ドイツ料理

彼は僕をドイツ料理の店に招待してくださった。
人生の途中で視覚障害になった僕達は年齢も近い。
失明したのもほとんど同じ時期だ。
でも、どのように生きてきたのか、お互いに知らない。
その時に何を思い、どうやって悲しみや苦しみと向かい合ったのかもわからない。
ただ、お互いに同じ未来を見つめようとしていることだけは確認できた。
それだけでいいのだと思う。
琥珀色のオニオンスープはたまねぎ本来の甘さを主張していた。
新鮮なサラダには手作りのドレッシングがよく合っていた。
舌平目のロールは手が込んでいた。
オーブンでしっかりとローストされていて絶妙な味だった。
僕は珍しく、盛り合わせのデザートまで完食した。
時々の会話と笑いが幸せを増幅させていた。
60歳を超えている僕達はそんなに大きなことはできない。
でも、ほんの少しでいいから、何かができればいいなと思う。
そんな爽やかな思いをかみしめながら最後のコーヒーを飲み干した。
幸せってさりげないものなんだと再確認した。
そして空間に、時間に、共に過ごした人達に、ありがとうと思った。
(2021年11月17日)

留学生

集合場所までシンキもリジャルも自転車できた。
二人とも別々の場所で暮らしているのだが、とても遠いというのは共通点だ。
電車を利用しないということは何の矛盾もない日常的な選択らしい。
少しでもコストダウンというのがこの国で生きていく方法なのだろう。
彼らとは福祉の専門学校で出会った。
それぞれ高齢者施設で働きながら学んでいる留学生だ。
シンキは台湾、リジャルはインドネシア出身で僕との会話は日本語だ。
僕達はいろんな話をしながら宇治川沿いを散歩した。
シンキは台湾にも一応四季があることを教えてくれた。
ニイタカヤマは台湾にあることも初めて知った。
雪が積もるということにも驚いた。
戦時中の日本の占領の結果、親日も半日もあるらしい。
異国の話題に僕はどんどん魅かれながら話は盛り上がっていった。
リジャルはインドネシアの季節を夏夏夏雨と教えてくれた。
ひょうきん者のリジャルらしい表現だ。
リジャルの家の庭にはマンゴウの木があるらしい。
果物だけはいっぱいあると笑った。
島国だが領土は日本より広くて人口も日本の3倍くらいらしい。
言語の数は途方もない数字だった。
僕は地球を感じながら歩き続けた。
二人は交互に僕のサポートをした。
凹凸のある地道も会談も揺れる吊り橋も何の問題もなかった。
トイレの案内も困ることはなかった。
風景を感じながら水音を聞きながら、おいしい空気を吸いながら僕たちは歩いた。
気づいたら歩数計は1万4千歩を超えていた。
いたるところで彼らのやさしさが伝わってきた。
人間同士のつながり、素敵だと思った。
そしていつか僕が高齢者施設に入所するような日がきたら、
彼らに介護してもらえたらいいなと本気で思った。
とりあえずはこうして元気なうちに、次は温泉でも連れていってもらおうかな。
(2021年11月11日)

南京黄櫨

僕は車の助手席でパソコンのキーボードを叩いていた。
このところ忙しくて仕事に追われている。
できる時に少しでもやっておきたいという心理なのだろう。
ボランティアさんが車を運転しながらそっと教えてくださった。
南京黄櫨が赤く染まりだしたらしい。
僕の手は止まった。
そして視線が車のドアの向こう側に向かった。
この街で暮らし始めた頃、僕はまだ見えていた。
赤、黄色、緑、茶色、秋が彩った街を覚えている。
美しい絵画のようだった。
思い出が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。
もう一度、しっかりと目を開いて外を眺めた。
思い出が生きていてくれたことを有難いと思った。
今年も秋がきてくれたのだとしみじみとうれしくなった。
空が高くて蒼いのを確信した。
道に積もった落ち葉の上を歩きたいと思った。
(2021念11月6日)

丹後への旅

7時過ぎにはタクシーに乗った。
単独で丹後半島まで出かけるので駅での援助依頼に時間を要すると考えたからだ。
でも実際は思ったよりもスムーズに動けて、予定通りに特急はしだて号に乗車した。
天橋立駅で乗り換えて昼前には岩滝口駅に着いた。
関係者がホームで待っていてくださった。
秋の爽やかな風を感じながら迎えの車に乗った。
会場の控室には食事の準備もしてくださっていた。
バラ寿司という地元の郷土料理だった。
これをこの地域の視覚障害者の先輩に教えてもらったのはもう20年くらい前だ。
すっかり好物となってしまっていた。
それだけで単純な僕は幸福感に包まれた。
いい気分で会場の人達に語り掛けることができた。
僕の講演はともかくも、その後のシンポジウムは素晴らしいものだった。
主催者の準備もしっかりしていて、司会者もいい流れを作ってくださった。
皆が同じ未来を見つめる時間となった気がした。
車椅子の登壇者がお正月の箱根駅伝の観戦が楽しいとおっしゃった。
見えない僕も毎年ラジオで観戦していることをお伝えした。
そういうことを普通に話せる空間がいいなと思った。
まとめをしてくださった主催者の言葉も的確に最後を飾っていた。
最初から最後までこんなにうまくいくのも珍しい。
そういうイベントに参加できたことをとてもうれしく感じた。
そして感謝した。
帰路はコウソクバスを利用した。
関係者がバスの仲間でサポートして見送ってくださった。
ぬくもりが伝わってきた。
それぞれの立場で頑張っていける気がした。
いい旅となった。
(2021年10月30日)

演奏会

お琴、三弦、十七弦、尺八、
それぞれの音色が響き合った。
左から右から、強く弱く、浅く深く、
音が生きていることを主張しているようだった。
呼吸さえ感じられた。
まるでオーケストラだなと思った。
演奏者の一人が僕の友人だった。
見える人達の中で一人だけ見えない人だった。
彼女が部隊を動く時には仲間がそっとサポートしていた。
彼女の前には譜面台はなかった。
それでも舞台には何の違和感もなかった。
見えても見えなくても変わらないプロの演奏者の姿がそこにあった。
堂々と演奏する姿は美しいとさえ思った。
目が見えないと無理だろうと思われることは多くある。
そしてそれはほとんどイメージの世界であって現実と離れていることが多い。
勿論、いろいろなことを誰でもができるわけではない。
才能も努力も要求されるのかもしれない。
だからこそ、安易にできないと決めてしまう雰囲気には恐怖を感じる。
満ち足りた気持ちで会場を後にした。
彼女の友人ということをどこか誇りに感じた。
(2021年10月26日)

研修会

沖縄、鹿児島、福岡、大分、広島、大阪、京都、愛知、岐阜、長野、神奈川、東京、
千葉、北海道。
日本のあちこちから参加してくださった。
当事者、ガイドヘルパー、サービス提供責任者、事業所の責任者、講座の講師、福祉
施設職員、立場もいろいろだった。
zoomの画面を超えたところでそれぞれの思いが絡み合った。
同行援護という制度が生まれて10年となる。
この制度のお陰で日本中の視覚障害者の外出が保障されるようになった。
それでもまだまだ課題は多い。
もっといい制度となるようにと願いは同じだ。
僕も当事者の一人としてそこに関わっている。
微力なのは自覚しながらそれなりに頑張っている。
頑張るとやっぱり疲れる。
心地よい疲労だ。
学び合う空間はそれぞれを高めてくれるのだろう。
同じ未来を見つめる時に生まれる共感の力だ。
そういう空間を作ってくださった皆様に心から感謝したい。
そしてまた頑張っていこうと思う。
(2021年10月21日)

深爪

尋ねた学生は驚いた感じだった。
家族に爪切りをしてもらっていると思っていたらしい。
何の疑いもなくそう思っていたらしい。
どうやって服を着るのですか?
お風呂はどうしてるのですか?
どうやってご飯を食べるのですか?
小学生の質問に時々ある。
きっと見えないことへのイメージだろう。
これは仕方のないことだ。
爪切りを質問してくれた大学生も出発は同じ感覚なのだろう。
見えなくなったら何もできなくなる、
実は、僕自身も見えなくなる時にそんな風に思った。
光も感じなくなって20年以上の時間が流れた。
確かにできなくなったことも多くある。
でも、努力や工夫でできることもある。
人の目を借りて、機械の力を借りてできることもある。
それを正しく伝えていくことは大切なのだろう。
白杖を使っている人は全盲だとか、
見えない人は皆点字が読めるとか、
誤解は障壁となっていくことがある。
その先には特別な能力の持ち主みたいになってしまう危険性さえある。
僕は手の指も足の指も爪は自分で切っている。
京都市内の有名な刃物屋さんの爪切りを使っている。
切れ味抜群だ。
僕の友人には、やすりを使っている人もいるし、電動やすりという人もいる。
家族にお願いしているという人もいる。
いつ、どうして、見えなくなったのかによっても違うだろう。
どれくらいの時間が流れたのか、元々器用な人なのか、それも影響するだろう。
そして、それはたまたまそうだというだけのことなのだ。
自分でできる人は凄いという意見もあるが、それは少し違うような気がする。
ちなみに、僕は触覚で確認しながらなので、いつも深爪だ。
切り終わって触ってみて少しでも指から出ていたら切ってしまう。
いつの間にかどんどん深爪になってしまった。
違和感を感じないということは、深爪が好きなのかもしれない。
(2021年10月17日)

赤の他人

用事が終わったのは夕方だった。
四条烏丸まで友人が車で送ってくれた。
友人は地下に向かう階段の入り口までサポートしてくれた。
車を停車してのことだから大変なのは分かっている。
苦にせずにやってくれるのは彼のやさしさだろう。
いつもそんな感じだから元々そういう人なのだろうと思う。
僕も真似しなければと思う瞬間だ。
彼と別れて階段を降りていった。
地下に着いてからはどっちに行ったらいいのかは分からなかった。
これは予定通りでそこから先は自分で探すつもりだった。
車も自転車も通らないし危険は少ない場所だということは分かっていた。
知らない場所はどうやって行くのかという質問を受けることがあるが、
音や雰囲気を確認しながら白杖で探すという感じかな。
白杖でウロウロと探し始めた時だった。
「どこまで行かれますか?」
若い女性の声だった。
僕は阪急烏丸駅に向かっていることを伝えた。
彼女は同じだからとサポートを申し出てくれた。
僕は彼女の肘を持たせてもらってスイスイと駅に向かい、同じ電車に乗った。
彼女は僕より二つ前の駅で降りるとのことだった。
それなりに混んでいたので僕達は入り口の近くで立ったまま少し会話を交わ下。
大学時代に全盲の友人がいたらしい。
彼女はそれがきっかけで僕達に声をかけられるようになったと話してくれた。
喜んでもらえるとうれしいとも話してくれた。
彼女が降りるまでのわずか5分程度の乗車時間、お互いの人生が交差した。
「またお見かけしたら声をかけますね。」
彼女はそう言い残して降りていった。
爽やかな空気が残っていた。
実際は再会する可能性はほとんどないだろう。
赤の他人という言い方がある。
見えなくなってから赤の他人との遭遇は増えた。
そのほとんどはやさしさに満ちている。
見返りを求めないやさしさを愛と表現するのなら、
確かに人間と言う生き物は愛に満ちているのだと思う。
それに触れる度に幸せを感じる。
そして感謝の気持ちが僕を包んでくれる。
ささやかな真実だ。
(2021年10月14日)

捨てる神あれば拾う神あり

もう何百回もそこでは乗り換えをしている。
阪急電車と地下鉄の乗り換え通路だ。
専門学校への出勤でも大学への出勤でも利用している。
朝のラッシュでも疲れた夕方の時間帯でも利用している。
だから間違うなんてあり得ない場所のはずだ。
それを間違ってしまった。
点字ブロックに沿って頭の中の地図を頼りにいつものように動いたはずだった。
ちょっと変な感じだなと思った時はもう遅かった。
自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
通行人の足音や話し声が周囲から聞こえていた。
地図を修正する手がかりの音を探したが無理だった。
「助けてください。迷子になりました。」
時間にも追われていた僕はすぐに周囲に向かって声を出した。
間もなくサポーターが現れた。
僕は地下鉄に向かう階段の手前の点字ブロックまでの誘導をお願いした。
感謝を伝えて地下鉄に向かった。
何故、どうして、解決できない思いを引きずりながら急いだ。
予定の電車に乗車しなければ大学の授業に遅れてしまう。
見えない僕には走るということはできない。
慎重にそれでも少し急いでホームへの階段を降りていった。
階段がもう少しで終わろうとする頃に電車が出発する音がした。
やっぱり乗り遅れた。
ホームに立ちすくんで次の電車を待った。
幾度も腕時計の針を触って時間を確認した。
まさに刻々と時間は過ぎていった。
次の電車で間に合うかギリギリのタイミングになるだろう。
間に合わなかったらタクシーになるが、タクシー乗り場もどこにあるか分からない。
あれこれ考えながら無念の思いと不安とが大きくなっていった。
電車が到着した。
ドアが開いて発車前のチャイム音が聞こえた。
僕はわざとしばらく時間を遅らせて乗り込んだ。
降りてくる人がどこで終わるかは分からないから勘の世界だ。
ゆっくりと動くのがポイントだ。
乗車してすぐに入り口の手すりを持った。
目的の駅までは6つ、見えている人はきっと座席に座る距離だ。
さすがに今日は座りたいなと僕も思った。
でも、見えない僕にはそれができない。
これも受け止めるしかないことだ。
見えない人間が社会に参加するにはささやかな覚悟は必要だ。
僕は疲労感と不安を抱えたままで当たり前のように手すりを握って立っていた。
「席が空いていますけどお座りになられますか?」
女性の声がした。
僕は何と答えたかは憶えていない。
憶えていないくらいうれしかった。
「喜んで。」と答えたような気もする。
とにかく座れるということがうれしかった。
身体も心も落ち着かせたかった。
僕は座りながら彼女にありがとうカードを手渡した。
彼女の中の記憶が蘇った。
彼女は元小学校の先生だった。
子供達と一緒に僕の話も聞いてくださっていたのだ。
僕の中で喜びがどんどん膨らんでいった。
僕達に声をかけるということにはいくらかの勇気が必要だ。
思いは持ってくださっていても、それを実行に移してくださる人はまだまだ少ない。
声おをかけられる大人になって欲しいという願いを持っているから、
僕は子供達に会いに行くのだ。
そこで出会った先生がそれを実践してくださっているのに感動した。
その姿を見た子供達がきっと後に続く。
理由は簡単だ。
困っている人に声をかけて助ける姿は間違いなくとてもカッコいいからだ。
そして、僕の目的の駅と先生が降りられる予定の駅はたまたま一緒だった。
まさに神様のプレゼントだ。
僕は先生に事情を話した。
そしてバス停までの急いでのサポートをお願いした。
「一緒に行きましょう。もしもそのバスに乗れなかったら、私が送ってあげます。」
先生はそう申し出てくださった。
駅に到着して僕達はバス停に向かって急いだ。
ホームを歩き、エスカレーターに乗り、改札を出て、歩道の奥の階段を降りた。
僕が白杖で点字ブロックを確認しながらの移動と比べれば半分以下の時間だった。
間に合った。
先生は僕がバスに乗車するまで一緒にいてくださった。
案内放送で乗車するバスを確認するという作業もしなくてよかった。
僕は安心してのんびりとバスを待った。
やがてバスが到着して僕は乗車口の正面の座席に座った。
始発だから間違いなく空いているのだ。
これで間に合うという思いが身体中を包んだ。
「苦あれば楽あり、捨てる神あれば拾う神あり。」
そんな言葉を思い出した。
先生はほんまに神様だったなと思った。
ドアが閉まろうとした時、声が聞こえた。
「松永さん、気をつけて行ってらっしゃい!」
先生は発車するまで見ていてくださったのだった。
僕は満面の笑顔で手を振った。
神様も満面の笑顔で手を振った。
(2021年10月9日)

マツタケの思い出

朝のラジオで秋の味覚の話題が流れていた。
今年はマツタケが豊作らしい。
僕がマツタケを購入したのは一度だけだ。
本物を両親に食べさせてあげたいとの思いがきっかけだった。
失明して5年くらい経った頃だっただろうか、働く場所はなかなかなかった。
両親に経済的な心配をさせているのは自覚していた。
自分ではどうしようもない現実と向かい合っていた頃だった。
両親は僕を不憫に思い、僕は両親にすまないという気持ちがあった。
何の親孝行もできない自分が辛かった。
僕はお財布に一万円札を数枚入れて、白杖をつきながらデパートへ向かった。
出かけたデパートの売り場ではその値段を知ってやっぱり躊躇した。
あまりにも高かった。
それでも両親に一度くらいはという思いが決断させてくれた。
僕は自宅に帰ってデパートのラッピングをほどいた。
それから、籠から出したたった3本のマツタケを新聞紙でくるんだ。
買う時は僕が1本と両親が2本と思っていたが、僕はなくてもいいとすぐに考えが変
わった。
それから、その頃近くの団地で暮らしていた両親を訪ねた。
「知り合いから頂いたから半分おすそ分けだよ。」
僕は新聞紙で無造作にくるんだマツタケを渡した。
親父のうれしそうな声が僕を満足させた。
次の日、親父が僕の団地を訪れた。
「おいしかった。母さんと一緒にお吸い物もして頂いたよ。
残りのマツタケごはんだ。食べなさい。」
親父はお弁当箱に入ったマツタケごはんを二つ僕に手渡して帰っていった。
お弁当箱を開けると本物の香りがした。
マツタケごはんはマツタケがゴロゴロ入っていた。
ほとんどが帰ってきたのが分かった。
親父は見抜いていたのかもしれない。
僕は泣きながら食べた。
あれから20年くらいの時が流れた。
親父はこの世を去り、母は故郷の妹が世話をしてくれている。
結局、僕は定職につくことはできなかった。
全盲の人間が働ける場所はまだまだ少ない。
僕の能力の問題だけではないと思う。
見えない人も普通に参加できる社会に向けての活動が僕の仕事となった。
必ずしも収入につながるわけではないという仕事だ。
それでも僕は大切な仕事だと思っている。
僕にできるささやかな仕事だ。
ラジオを聞きながら、今年くらいはマツタケを買ってみようかなと一瞬思った。
でもすぐに打ち消した。
値段を知って怯むのは判り切っている。
思い出だけの幸せもあるということにしよう。
(2021年10月4日)