いい日旅立ち

鹿児島県薩摩川内市の小学校での福祉授業は3年ぶりだった。
10数年続いていた年中行事がコロナの影響で中止となっていたのだ。
これは鹿児島県だけではない。
一昨年は地元の関西でも対面の授業も講演も激減した。
時代の流れでオンデマンドの授業やzoomでの講演は増えていったが対面が一番伝えや
すいのは間違いない。
社会は少しずつ回復していったのだろう。
この秋の僕のスケジュールもほとんどコロナ前のようになった。
やっと社会がwithコロナになったんだなと実感しながらホームに立っていた。
小学校や中学校での福祉授業、社会人向けの人権講演、高校時代の友人達との交流、
妹宅で頑張っている母との再会、どれもがワクワクの予定だ。
一週間くらいのホテル暮らしも楽しみだ。
山科で新快速に乗り換えて新大阪、そこから新幹線で川内までの旅。
最寄りの比叡山坂本の駅を出発して6時間くらいかかることになる。
ほとんどの荷物は宅急便で送ったがパソコンなどはリュックの中だ。
いつもよりちょっと思いリュックを背負って雨空を眺めていた。
ラッシュの時間でホームが込んでいるのは雰囲気で伝わってきた。
電車が入ってきた。
慎重に動いて乗車しなければと思った時だった。
「大丈夫ですか?」
隣で声がした。
「肘を持たせてください。」
僕は声をかけてくださった女性の肘を持たせてもらって無事乗車した。
「どこか手すりを持たせてください。」
彼女は僕の手を通路の手前の座席の後ろの手すりに誘導してくださった。
他の乗客の迷惑にもならない安全な場所だ。
「ありがとうございます。もうこれで大丈夫です。」
僕はいつものありがとうカードをそっと渡しながら感謝を伝えた。
ホームで彼女が声をかけてくださってから60秒はかかっていなかっただろう。
人間のやさしさはたった60秒で誰かの緊張を受け止め安心させ、そして笑顔にでき
るのだ。
山科へ向かう間に頭の中で「いい日旅立ち」の懐かしい曲が流れた。
いい旅になるなと思った。
いやそうしたいと思った。
(2022年10月8日)

花言葉

早く目覚めるようになってもうどれくらい経ったのだろう。
朝の始まりに気づかないくらい眠りたいのだがどうしても目が覚めてしまう。
夜のトイレの回数も増えた。
悔しい残念な現実だ。
小鳥達がさえずり始める時刻まで音楽を聞いてぼんやりしていることが多い。
「朝のクラッシックをかけて。」
「朝のピアノが聴きたい。」
グーグルホームにお願いをする。
お気に入りのコーヒーを飲みながら思い出に埋もれたり妄想の旅に出たりしている。
いつの間にかそれなりにいい時間となった。
たまにラジオも聞いたりする。
ニュースも聞くが楽しみになっているのは毎日の誕生花の紹介だ。
知らない花の多さに愕然とするがもう今更仕方がない。
たまに知っている花が出るとうれしくなったりする。
僕の誕生花は「ミスミソウ」らしいがどんな花か知らない。
ちなみに今日の誕生花は「キンモクセイ」らしい。
花言葉は「謙虚」と知ってなんとなくまた好きになった。
僕に不足している部分なのだろう。
鼻がピクピク動き出した。
今年もまたどこかでキンモクセイの香りに出会いたい。
懐かしい友に再会するような幸せがある。
(2022年10月2日)

コミュニケーションの力

僕は月に二度、視覚障害者施設でピアカウンセリングの仕事をしている。
施設を利用している視覚障害者の人の声に耳を傾けるという仕事だ。
特別な資格を有している訳でもないしスキルがある訳でもない。
たまたま大学が社会福祉学科だったということとこれまでの活動の延長ということに
なるのだろう。
少しでも仲間のためになればという思いで続けている。
9時に仕事が始まるので比叡山坂本駅を7時49分の快速電車に乗車する。
この電車だと乗り換えなしで行けるので有難い。
この電車を利用する時だけ彼と出会う。
彼は通勤でだいたいこの電車を利用しておられるらしい。
引っ越してきて間もない4月のことだった。
点字ブロックの上で電車待ちをしている僕に声をかけてくださった。
まだ慣れない僕は朝のラッシュの電車への乗車に不安そうに立っていたのだろう。
その日は肘を持たせてもらって無事に電車に乗車するということでスタートした。
回を重ねる毎に技術は向上していった。
やさしさが生み出すコミュニケーションの力だ。
昨日の彼は僕を見つけるとまた声をかけてくださった。
右肩にあったカバンを反対側に持ち替えてから僕の左手をその空いた右手の肘に誘導
してくださった。
それから移動して電車待ちの人の列の最後尾に並んで溶け込んだ。
電車に乗車後は乗客の方に僕が座れるようにさりげなく頼んでくださった。
それから空いた席の背中に僕の手を誘導してくださった。
これは前回お伝えした方法だった。
僕はスムーズに着席できた。
込んでいる車内、それ以外に会話はなかった。
山科駅に電車が到着した。
「お先です。」
彼はそっと僕に声をかけて降りていかれた。
「ありがとうございます。」
よし、今日も頑張るぞ。
僕は僕にできることで誰かの力になりたい。
誰かのために活動する場を社会と呼ぶのかもしれない。
動き出した電車の中でそう思った。
(2022年9月28日)

健康

9月10日の夜、突然の吐き気、腹痛、発熱に襲われた。
38度が三日間も続いたからコロナだと確信した。
連休にも邪魔されて対応ができなかった。
発熱したらお医者さんにというのは今は違うらしい。
発熱外来の予約をとるのも大変だった。
やっと検査を受けることができたがコロナは陰性だった。
勝手に信じていたので愕然とした。
熱は下がったが腹痛はなかなか治まらずほとんど絶食して過ごした。
それでも休めない仕事には点滴を打ってもらいながら対応した。
何もかもがしんどかった。
そして昨日、やっといつもにもどったと自覚できた。
結局2週間くらいの体調不良だった。
健康の有難さを痛感した。
過労にならないように休養もとりながらやっていかなくちゃと思った。
来月は鹿児島、東京、併せて2週間くらいは出張の予定だ。
今週は京都府北部の福知山市まで出かけて、トンボ返りで大学という予定も入ってい
る。
またいつもが始まる。
また活動ができる。
始まるいつもにありがとうと思う。
健康に感謝し、健康を大切にしながら頑張りたい。
(2022年9月26日)

彼岸花

庭の片隅に彼岸花が咲いた。
真っ赤な、いやあの燃えるような紅色の花だ。
今年は厳しい暑さの夏だった。
異常とも思える降り方の雨の日も幾日かあった。
つい先日は台風が吹き荒れた。
それなのに何事もなかったように咲いてくれた。
当たり前のように咲いてくれた。
お彼岸に併せて咲いてくれた。
僕は自然に合掌した。
生きていることに感謝した。
そしてこの同じ空のしたで起こってしまっている戦争を思い出した。
戦争のニュースにも慣れてしまっている自分を悲しく感じた。
あの国に彼岸花はあるのだろうか。
そっと咲いていて欲しいと願った。
(2022年9月21日)

時間

発熱してしまった。
仕事もキャンセルして家で過ごした。
いつの間にだろう
早食い競争みたいに時間を食べていたことに気づいた。
仕事という名目だったのかもしれない。
いや言い訳だったのかもしれない。
忙しいことがいいことなのだと自分で自分に魔法をかけてしまっていたようだ。
結局それは生き急いでいることで死に急いでいることだったのだろう。
どうしていいか分からないたくさんの時間の前でただ狼狽えた。
呆然とする僕に時間がエンドレスで現れた。
中学生の頃だったろうか。
港の灯台のちかくで過ごした時間を思い出した。
夏の空と海、映像のほとんどがブルーだった。
その中に砂浜、いくつかの小島、堤防、赤茶けた灯台だけがあった。
何の目的もなく何をするでもなくただそこに寝っ転がっていた。
ほとんど変化のない風景をじっと見つめていた。
見つめていたのに見ていなくて、見ていないのに見ていたような気がする。
波の音や海鳥の鳴き声、小型船のエンジン音だけが聞こえていた。
ゆっくりとゆっくりと時間は流れた。
ひょっとしたら時々時が停止していたのかもしれない。
あの頃、それを僕は幸せと呼ぶことをまだ知らなかったのだろう。
50歳を過ぎてからの故郷への帰省、僕は海へ連れて行ってと友人達に頼むようになっ
た。
当たり前のことに当たり前に気づいた。
幸せはいつも穏やかな時間の中にあったのだ。
幸せを求めて急いでもそれは幻を追いかけることに過ぎないのだろう。
これからの時間をのんびりとゆっくりと過ごしていけたらいいな。
そんなに多くなくてもいい。
でもしっかりとその時間を抱きしめられたらいい。
(2022年9月15日)

美しい楽しいカード

小学校4年生の子供達から手作りのカードが届いた。
トランプと同じくらいの大きさの固い紙で作られていた。
一人で一枚ずつ作ってくれたのだろう。
僕が子供達にプレゼントした「ありがとうカード」へのお礼の「ありがとうカード」
なのかもしれない。
点字で短い一言メッセージも書いてあった。
「わたしはむらさきがすきです。」
「がんばって。」
「がんばれ!」
「ありがとう これからも がんばって。」
こぶしを突き上げてる絵が描いてあった。
「7月4日は ありがとうございました。」
「うれしかった。」
「ありがとう にゃん」
猫がニャンと言ってる可愛い絵が描いてあった。
「ありがとう」
真っ赤なハートマークが大きく描いてあった。
「ありがとう がんばって。」
「めがみえなくても がんばってください。」
ニコニコ笑ってるニコちゃんの顔が描いてあった。
「ありがとう」
赤いチューリップが描いてあった。
「がんばってください。」
「がんばって」
カラフルな虹色でお星様がたくさん描いてあった。
「いろいろなことをおしえていただいて ありがとうございます。」
ありがとうの言葉に添えられた絵は他にもいろいろあった。
僕のサングラスの絵は三枚あった。
サングラスと白杖、点字器の絵が上手に描いてあるのもあった。
桜のお花を小鳥が見てる可愛らしい絵もあった。
点字のぶつぶつを目や鼻ととらえて、点字を使った顔みたいなのを描いてるのもあっ
た。
アイスクリームや美味しそうなスイカの絵もあった。
鮮やかな虹の絵、たくさんの星の絵、真っ赤な太陽、青い空の絵も多かった。
ひょっとしたら、僕に見せてあげたいと思ってくれたのかもしれない。
どの絵もキラキラとしていた。
見えない僕に一生懸命に描いてくれたのだ。
一枚一枚に一人一人の個性が輝いていた。
子供達は時々びっくりするような真実をさりげなく教えてくれる。
人間同士が伝え合うってどんなことなのか、また僕も勉強になった。
そしてこのプログラムを子供達と一緒に進めてくださった素敵な先生方に心から感謝
した。
こんなに美しい楽しいありがとうカードを僕も目指そうと思った。
(2022年9月9日)

台風

故郷の鹿児島県は台風がくるのは年中行事みたいなものだった。
少年時代の思い出のひとつに台風がある。
大きな台風かもしれないと分かると父ちゃんはその準備をした。
飛ばされそうなものは家の中に入れた。
あちこちを五寸釘で打ち付けた。
それから雨戸には物干し竿を針金で留めて補強をした。
小学生になると僕も少しずつ手伝いをするようになった。
思い出せばほとんど手伝いにはなっていなかったと思う。
ただ父ちゃんとの作業の時間は鮮明に憶えている。
針金をペンチで切って竿に結わえていく父ちゃんの手先まで憶えている。
とても楽しかった思い出のひとつだ。
台風は不思議と夜にきた。
トランジスタラジオの放送は雑音の方が大きかった。
停電の中のロウソクの光が家の数か所で揺れていた。
炎は押し入ってきた小さな風に揺られながら必死に耐えていた。
そして泣き叫ぶような風の音。
子供の僕はちょっとワクワクしながら布団の中で縮こまった。
朝がきて外に出るといろいろなものが散乱していた。
木の枝などが多かったと思う。
幾度か近所の家が崩壊した。
子供達は崩壊した家の前で小さな歓声をあげた。
台風という自然の力、圧倒的な力への敬意みたいなものだった。
崩壊した家の少年は下を向いて唇を噛んでいた。
それからよく遊んだ河の様子も見にいった。
どこからどこまでが河なのか分からない状態になっていた。
いつもの土手のあたりを少しだけ歩いて怖くなって引き返した。
家までの帰り道、ふと空に気づいた。
台風の過ぎ去った後の空は美しかった。
透き通るような青空に足を止めて見入った。
昨日も台風のニュースが流れた。
僕の暮らす滋賀県大津市はほとんど影響はなかった。
台風が通り過ぎる度に一連の記憶が蘇る。
透き通るような青空の青が蘇る。
窓から外を見上げる。
自然に微笑みがこぼれる。
(2022年9月7日)

70歳

バスを降りたタイミングで声をかけてくださった。
「二条駅まで一緒に行きましょうか?」
彼女はライトハウスで開催されたガイドヘルパー現任者研修を受講しての帰路、
僕はその研修の講師を終えての帰路だった。
緊張しますとおっしゃったがとても落ち着いて対応してくださった。
基本姿勢の形も歩くスピードも道の情報提供も完璧だった。
階段では最初と最後はしっかりと止まって教えてくださった。
結構な数の階段を歩いたが彼女の呼吸はまったく変化がなかった。
地下鉄の椅子への誘導も自然だった。
車内の雰囲気を察しての沈黙もさすがの対応だった。
ありがとうカードをお渡した時だけはうれしそうにされた。
65歳で定年退職になってからガイドヘルパーの仕事を始めたから70歳を超えたけど新
米だとおっしゃった。
僕は信じられなかった。
彼女のどこにも老いはなかった。
最近、僕は何歳まで頑張ろうかなどと考えることが多かったのだがそれが恥ずかしく
思えた。
数字にこだわる必要はないのかもしれない。
頑張れる間は頑張ればいいのだと自然に思えた。
人生の先輩達にいろいろと教えられてきた。
いつになったら僕はそんな先輩になれるのだろう。
ちょっと恥ずかしくなった。
このまま70歳の青年になれればいいな。
(2022年9月5日)

凛々しい顔

パソコンに向かって仕事をしながらふと手が止まってしまっていた。
コーヒーを飲みながら考えてしまっていた。
音楽を聞いていても途中で思い出していた。
畑仕事をしながらでもつい空を眺めていた。
故郷の親友がガンだと知ってからだった。
考えない日はなかった。
つい思い出してしまうのだった。
メールを書こうとしても途中で挫折した。
電話もなかなかできなかった。
日本人の二人に一人はかかる病気だ。
そういう年頃なのだ。
医療は進んでいる。
理屈をいくつも繰り返してもやはり動揺していた。
情けない小心者の僕がいた。
やっと思い切って電話した。
いつもの声が聞こえてきた。
いつもの声だった。
笑っていた。
少しだけほっとした。
病気との戦いはまだまだこれからだ。
頑張ってくれと僕は頼んだ。
真剣に頼んだ。
卒業アルバムの顔を思い出した。
白黒写真の凛々しい顔だ。
はっきりと思い出した。
きっと頑張ってくれると思った。
(2022年8月30日)