4年前に網膜剥離で光を失ったらしい。
鉄工所で働いていた時に焼けた鉄粉が目に入ったのが原因らしかった。
施設にきて良かったことは食と住の心配をしなくていいこと。
箱折りの作業は苦にはならないこと。
食事はおいしく頂いていること。
こちらの質問に彼はすべてきちんと答えてくれた。
医療機関、福祉機関、きっと幾たびも相談の機会を経験してきたのだろう。
そつのない答え方、抑揚のない話しぶりからそれが伺えた。
61歳での人生の転機、静かに受け止めているのだろう。
質問する僕も人生の途中で失明したということも伝えたが、それもほとんど意味はな
いようだった。
どんな質問をしてもそれは無機質であることを僕は感じていた。
「何か聞いてみたい曲がありますか?」
唐突だったが、僕はほとんどの曲を今聞いてもらえると思うと説明した。
「木村弓のいつも何度でも」
彼のリクエストの曲がiPhoneから流れ始めた。
木村弓の澄んだ声が二人きりの古い会議室に広がっていった。
耳慣れた曲だったが、僕は初めて歌詞をしっかりと聞いた。
彼がこの曲を選んだのが少し分かるような気がした。
向かい合った僕達の間に置いたiPhoneから最後のハミングがこぼれていった。
曲が終わると彼はゆっくりと立ち上がり、椅子を片づけて出口に向かった。
出口に向かいながら、振り返って尋ねてくれた。
「貴方のお名前は?」
「松永と言います。」
彼はその後何も言わずに部屋を出ていった。
僕はもう一度曲を聞いた。
今年ももうすぐ終わるのだと思った。
(2024年12月28日)
ハミング
電話の声
同行援護資質向上研修当事者コースは今年も12月下旬の開催だった。
場所も例年通り、東京高田馬場の日本視覚障害者センターだった。
責任者の僕にとっては毎年恒例の行事となっている。
ホテルはいろいろ変わる。
東京のホテル代が高騰していて大変なのだ。
今回は木場のホテルから会場まで東京メトロで通勤という方法だったが失敗だった。
確かに若干安かったが、ホテルは駅から遠いし、朝の電車の込み様は凄かった。
会場までの往復だけで結構なエネルギーを費やした。
しかも研修だけで4日間、それに参加者の懇親会、講師陣の反省会などもあるのだか
ら
ハードだ。
ホテルでの一人暮らしの毎日も平常と変わらない。
毎朝のイノダコーヒーも寝る前のノートパソコンでのメールチェックも変わらない。
あえて変化を考えると、お風呂がシャワーに変わるくらいかな。
それで無事終了となるのだから体力はあるのだろう。
確かに疲れは感じやすくはなっているが回復できないような状態にはならない。
疲れを癒してくれることもいろいろある。
研修中に東京は初雪のニュースが流れた。
なんとなくうれしかった。
仲間との懇親、盛り上がった。
最終日の翌日、スペイン料理のクリスマスランチもうれしかった。
帰路の新幹線の中で携帯電話が鳴った。
留守電を聞いたら、受講生の男性だった。
僕は新幹線を降りてからかけなおした。
「心がふるえる研修、ありがとうございました。僕も頑張ります。」
彼の誠実な声が身体に染み込むのを感じた。
疲労は溶けていった。
もっと頑張りたいと思った。
(2024年12月24日)
従姉からの手紙
節子ねえちゃんからの手紙が届いた。
節子ねえちゃんは僕の従姉だ。
僕が子供の頃、一番近くに住んでいた従姉だ。
と言っても、僕が少年の頃、節子ねえちゃんはもうお姉さんだった。
記憶にある節子ねえちゃんの顔は綺麗な大人の顔だ。
節子ねえちゃんには弟がいた。
僕はこうじ兄ちゃんと呼んでいた。
こうじ兄ちゃんは僕を可愛がってくれた。
遊んでもらった思い出は数多くある。
よっぽど楽しかったのだろう。
いくつものシーンが蘇る。
セピア色の静かな映像が思い出となっている。
やさしい風景だ。
よく二人乗りした自転車の後ろの席から見ていた風景なのかもしれない。
僕が高校を卒業して東京に出た時、いろいろと世話をしてくれたのもこうじ兄ちゃん
だった。
数年後、体調を壊したということでこうじ兄ちゃんは故郷の病院に入院した。
僕は帰省の際にお見舞いにいった。
京都で学生生活を送っていた僕は、京都での再会をこうじ兄ちゃんと約束した。
こうじ兄ちゃんが何をどこまで知っておられたのかは分からない。
若かった僕は、病院は治療をして元気を取り戻す場所だと信じて疑わなかった。
まだ20歳台だったこうじ兄ちゃんの年齢、病室での笑顔、すべてに悲壮感などはなか
った。
それから1年も経たない内にこうじ兄ちゃんは天国に旅立った。
人の死について、僕が初めて打ちのめされた経験となった。
心の中で生きている。
人は時々そのような表現をすることがある。
あれから半世紀近くの時を超えて、僕はそれを実感している。
「信也、頑張れ。」
こうじ兄ちゃんはきっとそう言ってくれてるだろう。
こうじ兄ちゃんの顔が笑った。
それから、節子ねえちゃんの顔も笑った。
(2024年12月18日)
『あきらめる勇気』のご案内
今日、2024年12月13日、僕の4冊目の本がデビューします。
『あきらめる勇気』 法蔵館 1,540円
3冊目のエッセイ「風になってください2」が出版されたのは2013年でした。
その後、本の執筆からは遠ざかっていました。
このホームページにブログを書くという方法を選んだのです。
10年と言う間、書き続けました。
その数は1,000を超え、アクセス数も160万を超えました。
僕にとっては大成功です。
読んでくださった皆様に心から感謝申し上げます。
ただ、本の一番の目的、見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加で
きる社会にはまだまだ距離があることを感じています。
僕のささやかな本が誰かの手元にあって、どこかの喫茶室にあって、街角の図書館に
あって、。
妄想は膨らみます。
それをまた誰かが読んでくだされば、未来は1センチ近づいてくれるかもしれない。
見えることはあきらめられても、幸せに生きることはあきらめられない僕がいます。
本は願いであり、祈りであるのかもしれません。
一人でも多くの人に届きますように、皆様の力をお貸しください。
(2024年12月13日)
ボロボロの赤い部分
「この下の部分は白杖の白を目立たすためにわざと赤色にしてあるらしいよ。」
僕は白杖を持ち上げて、下の部分を指差しながら中学生達に説明した。
休み時間になって、一人の男子中学生が僕に近寄ってきた。
そして小さな声でそっと教えてくれた。
「白杖の下の部分は傷だらけで赤色はもうほとんどはげてしまっています。」
僕は驚いた。
この白杖は新品に近いくらいにきれいだと思っていたのだ。
ちなみに、重度視覚障害者の僕は白杖は1割負担で購入できることになっている。
補装具という福祉の制度で2年に一回権利がある。
耐用年数は2年なのだが、昨年駅で人とぶつかって折れてしまったことがあった。
大津市の福祉課に事情を説明したら対応してくださった。
すぐに新しい白杖を持つことができたので日常生活に支障はなかった。
新品は7千円くらいするので買い替えると結構辛い。
京都でも同じことが1年に2度起こってしまったのだが、2回目はなんとなく申し訳なく感じて自費で購入した思い出がある。
昨年買い替えたのだから、まだ2年は経っていないと思う。
ふと、毎日を振り返った。
僕は基本的には白杖を使用しての単独歩行だ。
白杖で道を歩き、階段を上り下りしている。
点字ブロックを確認し、電車やバスにも乗り降りしている。
あらゆる場面で白杖を使う。
駅の点字ブロックは階段に誘導されているのでエスカレーターは滅多に使用しない。
エスカレーターに乗るのも上手なのだが、入り口を探すのにちょっとエネルギーがいるのだ。
結果、見える人よりも多く階段を上り下りしていることになると思う。
階段を上る時、白杖の下の部分を段鼻に当てて動く。
距離、高さを確認しながら、コンコンという音が周囲への注意換気にもなる。
例えば、昨日一日を思い返しても、合計200段くらいは上っている。
電車の乗り換え回数が多かったり、地下街を移動したりしたら、その2,3倍になる
こともある。
それだけの回数、白杖の下の赤い部分は傷ついてすり減っていくのだ。
そう考えると、赤色がなくなっている白杖は僕にとっては勲章みたいなものだ。
男子中学生に教えてもらった後、その部分を手で触ってみた。
ボロボロになっているのが触覚で分かった。
こんなになりながらも頑張ってくれているのだと知ってとても愛おしく感じた。
白杖に感謝をしながら明日も歩こうと思った。
(2024年12月11日)
バトン
東京市ヶ谷の私学会館4階鳳凰の間はほぼ満席だった。
国レベルのセレモニーの会場は静寂に包まれ、重圧な空気が流れていた。
その中で時々先輩の声だけが漏れていた。
声がすぐに止まるということは付き添いの方がストップをかけておられたのだろう。
運営的にはまずいことかもしれなかったが、僕はその度に何かうれしさみたいなもの
を感じていた。
先輩とお会いするのは本当に久しぶりだった。
88歳、全盲で補聴器使用という状態になっておられた。
僕が京都の代表として同行援護の全国の会議に出始めたのは十数年前だった。
先輩はまさにその会議で先輩だった。
いろいろなことを教えてくださったしお叱りを受けたこともあった。
その言葉の端々には強さとやさしさが感じられた。
僕が生まれる前から見えない人間として生きてこられた力みたいなものがあった。
数年後、僕が全国の同行援護の講師としてデビューしたのは愛知県豊田市だった。
先輩は豊田市で同行援護の事業所を運営しておられた。
地域の視覚障害者協会の会長なども歴任しておられた。
先輩がデビューの機会を作ってくださったのだったと思う。
豊田市での研修の最終日、先輩は僕を小料理屋さんに招待してくださった。
地元の食材を使った懐石料理は思いもかけぬご馳走だった。
先輩がとてもうれしそうだったのを憶えている。
その研修会の後しばらくして、先輩は全国の会議から引退された。
それ以来、10年以上の時間が流れていた。
先輩と一緒に活動した時間は決して長くはなかった。
僕のことを憶えていてくださっているだろうか、少し不安を感じつつ挨拶をした。
「京都の松永です。昔いろいろ・・・。」
僕は現在の滋賀県在住ではなく、当時のことを先輩の耳元で話そうとした。
次の言葉を言う間もなく先輩がおっしゃった。
「会えるかもしれないと思ってたよ。大学も頑張ってるか?」
僕は言葉が出なかった。
言葉と涙腺が直結してしまっているのを自覚できていた。
ただ返事だけをして先輩の手を握った。
先輩は力強く僕の手を握り返してくださった。
受け継いだバトン、へなちょこの僕には重すぎて長過ぎて悲しい。
恥ずかしい。
でも、投げ出すわけにはいかない。
次の人に渡すまでは頑張らないとと思う。
そしていつか、こんな風に老いていきたいと思った。
大声で言いそうになった「ありがとうございます。」を僕は飲み込んだ。
きっと聞こえないだろうと思ったからだ。
そして付き添いの方にお願いした。
「僕が心からのありがとうを言っていたとお伝えください。そして益々お元気でとお
伝えください。」
(2024年12月7日)
不似合いのネクタイ姿
きっとまだ暗いのだろう。
6時過ぎには家を出て歩き始めた。
年に数回だけネクタイをする機会がある。
窮屈な感覚が嫌なので好んではしない。
スーツは上下が同じ生地、同じ色だから着やすいという利点がある。
だから、いつもの僕はマオカラーのスーツだ。
スーツでありながらネクタイをしなくてもいい。
人前に出てもあまり失礼にもならない。
僕には有難い服なのだ。
今日はネクタイをしなければいけないのでいつもとは違うスーツだ。
きっと七五三みたいなのだろうと思う。
ネクタイは直前までポッケに入れてある。
会場に入る前にするつもりだ。
今日は「視覚障害者ガイドヘルパーの日」という記念日だ。
その祝賀のイベントが東京で開催されるのだ。
全国の仲間がオンラインでつながる。
それぞれの地域のそれぞれの仲間が思いを語る。
全国から選ばれたガイドヘルパーさん、事業所、同行援護研修の講師の方々の表彰式
などもある。
僕もそれに出席するのだ。
関係者は12時までに会場に到着するようにとの案内がきたので早朝出発となった。
会場に入る前に食事も済ませなければいけない。
よく当事者運動という表現をされるが、結構きついこともある。
こうして東京まで出向くということもそうかもしれない。
日当が出るわけでもないし、特別にいいこともない。
それでも帰りの新幹線の座席には疲労感と充実感と喜びがあるから不思議だ。
誰かの役に立っているのかもしれないという気持ちが支えてくれているのだろう。
僕も一人の当事者としてしっかりと感謝を伝えよう。
同行援護という素晴らしい制度、大切にしなければと思う。
不似合いのネクタイ姿はお許しください。
(2024年12月3日)
ミッション
鹿児島、香川、徳島、島根、広島、和歌山、兵庫、奈良、大阪、京都、滋賀、石川、
愛知、長野、東京。
各地から集った受講生の皆さんは視覚障害福祉のプロの人達だ。
前回の東京会場は東日本の参加者が多かったが、今回の京都会場は西日本の参加者が
中心だった。
9時にスタートして17時に終了の研修が4日間連続で開催された。
初日の夜には参加者の懇親会、3日目の夜には講師陣の反省会もあった。
僕の家から研修会場までは片道2時間近くかかった。
ラッシュ時の移動も応えた。
睡眠時間を確保するのも大変だった。
年に数回開催されるこの研修会、体力的にはいつも過酷だ。
それは僕にとっても受講生の皆さんにとってもそうなのだと思う。
それでも頑張れるのは何故だろう。
それはきっと、僕達講師陣と受講生の皆さんが生み出していく空気感なのだと思う。
受講生同士のつながりもそれに拍車をかけていく。
まさに仕事への情熱だ。
それぞれがそれぞれのミッションを感じながら学んでいくのだ。
受講生の皆さんがまたそれぞれの地元で活躍してくださると思うとうれしくなる。
感謝の思いが湧き出る。
4日間を無事終了した僕は翌日の朝も6時過ぎには家を出た。
小学校で1、2時限目の授業だった。
身体はボロボロだったが気持ちは充実していた。
この活動もまた、僕にとっての大切なミッションなのだ。
ミッションに共通していること、それはどちらも未来に向かっているということだ。
この研修会は、今年度中に京都で後1回、東京で後3回が予定されている。
学校での福祉授業、大人向けの講演なども多くの予定が入っている。
僕は僕のミッションをしっかりとやっていきたい。
(2024年11月28日)
神様が微笑んで
木曜日は大阪府の南部、藤井寺まで出かけた。
電車をいくつも乗り継いでの往復だった。
元々ケチンボなのだろう。
乗り換え回数が多くても安いルートを選んでしまう。
そしてしんどいとボヤくのだからどうしようもない。
ただ、そんな時、神様が微笑んでくださることがあるから不思議だ。
その日、乗り換え12回目の電車だった、
階段を降りかけたタイミングで女性が声をかけてくださった。
僕は有難く肘を借りて座席に誘導してもらった。
その電車はよく利用しているが、座れることは滅多にない。
声をかけてくださる人はほとんどいないということだ。
彼女は僕の横に座っておっしゃった。
「実は、今朝もお見掛けしました。でも、声をかけられなかったんです。」
わざわざおっしゃった。
彼女はそのことを後悔しておられたのだろう。
それがたまたま同じ日の夕方の帰り道で出会ったということだった。
彼女は今度は躊躇なく声をかけてくださったのだ。
そういう彼女、12回の乗り換えで疲れ切った僕、まさに不思議なタイミングだった。
僕は心からの感謝を伝えて電車を降りた。
帰宅してパソコンを開いた。
翌日からのスケジュールを確認した。
他人事みたいに凄いなとだけ思った。
それからメールチェックした。
学生から事務連絡のメールが届いていた。
「応援しています。」
カーソルを動かして、最後の一行を僕は幾度か読んだ。
恥ずかしがりやの彼女にしては精一杯のメッセージだなと感じた。
笑顔になった。
それから先日の彼女を思い出した。
ハロウィンの直前の日の講義の後だった。
僕のところにきた彼女は僕の手に小さな紙包みを載せて教室を出ていった。
帰宅して開けたらハロウィンのお菓子が入っていた。
僕は日ごろは甘いお菓子は好んで食べない。
その日はとても疲れていた。
コーヒーと一緒に食べた甘いお菓子を美味しいと感じた。
その時も思った。
ばっちりのタイミング。
神様が微笑んでくださったのだ。
(2024年11月23日)
柿の木の枝の隙間から
久しぶりに庭仕事をした。
本当に久しぶりだった。
早朝に家を出て夜帰宅という日が続いていたためだ。
それ以前もたまに休日はあったのだが、雨だったり別の用事で庭に出れなかった。
16時くらいに帰宅できた日に玄関のプランターにチューリップの球根を植えたことは
あった。
今年最後のゴーヤの収穫をしたのも夜だった。
しっかりと草抜きをしたのは9月の終わり頃以来だったかもしれない。
予想はしていたが雑草が凄かった。
所々、土が隠れるくらいに生えていた。
ただただその生命力にはいつものように驚いた。
雑草への敬意みたいなものさえ感じた。
柿の木の下は枯れ葉で覆われていた。
見事な枯れ葉のジュータンだった。
草抜きも枯れ葉の掃除も大変なのだが心はうれしくなった。
小さな僕の家の庭にも秋がきてくれたのだ。
僕はわざと枯れ葉の上に座った。
そしてそっと寝転がった。
いくつになっても、時々少年みたいな行動をしてしまうことがある。
もう恥ずかしさも照れくささもない。
僕は僕でいいんだと素直に思う。
空を見上げた。
裸ん坊の柿の木の枝の間から秋空が見えると思った。
じっと見つめた。
少しだけ涙がこぼれた。
自分でも意味不明の涙がこぼれた。
(2024年11月19日)