想像力

盲学校は各都道府県に基本的に一つしかない。
それは見える頃から知っていた。
中学校の時に新聞記事で知ったのだったと思う。
知るということと理解するということは違う。
知るということは文字や映像や誰かの話、いろいろな媒体で見たり聞いたりしてそれ
に触れるということだ。
それはそれで意味はあると思う。
理解するには知るだけではない別のものが求められる。
別のもの、想像する力かもしれない。
失明して間もない40歳の時、地元の視覚障害者協会に入会した。
何故入会したのかは憶えていない。
その時の会長さんは盲導犬を使用している女性だった。
しばらくして役員の一人となった僕は彼女との交流も深まっていった。
彼女は先天性の全盲だった。
点字の勉強を始めたばかりの僕は彼女の点字力に驚いた。
点字を書くのも読むのも僕の数倍のスピードだった。
「やっぱり、小さい頃からやっておられるから凄いですよね。」
返ってきた言葉に僕は驚いた。
彼女が点字を学んだのは30歳近くになってからだった。
彼女は小学校へも中学校へも行ったことはないとおっしゃった。
同じ県内でも彼女の自宅がある地域と盲学校はとても離れていたらしい。
盲学校へ行くには親元を離れて寄宿舎で生活しなければいけない。
全盲の6歳の少女を親は手元から離せなかったのだ。
就学猶予とか就学免除という制度がそれを可能にした。
彼女は点字を習得してから、つまり30歳くらいになってから盲学校に入学した。
盲学校ではマッサージ関係の勉強もして国家資格も取得した。
僕が出会った時にはマッサージ師として自立した生活を送っておられた。
「子供の頃、よくラジオを聞いていたんだけど、いろんな話を聞きながら、いつか勉
強できたらいいなとずっと思ってたの。」
僕が出会った頃、彼女はNHKの放送大学の学生もしておられた。
卒業をうれしそうに話してくださったのを憶えている。
見えない見えにくい仲間や先輩との交わり、そのひとつひとつの人生、そこにある命
のきらめき。
見えていた時以上に想像する機会も時間も多くなった。
それは僕の幸せにつながっている。
彼女の告別式が昨日あった。
私用で出席できなかった僕は心の中で合掌した。
感謝を伝えた。
(2025年8月10日)

悲しい花火

自宅から最寄り駅までの距離は1キロはないと思う。
最寄り駅のホームからは琵琶湖が望める。
夏の夜、琵琶湖畔ではよく花火が打ち上がる。
その音が家にいても聞こえる。
花火そのものは見えないらしいが音はよく聞こえる。
夏の風物詩だ。
ところが、最近の僕はこの音に悲しみを感じるようになってしまった。
暗闇の中で火薬が出す音がついウクライナの戦火につながってしまうのだ。
連想してしまうのだ。
平和の象徴のような花火の音をつい悲しく感じてしまうのだ。
戦争が始まった頃、盛んに報道された。
毎回犠牲者の数が流れた。
戦争は続いているのに、報道の機会や内容は縮小されているのは間違いない。
そして何よりも怖いのは、そのニュースに僕自身が慣れてきたということだ。
心の痛みが鈍感になってきているのだ。
今日も戦火で人間の命が消えていっている。
ケガをしている人もいるのだから、障害者の数も増えているだろう。
鈍感になってきている僕自身を許してはいけない。
日本が戦争をしていた頃、見えない先輩達は辛い日々だったと聞いたことがある。
お国のために戦えない人に社会の目は冷たかったらしい。
父も祖父も戦争を経験した。
たまたま僕は平和の中で生きてこられた。
そしてこれから次の数十年、大丈夫だろうか?
小さな声、出していかなくちゃ。
花火が打ち上がる空もウクライナの空もつながっている。
平和になったウクライナの空で花火が観られるように祈る。
早く戦争が終わるように祈る。
(2025年8月5日)

セピア色

夏休みにオープンしているスケート場、そこでの生放送がラジオから流れてきた。
ふと、思い出が蘇った。
高校生の頃の思い出だ。
鹿児島市内にあったスケート場に友人達と幾度か出かけた。
今で言うはまったという感じだった。
大学時代も冬になれば京都市内のスケート場に出かけた。
あの氷の上を滑る感覚は楽しかった。
腰を少し落としてコーナーをクリアするのも楽しかった。
時を忘れて滑った。
働き出してからも、施設の子供達と数回出かけた。
確かに出かけた。
事実の筈なのに、最近少し不安になる。
あれは事実だったのだろうか?
夢の中の出来事?
関係する画像を思い出そうとしてもなかなかたどり着かない。
記憶がセピア色になってきているということなのだろう。
悲しくはない。
でも淋しさはある。
もう見ることはないということはちゃんと理解できている。
抵抗しようとも思わない。
だから、記憶はずっと残って欲しいと願う。
欲した時にすぐに脳裏に浮かんで欲しい。
贅沢なのだろうか?
ふと唇をかみしめている自分に気づく。
そんな時もある。
人間らしいってこと。
(2025年7月30日)

文化放送

「松永さんの本、文化放送のラジオで紹介されたらしいよ。」
視覚障害者の友人からの情報だった。
僕は目が見える友人に確認をお願いした。
事実だった。
5月に文化放送のロービジョンプロジェクトで数回紹介されたらしかった。
番組のオフィシャルページに掲載記事があったらしい。
担当者がたまたま新宿の紀伊国屋書店で僕の本を手に取ってくださったのだ。
昨年末に出版された「あきらめる勇気」だった。
そして、その流れで「風になってください」も読んでくださり、それも紹介されてい
ることが分かった。
こういうことを奇跡というのだろう。
僕はこれまで4冊の本を書いた。
多くの新聞、雑誌、ラジオなどで奇跡があった。
朝たまたま聴いていたラジオで有名なパーソナリティの方がいい本だと紹介してくだ
さった時には飲みかけていたコーヒーをこぼしそうになった。
勿論、そのパーソナリティの方と面識はなかった。
サンケイ新聞の一面のコラムで紹介された時も、たまたま目にした読者の方に教えて
もらった。
どういう経過で実現したのかは知らない。
週刊誌や月刊誌でもそういうことがあった。
ある公立大学から突然封筒が届いたこともあった。
一部を入学試験に使用した旨の報告だった。
幸運な奇跡だった。
振り返ると、そういう幸運に多く恵まれた。
心からありがたいことだと思う。
本を書くようになった時のことをふと思い出す。
たまたま僕のメールを読んだボランティアの女性から本を書くことを勧められた。
彼女は元大手の出版社で働いていたという経歴を持っておられた。
しぶる僕を彼女はとても真剣に説得された。
「貴方が目指す社会の実現のために、活字はきっと大きな力となってくれるわよ。」
僕はその言葉で初めて首を縦に振ったのだった。
僕より一回りくらい年上だった彼女はもう数年前に天国に逝かれた。
「だから、そう言ったじゃないの。」
彼女の声が聞こえそうな気がした。
僕は合掌した。
そしてありがとうございますを呟いた。
先日もたまたま出会った群馬県の方が図書館で借りて読んだとおっしゃった。
初めて耳にした地名だった。
図書館にあれば、誰かが読んでくださることがある。
読んでくださった人は、僕達のことを想像してくださるかもしれない。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会につながってい
く。
このブログを読んでくださった方、地元の図書館にリクエストしてみてください。
きっと、奇跡は続いていきます。
(2025年7月26日)

外食

東京出張中の朝食はコンビニで買っておいたパンが多い。
健康を考えて野菜サラダとヨーグルトもよく食べる。
それに持参したイノダのインスタントコーヒーをいれて朝が始まる。
アイフォンで好きな音楽をかけて過ごす。
仕事に出かける前のひと時、好きな時間だ。
昼食、夕食はすべて外食だ。
夜は懇親会なども必ずある。
研修会場は新宿区高田馬場にある日本視覚障害者センターだ。
早稲田大学などが近くにあるので飲食店はいくらでもあるし、料金も手ごろなお店が多くある。
それでも1,000円で食べられるお店は少なくなった。
講師料はなかなか上がらないので厳しい現実だ。
ただ、ハードなスケジュールが続く中での外食は楽しみのひとつだ。
今回立ち寄ったタレカツのお店、狭い通路を通って奥の席までいった。
端っこの席は他のお客さんの動きなどを気にせずに食べられるのでいい。
座ると同時にお店の方がお茶を出してくださった。
「左にお茶をおきます。」
この左というのは僕から見た左だ。
視覚障害者施設の多い地域ということもあるのだろうが、その接客のさりげないサポートがとてもうれしかった。
幾度か訪ねたお店で美味しいことは分かっていたが、なおさら美味しく感じた。
もうひとつ気に入ったお店は両国駅の近くにあるイタリアンのお店だった。
ちゃんこなどのお店が多いのだが、なんとなくパスタを食べたくて見つけた。
サラダもスープも飲み放題ドリンクも付いて1,000円というリーズナブルだった。
ケチンボの僕はそのコスパに驚いた。
そして、とても美味しかった。
これまで食べたパスタを考えても、ベスト5に入るだろう。
ここの接客も素晴らしかった。
店員さんはさりげないやさしさを感じさせながらも、見事な距離感だった。
また訪れたいなと思ってメニューを確認した。
暗殺者のスパゲッティー 1,000円
絶望という名のスパゲッティー 1,000円
娼婦風スパゲッティー 1,000円
貧乏人のスパゲッティー 1,200円
どれも美味しそうだが、最後の貧乏人は食べないわけにはいかない。
次回の出張の大きな目的ができた。
見える頃もそうだったけど、見えなくなってからも食いしん坊のけちん坊だ。
(2025年7月22日)

せみ

小田急新宿駅での実習を終えて高田馬場にある研修会場に帰る途中だった。
一匹のセミの鳴き声が聞こえた。
僕は耳を疑った。
まさかこんなところでと思った。
大都会の真ん中だ。
周囲にいた関係者に尋ねてみたが誰も聞こえたとは言ってくれなかった。
でも確かに聞こえたのだ。
僕にだけ聞こえるように鳴いてくれたのだろうか。
少し疲れ気味の僕にエールを送ってくれたのかもしれない。
ふと空を見上げた。
きっと東京も梅雨明けだ。
滋賀に帰ったら少しのんびりしよう。
うるさいと思うくらいにせみの泣き声を聞いてみたくなった。
(2025年7月20日)

小学校

先週は京都市内の二つの小学校にお招き頂いた。
どちらも4年生だった。
火曜日の小学校は初めて行く小学校だった。
金曜日の小学校は2004年くらいから毎年お招き頂いている小学校だった。
コロナの年に一年だけ行かない年があったが、それ以外はずっと行っている。
22年間、21回行ったということになる。
この小学校で出会った子供の数は2,000人を超えているだろう。
コツコツと積みあがった数字、凄い数字だと思う。
未来に向かって、それだけの種蒔をしたということになる。
小さな活動だ。
急激に社会を変える力はない。
でもきっと未来につながると僕は信じている。
信じているからやってこれたのだと思う。
先日、JRの車中で声をかけられた。
若い青年だった。
「松永さんですよね。小学校の時に講演を聞きました。その時の思いが僕の障害者観
となっています。」
ほんの数分の会話だった。
どんな障害者観なのかは彼は語らなかった。
語らなくても伝わってきた。
24歳の彼は一般企業で働いているとのことだった。
「これからも頑張ってくださいね。応援しています。」
すっかり大人の声の彼はそれだけを言い残して去っていった。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔で参加できる社会、それが目標だ。
伝え続けたいと思う。
ただ、福祉授業、講演、お招きがないと実現しない。
20年以上続いたということは、先生方がバトンをつないでくださったということだ。
心から感謝したい。
ちなみに火曜日の小学校は、20年の間に出会った先生が異動先の小学校で声をかけて
くださったものだった。
新しい小学校との出会いとなった。
子供達は真剣に話を聞いてくれた。
キラキラした眼差しを感じた。
この子供達が次の時代を創っていく。
その時代を僕が知ることはないだろうが、心から楽しみだと思う。
(2025年7月14日)

長刀鉾(なぎなたぼこ)の組み立てがスタートしたとニュースで流れた。
懐かしいコンチキチンの音色が頭の中で広がった。
条件反射のような感じだ。
40年以上の時間を京都市で暮らした。
主に利用していた公共交通機関に阪急電車があった。
その烏丸駅には7月になるとコンチキチンの音色が流れるのが夏の風物詩だった。
毎年必ず聞いていた。
6月30日には水無月という和菓子を食べる。
それから2週間ほどして、祇園祭の頃に雷雨があって梅雨が明ける。
夏が始まる。
季節の絡んだ暦が好きだった。
今年は記録的な速さで梅雨が明けた。
久しぶりに祇園祭の宵山でも覗いてみようかと思って気づいた。
丁度東京出張と重なっている。
来年こそは久しぶりに出かけてみよう。
大津の夏は琵琶湖の花火大会だろうか。
8月8日には動かないようにしている。
部屋の前の朝顔も順調に育ってくれている。
開花が楽しみだ。
あと幾度夏を楽しめるだろうかと真面目に考えることも多くなった。
何十回もあるかもしれないし、数回かもしれない。
分からないということも人生の妙味なのだろう。
今という時間を大切に過ごしていきたい。
(2025年7月10日)

ショパン

朝のバス停、今日も暑くなりそうだなと思いながら立っていた。
車が停まる音が聞こえた。
そしてドアが開き、運転席から女性が降りてこられた。
「松永さん、駅まで送ってあげるよ。」
彼女は中西と名乗られたが記憶はなかった。
一瞬迷ったが甘えることにした。
駅までの5分程度、僕達は車中で話をした。
以前駅でサポートを受けた時に「ありがとうカード」を渡したらしかった。
時々あることだし、僕は相手が見えない。
わずかの会話で声まで記憶することはできない。
でも、見える人はそういうことで僕を憶えてくださることがあるのだ。
素直にうれしいと思った。
バス停で立っているのを幾度か車から見かけたとおっしゃった。
一度は今回のように送ってあげようと引き返したが、
僕は既にバスに乗ってしまっていたとのことだった。
僕は駅に向かう時、いつも反対側のバス停でバスを待つ。
横断歩道まで遠いし、反対側に渡ることが難しいのだ。
ちなみに、見える人は平気で渡っていかれる。
バスは団地を巡回して駅に向かうから、時間がかかることさえ我慢すればいい。
バス代も同じ料金だ。
「反対側に渡るのが大変だからこっちのバス停から乗るのでしょう?」
お見通しよと言いたげに、彼女は笑いながらおっしゃった。
彼女のご主人はポーランドの人らしい。
ポーランドと聞いて何を思い出すかと尋ねられた。
作曲家のショパンがポーランド人だと教えてもらった。
あっという間に車はバス停に着いた。
彼女は手慣れた感じで僕を改札口までサポートしてくださった。
「行ってらっしゃい!」
僕はいつもの「ありがとうカード」を渡した。
彼女と別れて階段を上りながら、帰宅したらショパンを聴いてみようと思った。
人間同士の絆、見えない僕を幸せに導いてくれる。
人間でよかったと思う瞬間だ。
(2025年7月4日)

サクランボ

梅雨明けが発表された日、友人からサクランボが届いた。
すぐに洗っていくつか食べた。
一粒ずつ味わって食べた。
高級品と分かっているからついそうしてしまうのだろう。
微かな酸味と微かな甘さが口の中に広がる。
でも、ほっぺたが落ちるほとどの美味しさでもない。
この時期にしかないということが特別の幸せにつながるのだろう。
いろいろな果物がハウス栽培などができる時代、季節を感じられる数少ない果物かも
しれない。
そしてどこでもできるものでもない。
育てるのが難しい果物なのだろう。
僕に届いたのも山形県産だった。
僕はすぐに友人にお礼のメールをした。
「一度に3粒ずつ食べてください。」
面白い返事が返ってきた。
僕は指示通りに3粒ずつ食べてみた。
理由が分かった。
口の中一杯にサクランボが広がるのだ。
食べてるって感じがする。
食べながら可笑しくなった。
それでも3回くらいやって、また一粒ずつにした。
貧乏症なのだろう。
初めて本物のサクランボを見たのは大学生の頃だった。
黄色やオレンジ、薄い赤、美しいと思った記憶がある。
そんなことを思い出しながら味わった。
ささやかな幸せの時間となった。
プレゼントはいいものだ。
幸せを運んでくれることがある。
(2025年6月29日)