アップルストア

気づいてすぐに探し回った。
思い当たる場所はすべて確認した。
でも見つからなかった。
失くして初めてその重要性を再確認した。
アイフォンが僕の生活を支えてくれていたのだ。
通信会社に相談してみたが拉致は空かなかった。
電話対応してくださった人はマニュアル通りの対応をされた。
それは仕方ないことだったと思う。
多分話し方から日本人だったと思う。
どうしようもなくて京都市内にあるアップルストアを訪ねた。
いつも込んでいるお店だ。
案の定多くのお客様が並んでおられたし、予約が前提だった。
それでもスタッフの方がなんとか1時間後の予約を入れてくださった。
予約の合間を探してくださったようだった。
緊急性を感じてくださったのだろう。
待ち時間は近くのカフェで過ごすことにした。
祈るような気持ちでコーヒーを飲んだ。
指定された時間に再度訪れるとスムーズに2階のブースに案内してくださった。
最初に対応してくださったのは髪をピンクに染めた欧米系の女性だった。
彼女の話す日本語は少し分からない部分もあったが、彼女は僕の話はすべて理解して
くださった。
僕が一つ話をするだけで三つを理解しているという感じだった。
そしてずっと自然な笑顔だった。
それから3名のスタッフが対応してくださったが皆外国人だった。
僕のアイフォンを遠隔操作などで何とか探す方法はないか検討してくださった。
それが無理だと分かると保険で対応できないか考えてくださった。
結局できなかったのだが、一生懸命にやってくださるのが伝わってきた。
4人目の男性が新しいアイフォンの準備をしてくださった。
その話し方で間違いないと思った僕は彼に話しかけた。
「対応してくださったスタッフは今まで皆外国の方でしたがとても親切でした。」
彼は笑って答えた。
「世界中どこに行っても仕事の内容が同じなので、働く場所は自分で希望できるんで
すよ。それに京都はお客様も多国籍ですからね。
ちなみに僕も国籍は日本ではないんですよ。」
彼が席を外した時にボランティアさんが教えてくださった。
「フロアを見渡せば皆私服で世界の人が集まっているという感じです。」
彼はしばらくして席に戻ってこられた。
どんなアプリが僕の役に立っているかなどを興味深く聞いてくださった。
このアイフォンという道具が世界のいろいろな立場の人の役に立つことを喜んでおら
れるのが伝わってきた。
僕が新しいアイフォンを持って店を出たのは21時近くだった。
多くのスタッフのありがとうございましたの声が背中から聞こえた。
皆笑顔の声だった。
僕は地球という星で暮らしている。
地球が平和でそこに暮らす人が皆幸せにならなければいけない。
当たり前のことを何故か強く思った。
(2022年2月14日)

丹後への旅

冬の丹後半島、同じ京都府なのだが景色は一変する。
歩道は積み上げられた雪で通れない。
ボランティアさんと一列になって車道を歩く。
大きな車音がしたので尋ねると除雪車だった。
暮らしている人達が大変なのは想像できる。
それでも旅人の僕はうれしくなってしまう。
この地域に来たら立ち寄ることにしている食堂でお刺身定職を頂いた。
やっぱり新鮮で美味だった。
隣席の男性がおいしいからと大根の煮物をお裾分けしてくださった。
都会では姿を消してしまった交わりだ。
「ご馳走様でした。」
合掌した自分の掌のぬくもりに気づく。
笑顔になる。
腹ごしらえを済ませてから会場に向かった。
高校とPTAの合同の研修会だ。
僕はいつもの通りに話をした。
17歳との会話、まさに未来との会話だ。
高校生が僕の年齢になる頃、僕はもうこの世にはいない。
この国がこの星が今よりも輝いていて欲しいと願う。
そして一人一人がそれぞれに幸せであって欲しいと願う。
終了後、校長先生が飾らない言葉で思いを伝えてくださった。
そしてまた来年もとおっしゃってくださった。
有難いことだと思う。
帰り際には顔なじみになった先生が追いかけてきて激励してくださった。
たくさんの人達に支えられての活動だ。
駅まで車で送ってくださった先生がそっと教えてくださった。
昨年紹介した視覚障害者サポートのアプリを自分のスマートフォンに入れてくださっ
た先生がおられるそうだ。
そういう一歩がまさに未来につながっていくのだ。
怒られるかもしれないけれど、また来年も雪景色であって欲しいな。
カニでも食べることにしようかな。
(2022年2月12日)

キンカン

鹿児島の友人から今年も春が届いた。
友人は小学校の同級生だ。
彼女は確か中学校に入る前に転校していったのだったと思う。
だから、僕の思い出の彼女の顔は小学校の頃の顔だ。
ふとしたことで50歳で再会してまたつながった。
毎年キンカンを届けてくれる。
早春の風物詩となった。
届いたキンカンは春姫というブランドだ。
大粒で甘さと酸っぱさが絶妙だ。
口に入れると春が始まるのを実感する。
そうだ。
暦の上では数日前に春が始まったのだ。
気づいたらうれしくなってまたひとつ食べてしまった。
(2022年2月7日)

花言葉

早朝に目が覚めるようになった。
いやなってしまった。
12時間でも平気で寝続けることができていた若い頃が懐かしい。
もっと寝たいという思いは同じなのだが勝手に目が覚めてしまうのだ。
老化ということなのだろう。
そのせいで寝る時間も早くなった。
まだ21時にもならないのに睡魔と戦っている状態だ。
悔しいが仕方ない。
だんだんとそれが無駄な抵抗だと思うようになってきた。
そのリズムに合わすようになってきた。
5時前からラジオをつけることも多くなった。
ベッドの中からグーグルホームにお願いする。
「okグーグル、NHK第一をつけて。」
これでラジオがスタートし、僕の一日が始まる。
ベッドの中で聞いている。
その時間帯に「今日の花言葉」というコーナーがあって気に入っている。
僕の知識は恥ずかしいくらいに少なくて、ほとんどの花の名前は知らない。
見える頃にもっと憶えておけばよかったと後悔もする。
でも、今更後悔してもどうしようもない。
たまに知っている花が出るとうれしくなる。
そして思い出す。
2月1日、今日の花は菜の花だった。
花言葉は「初々しい」とのことだった。
頭の中で菜の花畑が広がった。
じっと見ていたら涙が一筋こぼれた。
春がうれしいのかな。
(2022年2月1日)

マグマ

カイロを使うことは滅多になかった。
あまり好きではなかったのかもしれない。
寒い日の研修の時に学生からマグマという名称のカイロを紹介された。
温度が高く設定されていると触らせてくれた。
確かに熱いくらいにあたたかかった。
ネーミングもインパクトがあってすぐに憶えた。
別の買い物でドラッグストアに立ち寄った時にたまたまマグマを見つけた。
雪の日だけ使おうと思って10個パックをひとつだけ買った。
けちんぼの僕が使い捨てのものを買うのはとても珍しいことだと思う。
しかも他よりちょっとお高めのプライスだ。
よっぽど何か魅かれてしまったのだろう。
雪の散らついた日にひとつだけポケットに入れて出かけた。
次の時から左右のポケットに入るようになった。
天気予報が朝の気温が5度以下の日は持つようになった。
結局毎日使うようになった。
とりこになるってこんなことを言うのだろう。
最近は貼るタイプのものを背中にひとつ貼るということも覚えた。
朝の身支度のひとつになってしまった。
毎日3個使うのだから結構な消費量だ。
計算をするとつい悔しくなるがもう手放せない。
帰宅してまだあったかいカイロを捨てることができない。
もったいないと思ってしまう。
寝る時に一緒に布団に入っている。
これだけ使えば元をとれるとわけのわからない納得もしている。
その納得に健気さまで感じてしまう。
まあいいか。
あたたかいのは幸せ気分ってことかな。
(2022年1月27日)

変なお礼

角を曲がってから30メートルくらい歩けば点字ブロックがある。
バス停の目印の点字ブロックだ。
そこを超えて直進、路面のコンクリートの感じが少し変化した場所が橋だ。
橋を渡ったら運動公園の側壁の壁と路面を白杖で交互に触りながら歩く。
そこが終われば植え込みがある。
植え込みの間の細い路地を進むと点字ブロックだ。
この点字ブロックも曲がりながら緩やかな下り坂となって横断歩道につながる。
そこでピヨピヨとカッコウの信号の音を聞き分ける。
どちらが鳴っているか確認するのは意外と難しい。
確認が終わると次のカッコウが鳴き始めたと同時にスタートする。
急がずに同じスピードで歩くのがコツだ。
左折右折のエンジン音が聞こえるがそれに惑わされると方向を誤る。
こうして一応の地図が頭の中にある。
ところがこれを逆のコースで歩くとつい迷子になってしまう。
植え込みの間の路地近辺が難しい。
悔しいけどまた迷ってしまった。
「迷ったはんの?」
おばあちゃんの声がした。
「境谷のバス停の方に行くんか?」
彼女は僕の進みたい方向を確かめるとひじを貸してくださった。
僕達はゆっくりと歩き始めた。
方向を確認できたところから一人で歩こうとしたが、
バス停までは一緒に行くとおっしゃった。
「今年の冬は寒いなぁ。コロナで出かけられんのも辛いわ。
私らは残りの日数が少ないんだからもったいない。」
彼女は笑いを交えながら歩いてくださった。
バス停に到着した。
「松永さんやなぁ。知ってるで。」
別れ際に彼女は笑っておっしゃった。
突然恥ずかしくなった。
白杖のプロが迷っているのを見られていたのだ。
「頑張ります!」
僕は変なお礼を伝えてまた歩き始めた。
「頑張りや。」
彼女の大きな笑顔の声のエールが後ろから僕をあたたかく包んでくれた。
僕の背筋が自然に伸びていた。
さりげなく誰かの力になる。
僕もそんな人になりたいなと今更ながら思った。
(2022年1月21日)

研修

二日間の研修が無事終了した。
研修参加者が全国規模なので今年度はzoomでの開催となった。
ちなみに昨年度はコロナの影響で中止だった。
対面での研修が望ましいのは分かっているが仕方ない。
中止するのか、zoomでの開催とするのか、苦渋の選択だった。
zoom開催であっても主催者側の関係者は集まらなければいけない。
東京からも岐阜からも京都まで来て頂いた。
僕も早朝から終日の運営に関わった。
結構ハードな二日間だったと思う。
少しの疲労を感じながら研修参加者の最後のコメントを拝聴した。
なんとかやれたなという実感が少しずつ染み込んでいった。
「ホームページ、たまに覗いていますよ。」
仲間からのさりげないエールには胸が熱くなった。
それぞれの地域で生きている仲間の姿が僕自身を勇気づけてくれる。
助けられているなと感じた。
関係者の皆さんにご苦労様を伝えて帰路についた。
バス、電車、バスと乗り継いで帰るのだ。
1時間半くらいはかかるし、電車も立ったままというのが通常だ。
いつもの駅のホームに電車が入ってきた。
僕は電車の車体を白杖で触って右に動こうとした。
「左です。」
左側のドアが近いのを教えてくださる声が聞こえた。
僕は左に動いて乗降口を探して乗車した。
入り口の手すりを握ろうとしている僕にさきほどの声が続いた。
「お座りになられますか?」
僕は勿論喜んで座らせてもらった。
「ありがとうございました。助かりました。」
一瞬の出来事でそれだけ言うので精一杯だった。
ありがとうカードを渡すこともできなかった。
神様が頑張ったご褒美をくださったような気がした。
そしてまた二日間の研修のことを思い出していた。
同じ未来に向かってそれぞれが頑張っていく。
僕もその一人でありたいと強く願った。
(2022年1月17日)

無事終了

大学での今年度最後の講義だった。
無事終えることができた。
友人がコロナの濃厚接触者になってしまって欠席した学生もいた。
振り返れば大変な一年だった。
緊急事態宣言の時にはオンラインでの講義となってしまったし、
対面の講義でもディスタンスに気を配った。
消毒、換気、違う条件での日々だった。
せっかくの学校生活、学生達もきっと残念だっただろう。
僕の中にも悔しい思いはある。
それでもできる範囲で頑張った。
どうにもならないことと向かい合いながら希望を失わない。
それはまさに、見えない僕が生きていくということと重なるのかもしれない。
学生たちが最後に提出したレポートには感謝の言葉が綴られていた。
学べたことへの喜びがあった。
これからの社会がどうなっていくのか、僕にはまったく分からない。
それぞれが豊かな人生を歩いて欲しいと心から願う。
(2022年1月14日)

ジョンディーコンのこと

「あなたの願いが叶いますように。
気をつけて過ごしてくださいね。
神の御加護を。」
誕生日に届いたジョンディーコンからのメッセージだ。
ジョンディーコンはフィリピンのセブで暮らしている小学生だ。
日本の制度では中学生ということになるのだろう。
便利な時代で関係者がビデオメッセージを届けてくださる。
十数年前、海外赴任でセブで生活していた日本人の人達がセブの子供達と出会った。
子供達は貧困で学校にも行けないという環境の中にいた。
教育の機会をプレゼントするというささやかな活動がスタートしたのだ。
活動はたくさんの人達の共感につながっていった。
現在では数十人の子供達が学校に通っている。
大学生もいる。
視覚障害の僕は日常たくさんの人に支えられて生きている。
僕にできる社会への恩返しを探していた頃、この団体の存在を知った。
この活動がフィリピンの国や社会状況を劇的に変化させるということはできない。
でも、教育が人生を豊かにしてくれるのは間違いないことだ。
そういう人が一人でも増えればそれでいいと思っている。
この団体が10年目を迎えた時に一度だけセブに出かけたことがある。
ジョンディーコンの家を訪問して彼と直接話をした。
山道をよじ登った場所に家らしきものが並んでいた。
6畳もないくらいの部屋に家族6人が暮らしていた。
台所もトイレもなかった。
僕はその環境に愕然とした。
ただ、家族や近所の人たちが笑顔だったのがとても印象的だった。
不思議だった。
僕達の国は幸せの本当の意味を少し間違えてしまったのかもしれないとさえ感じた。
「将来、何になりたいの?」
僕はジョンディーコンに尋ねた。
「ドクター。」
優秀な成績の彼ははっきりと答えた。
笑顔だった。
明日の食事さえ不安定なはずなのに笑顔だった。
僕にできるささやかな活動、しっかりと続けたいと思った瞬間だった。
ジョンディーコンが大学を卒業するまでは支援を続けたいと思った。
最近のセブはコロナに加えて大きな台風にも見舞われたらしい。
飲料水の確保にも困難とのことだ。
ジョンディーコンのメッセージにはいつも恨みつらみの言葉はない。
そして、神様への感謝の言葉がある。
特別な信仰のない僕にはそれがとても輝いている。
支援しているようで支援されているのかもしれない。
この星で出会った人間同士、感謝して生きていきたい。

☆この活動に興味のある方は、このホームページ内のリンクをご利用ください。
04 NPO法人 イロイ・メモリアル・スカラーシップ(EMS)

(2022年1月9日)

高齢者

昭和32年1月5日、阿久根でも雪が散らつく寒い日だったらしい。
超未熟児で生まれた僕の生存を信じた人はほとんどいなかった。
産婆さんと両親だけがあきらめなかったのだろう。
暖房器具などの電化製品はまだ社会にはなかった。
発明されたばかりの保育器は鹿児島県の田舎には届いていなかった。
親父はせっせとお湯を沸かして湯たんぽをいくつも僕の布団に入れてくれたらしい。
そのお湯もマキで火をおこしての時代だ。
生命力が強かったのだろう。
それから65年目の日を僕は今日無事に迎えることができた。
いよいよ高齢者だ。
高齢者にはなりたくないと思っていたのだが、なってみて驚いた。
喜びが込み上げてきた。
これまで味わったことのない幸福感のような気がする。
65年の間にはそれなりにいろいろあったのだと思う。
それでもとりあえず元気で今生きている。
うれしくてたまらない。
人生をスタートさせてくれた両親にもあらためて感謝だ。
そして、出会ったすべての人に心から感謝します。
ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
そしてまた、笑顔で高齢者の人生を歩いていこうと思います。
(2022年1月5日)