄色まで濃淡それぞれの黄色が浮かんだ。
朧気な記憶ではどれが本物なのか分からなくなってしまっていることに気づいた。
20年以上も見ていないということはこういうことなのだろう。
種を指先で除いたら今度は茶褐色を思い出した。
掌に載せてもう少し黒に近かったかなと思いを巡らせた。
その時間が豊かであることをふと自覚した。
手間をかけて準備した割には食すのはあっという間だった。
飲み込むのを少しためらいながらわざとゆっくりと味わった。
特別に美味とは思わない。
ただこの季節だけの風味が心に浸み込んだ。
見えていても見えていなくても、そこは変わらないのは幸せだと思った。
(2021年6月14日)

大切なもの

同行援護養成研修、いろいろな立場の人が参加しておられた。
資格を取得してガイドヘルパーとして働きたいという人が一番多かったが、
学ぶために受講したという人もおられた。
介護福祉士養成の専門学校の学生、視能訓練士、大学の点訳サークルの学生、
家族や知人に視覚障害者がいると言う方もおられたし、持病を抱えて生きているとい
う方もおられた。
外国人もおられたし海外で生活しているという日本人もおられた。
老若男女、いろいろな人生が同じ空間で同じ目的の中で交差した。
そこに生まれたのはお互いを理解しようという人間同士の思いやりだった。
アイマスクを装着してペアの人にサポートしてもらいながらの戸外での実習という体
験も影響したのかもしれない。
講座が深まるにつれ、僕自身の心もどんどん浄化されていくのを感じた。
爽やかになっていった。
帰宅してパソコンを開けたら、友人からのメールが届いていた。
「本当に大切なものは目には見えない。」
サンテグジュペリの『星の王子さま』の一節だった。
僕は大切なものをたくさん見れるのかもしれないとふと思った。
(2021年6月10日)

支援者

小学校の福祉授業にお招き頂いた。
担当の先生と地下鉄北大路駅の北改札口で待ち合わせだった。
たまにしか利用しない改札口だったので、僕は余裕をみて動いた。
慌てない、急がない、これも安全な移動の秘訣だ。
ただ、そんな時に限ってスイスイ行くのだから不思議だ。
僕は待ち合わせより30分も早く着いてしまった。
どこかで腰かける場所を探すというのも見えない僕にはエネルギーが要る。
結局、ただ立ち尽くして待つことが多い。
今回もそうした。
改札口の点字ブロックを数歩離れた場所で待つことにした。
他の人の迷惑にはならないと感じた場所だった。
5分も経たない時だった。
「松永先生ではないですか?」
男性の驚いたような声だった。
その声で僕も誰だかすぐに分かった。
もう退職されていたが高校の先生だった。
現役でやっておられた頃、幾度か僕を学校に招いてくださった。
一緒にお弁当を食べたり、喫茶店でコーヒーをご馳走になったこともあった。
限られた時間ではあったが、毎回楽しく会話した思いでがある。
出会ってからの時間はもう10年以上となる。
僕達はお互いの近況を報告し合った。
そして一緒に生徒達に向かい合った頃を懐かしんだ。
握手したくてムズムズする手を我慢させながらいろいろ話した。
またいつかどこかでの再会を約束して別れた。
それから間もなく待ち合わせの小学校の先生が来られた。
「待ちましたか?」
「いや、今着いたところですよ。」
僕は大人の対応をしながら先生の手引きで歩き始めた。
久しぶりに再会した友達のように笑いながら歩いた。
何の違和感もなくエスカレーターも利用した。
その先生と出会ってからももう20年くらいの時間が流れていることに気づいた。
人生の途中で経験した失明、やっぱり大変だった。
いろいろな思いもした。
なかなか参加できにくいと感じた社会があった。
そして、社会にメッセージを送りたいと思うようになっていった。
それが僕のライフワークだとさえ思うようになっていった。
見えなくなった僕達も参加しやすい社会が目標だ。
こうしてブログを書くのも本を執筆するのも目的は同じだ。
僕の視線の先には未来がある。
だからこそ、直接出会って話を聞いて欲しいという思いはいつもある。
でもそれは僕の力だけではどうしようもない。
いろいろな人達のご尽力のお陰でここまで活動を続けることができた。
それによって蒔くことができた未来への種は数えきれない。
本当に有難いことだと思う。
お一人お一人に心からお礼を伝えたい。
支えて援助してくださる人達、やっぱりいつ会っても輝いて生きておられる。
僕もそうありたい。
(2021年6月5日)

前向き

「どうしてそんなに前向きになれたのですか?」
大学生からの質問を僕は自分自身に問いかける。
実は僕自身は前向きなんて思っていない。
前向きになりたくてもどっちが前かさえわからない。
時が解決してくれるという言葉があるけれど、
見えなくなってもう25年にもなるのに解決なんてできていない。
悔しかったり悲しかったりの思いは日々僕の魂を襲う。
まるでからかうように僕の心を嘲笑う。
煩悩の塊だ。
あきらめの気持ちとあきらめられない気持ちがもつれる。
生きていくということはきっと幸せを求めるということなのだろう。
それはどんな空間でもどんな時でもどんな条件でも同じなのだと思う。
ただそうやってもがきながら呼吸をする。
笑いながら鳴きながら呼吸を続ける。
そんな日常の繰り返しの中で幸せはそっとかくれんぼする。
気づいたら、それはささいなこと。
とってもとってもささいなこと。
そして確かに生きていると想えること。
ふと気づいた。
歩けば足は前に出る。
後ろに歩くなんてできない。
歩くということは勝手に前に向かうということなのだ。
生きるということは勝手に前を向くということなのかもしれない。
(2021年6月1日)