もう10年以上前のことだ。
その頃はいろいろなメディアに取り上げられる機会が多かった。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどいろいろな媒体だった。
僕は依頼があれば基本的には受けていた。
視覚障害を社会に正しく理解してもらうためのメッセージの発信だった。
可愛そうな障害者が頑張っているというフォーマットを感じた番組だけはいくつか丁
重にお断りした記憶がある。
そこには僕自身の姿勢があったのだろう。
メディアの力はやっぱり大きい。
先日お会いした同世代の視覚障害者の男性がもう忘れていたある番組の話をされた。
その番組の中での僕のメッセージがとても力になったとおっしゃった。
素直にうれしかった。
同じ番組へのこのような感想をこれまでいくつか頂いたことがある。
いい番組を制作してくださったのだなと改めて当時の関係者に感謝を感じた。
昨日はメーデーだった。
僕自身は見えている頃は福祉施設で働いていたし、見えなくなってからはずっと自由
業だった。
だから一般企業で働いた経験はない。
メーデーそのものとは無縁だった。
その頃、渋谷のNHKの放送センターに幾度か行った。
その日の番組がラジオだったかテレビだったかさえも忘れてしまっている。
ただ5月1日だったことだけを鮮明に憶えている。
代々木公園に凄い数の人が集い、拡声器の声がいろいろと聞こえていた。
原宿の駅からだっただろうか、その中を歩いたのだ。
ただ近くを歩いていただけの僕にもそのエネルギーが伝わってきた。
毎年メーデーのニュースに触れる度にその記憶が蘇る。
画像はなかったはずなのに、まるで見ていたかのような光景が蘇る。
天気も良かった。
薫風の中でのメーデーだった。
新緑の木々の中に笑顔の人達が集っていた。
番組は憶えていないのにその光景が蘇るのは不思議だ。
こういうことをいい思い出と表現するのだろう。
風薫る5月が始まった。
新緑を感じながらまた今年も生きていきたい。
(2023年5月2日)
メーデー
折れた白杖
今年度前期の木曜日の朝は早い。
京都福祉専門学校での講義が1時限目になったからだ。
一番のラッシュアワーでの移動となった。
ルート的には京都駅で湖西線から近鉄に乗り換えることになる。
でも僕は山科駅で地下鉄に乗り換えている。
このルートは遠回りになるのだが朝の混雑が京都駅より山科駅がましだからだ。
京都駅はJRだけでも湖西線、琵琶湖線、京都線、奈良線、山陰線、それに新幹線もあ
るし、そこに地下鉄と近鉄がある。
山科駅はJRは湖西線と琵琶湖線だけだし、そこに地下鉄と京阪ということで利用客数
は京都駅よりははるかに少ない。
それでもラッシュ時間の人込みは半端じゃない。
狭い通路を人波が動く。
いつもは点字ブロックの横を歩く僕もその時はわざと点字ブロックの上を歩く。
凸凹で歩きにくいのだが少しでもリスクを低くするためだ。
白杖はいつもは真っすぐに伸ばして数歩先を確認する持ち方なのだがこの時だけは自
分の身体に引き寄せてすぐ前だけが確認できる方法にする。
他の人の足ができるだけ白杖に引っかからないようにするためだ。
そして音がするように白杖で路面を少し強めに叩いて歩く。
その状態で周囲の人の気配、人波の動きなどを察知しながら進むのだ。
目隠し状態でそこを歩いていくのだから自分でも凄いなと思っている。
白杖の達人だとどこかで自負している。
電車を降りて点字ブロック沿いにゆっくりと歩く。
ホームが一番危険なのは分かっているからだ。
僕の地元の乗車位置は電車の前方寄りだが山科駅の出口は電車の後方寄りだ。
つまりホームの端から端まで歩くことになる。
階段を知らす小鳥の鳴き声の放送を手掛かりに進む。
階段にたどり着いて少しほっとする。
もうホームから転落する心配はない。
身体の前で白杖で防御の姿勢をとりながらゆっくりと階段を降りる。
これはそんなに危険なものではない。
前から昇ってくる人は白杖が目に入るからぶつからないように動いてくださる。
階段を降り終えたらそこから改札口へ向かう通路を歩く。
この駅は古いので通路はとても狭い。
ラッシュの時間帯ではほぼ満員状態で人が動く。
そして途中に坂もある。
十数メートル直進した後、点字ブロックは直角に右に曲がる。
有人改札口へつながるようになっているのだ。
ここが最後で最大の難所だ。
直角に曲がるということは人波を横切るということになるからだ。
僕は自分の身体を盾にして白杖を守る感じで進む。
わずか2メートルくらい数歩の移動を半分は祈りながら歩くのだ。
今朝、久しぶりに失敗した。
走りこんできた中学生くらいの男の子の足が見事に当たった。
瞬間白杖は折れた。
何年ぶりかに折れた。
「大丈夫ですか?」
少年の声が引きつっているのが分かった。
「大丈夫だよ。これから気をつけてね。もう行っていいよ。」
相手が大人だったら修理費用の半分をお願いしたりするのだがその気にはなれなかっ
た。
折れた白杖をリュックサックに片づけて予備の白杖を組み立てた。
万が一の時のためにリュックサックに入れてある予備の白杖だ。
予備だから軽いものにしてあるので細くて使いやすいものではない。
そこからいつもの半分のスピードで動いた。
どちらもケガがなくて良かった。
でも悔しかった。
本当に悔しかった。
達人という言葉が心の中で少し曇った。
午前中の専門学校、午後の大学、いつものように仕事を終えて帰宅した。
そして気づいた。
ありがとうカードが1枚も減らない日だったのだ。
運の悪い日だったのかもしれない。
連休が終わったらまたいつものように出かける日が始まる。
夏休み前まではスケジュールはほとんどいっぱいだ。
白杖の達人、まだまだ修行は続く。
頑張ろうと思った。
(2023年4月29日)
ナイスタイミング
早朝、7枚のありがとうカードを胸ポケットに入れて家を出た。
一日の仕事を終えて地元の駅に帰り着いたのは19時を過ぎていた。
階段に向かおうとして方向を見失った。
そのタイミングで女性の声がした。
「階段はこっちですよ。」
僕はその声に促されながら会談を降り始めた。
ナイスタイミングというやつだ。
途中で彼女にありがとうカードを渡そうとした。
指先が乾燥していてうまくカードを掴めなかった。
2枚重なっていたようで1枚バックしてもらった。
すべての人にお渡しすることは場面によって難しいことがある。
ということは今日は少なくても6名以上の方のサポートを受けたということになる。
6名の方にありがとうカードを渡すことができたのだ。
その6つの場面を全部記憶しているわけではない。
ただ、今日はどれもがナイスタイミングのサポートという印象だった。
だから予定よりもすべて少し早く動けた。
そんなことを思いながら改札を出ようとした時だった。
「サポートする?」
一瞬でいつかのアメリカ人の留学生だと分かった。
4回目の出会いだった。
ありがとうと言いながら彼の肘を持った。
改札を出て階段を降りた瞬間、出発間際のバスが見えたようだった。
「バス、急ぐ。」
僕達は二人で走った。
いや、正確に言えば、僕は彼に引きずられながら走った。
バスに乗車して優先座席に座ったタイミングでバスのドアが閉まった。
きっと僕達に気づいた運転手さんが待っていてくださったのだろう。
2メートル近いアメリカ人に白杖のちっちゃいおじさんがぶらさがりながら走ってき
たのだ。
想像しただけで楽しい絵だった。
僕が降りるバス停に到着するまでの5分間程度、僕達は車中でいろいろ話した。
どれくらい見えているかとの質問に光も感じないと答えたら驚いていた。
「君のサポートがなかったら、僕はこのバスに間に合っていないね。ナイスタイミン
グ!」
彼もうれしそうだった。
7月には帰国するらしい。
日本の印象を尋ねたら漢字が難しかったと笑った。
「合えないと思うと淋しくなるね。」
僕は伝えた。
「ありがとう。」
上手な日本語だった。
それまでにもう一回でも会えたらいいな。
またタイミングの神様が微笑んでくださるようにと思った。
それにしても6枚のありがとうカードを渡せた日となった。
幸せいっぱいの日となった。
(2023年4月25日)
スペイン料理
「松永さんですか?」
京都市内のバス停で声をかけられた。
「以前、松永さんの企画されたスペイン料理の会に行ったことがあります。」
それを聞いた瞬間、途方もない懐かしさと恥ずかしさが僕を包んだ。
目が見えていた頃、児童福祉施設で働いていた。
文字を読めなくなり外を歩くのに恐怖を感じるようになった39歳の時に退職した。
それから一年間はただ息をしているだけの抜け殻状態だった。
次の年の春、ライトハウスでの中途失明者生活訓練を受けることにした。
白杖を使っての歩行訓練、点字、音声ソフトを使ってのパソコン、頑張った。
一年間の訓練を終えて再度の社会復帰を目指したのが41歳の春だった。
でも現実は厳しかった。
ハローワークや障碍者の職業相談に出向いたが働ける場所はなかった。
無職と言わなければならない自分自身が悲しかった。
仕方なくいろいろなことを始めた。
「夢企画」という名刺も作った。
視覚障害者に便利な音声時計などの販売をやった。
世間に出始めた携帯電話の中から、視覚障害者にも使いやすいような機種を選んで紹
介するようなこともした。
取り扱い説明をカセットテープに声で入れてお客様にお渡しした。
視覚障害者の知り合いが増えていった。
その交わりから外食を楽しみたいという声を聞いた。
僕はいくつかの店と交渉して食事会を企画した。
見えなくても食べやすいメニューを選び、案内を点字でも作った。
その中にスペイン料理のお店もあった。
参加してくださった視覚障害者の人からは喜びの声をいくつか頂いた。
でも費用的には赤字だった。
音声時計を視覚障害者の方の家まで配達したことも幾度もあった。
収益は一回300円程度だった。
大変さを気遣ったお客様がお土産にアンパンをくださったこともあった。
携帯電話はどんどん新機種が発売されて追いつけなくなっていった。
数年頑張ったが、結局利益が一か月に5万円になることはなかった。
中学校での点字教室を依頼されたことをきっかけに販売の仕事はやめた。
商売の才能はまったくなかったことを実感した。
点字教室は1時間の授業で5千円も頂けた。
きっと一般社会では珍しいことではなかったかもしれないが、当時の僕には驚くべき
金額だった。
それから点字教室だけでなくいろいろな授業や講演の依頼などが少しずつ増えていっ
た。
年収100万円を目指したが達成には7年かかった。
50歳を過ぎていた。
次の目標として密かに年収300万円としたがそこにたどり着けることはなかった。
ただ、頑張ってこれたことには満足している。
僕なりに働いてこれたと思っている。
言い訳かもしれないが、お金よりも大切だと思える仕事にも力を注ぐことができた。
振り返れば、いつの間にかそちらが主になっていた。
夢を抱きながら歩き続けることができたような気がする。
そしてここまでやってこれたのは出会った人達のお陰だ。
数えきれない人達が僕の背中をそっと押してくださった。
押されながら歩く方向を見つけ、歩く速さも増していったのかもしれない。
いつの頃からか年収は考えなくなった。
それよりも僕にできる仕事をひとつひとつ大切にしたいと思えるようになった。
スペイン料理の思い出を話してくださった時に懐かしさと恥ずかしさがあった。
でもその恥ずかしさには少しの喜びも混在しているのを感じた。
不思議な感覚だった。
「当時、参加してくださって本当にありがとうございました。」
僕は改めて20年ぶりの御礼を心を込めて伝えた。
今度は自分自身でゆっくりとスペイン料理を食べに行ってみたいと思った。
(2023年4月21日)
小鳥のさえずり
7時前に家を出た。
同行援護研修の実技の日だった。
僕が力を入れている活動のひとつだ。
同行援護というのは視覚障害者の外出を保障する制度だ。
そしてそれを担う人達をガイドヘルパーと呼ぶ。
ガイドヘルパー養成の講座に当事者の思いを届けるのが僕の役目だ。
研修は座学と実技の両方があるのだが今日は実技の日だった。
9時から17時、受講生にとっても講師にとってもハードな一日だ。
地下鉄に乗り換えるために山科駅で電車を降りた。
日曜日の7時半、駅は平日と違って閑散としていた。
僕は階段の方向を確認するために耳を澄ませた。
階段では小鳥のさえずりの放送が流れている。
僕達に階段の場所を知らせるためのものだ。
ところが今朝はそれが電車を降りた正面から聞こえた。
あれっと思った瞬間にそれが本物の小鳥のさえずりだと分かった。
元気にそして一生懸命に鳴いていた。
階段にある小鳥のさえずりを探そうとする僕には本当はそれは邪魔なものだった。
でも笑顔になってしまった。
僕に向かって頑張れと言ってくれているようにも思えた。
僕はしばらく立ち止って朝の小鳥のさえずりを楽しんだ。
「ありがとう。頑張るよ。」
僕は心の中でつぶやいて歩き出した。
(2023年4月17日)
時
鹿児島県にある銀行の新採行員研修にお招き頂いた。
これから社会で活躍する若者達に直接メッセージを届けることができた。
時代が混沌としてきているのは間違いない。
いろいろな意味で未来が輝くように祈りを込めて話をした。
対面の研修なので4年ぶりだった。
会場を出る僕の心は満足していた。
コロナ禍の3年を超えて、再び機会をくださった関係者に心から感謝した。
終了後は鹿児島中央駅から正午前の新幹線に乗車した。
16時には新大阪に到着する。
4時間、車中でボォッとして過ごした。
まさに少年時代の回り道や寄り道のような記憶の旅路だった。
魂の道草の豊かさを満喫できた。
その中でふと思い出した。
18歳で故郷を離れる時、寝台列車だった。
新大阪で乗り換えて東京に向かったのだったと思う。
当時、新幹線は新大阪からだった。
新大阪までどれくらいの時間がかかっていたのだろう。
半日近くかかっていたのかもしれない。
ただ、その時間がとても豊かだったのは薄っすらと憶えている。
車窓から見えた山や海、そして街の景色、流れていった。
人生というレールのきしむ音を聞きながら今日まできたんだ。
ずっと生きてきた、いやこれたんだなと思ったら、それだけでうれしいと思った。
幸せだと思った。
目が見えないということが幸せに関係ないことを改めて確認した。
また明日から学校の新年度の仕事も始まる。
感謝して過ごしていきたい。
(2023年4月12日)
スケジュール
今年が始まった頃、4月以降の予定はほとんどなかった。
毎年そうなのだが、いつも少し不安を感じる。
このままだったらどうなるのだろうと思ってしまうのだ。
3月になったら急に問い合わせなどが増え始めた。
結局、新年度のスケジュールの半分くらいは埋まった。
例年の学校だけでなく新しい学校も増えた。
東京の高校や京都の専門学校などは年明けの予定を入れてこられた。
学校以外の団体などからの問い合わせも入り始めた。
また今年度も例年通りに活動できるということだ。
同世代の友人は定年後の再雇用も終了したと話してくれた。
そういう話を聞くと僕は恵まれていると思う。
見えなくなった僕は定職にありつけなくて仕方なくこういう人生になった。
まさに自由業だ。
結果的にそれが僕に合っていたのだろう。
活動するということはそこにミッションがあるのだと思う。
そしてそれは未来につながっていくような気がする。
僕にできること、感謝しながらしっかりと取り組んでいきたい。
僕の歩幅で僕のスピードで歩いていきたい。
(2023年4月8日)
期日前投票
4月9日は滋賀県議会議員一般選挙の日だ。
僕は丁度その日は鹿児島への移動の予定となっている。
そこで期日前投票をすることにした。
京都に住んでいた頃もよくこの制度を利用した。
期日前投票の場所としてはよく役場などが使用される。
見えない僕にとっては当日の投票所となっている小学校などよりはるかに行きやすい
場所だったのだ。
滋賀県に引っ越してきての初めての選挙、期日前投票の場所は近くのスーパーマーケ
ットの多目的スペースだった。
これまた行きやすい場所だった。
会場の前までは家族、友人、ガイドヘルパーさん、誰とでも行けるが会場内は認めら
れない。
代筆も認められない。
選挙管理委員回の係の方のサポートを受けながら自分で投票するということになる。
会場の受付で投票所入場整理券を渡して点字投票をしたい旨申し出る。
係の方の肘を持たせてもらって記載台まで行く。
点字器と点字投票用紙を受け取って記載する。
立候補者の一覧は見えないのであらかじめ記憶してきている。
記載後は書いた点字に誤字脱字がないかを自分で確認する。
点字器を係の方にお返しして投票箱まで連れて行ってもらう。
投票箱の口を手で触って確認してから投票する。
出口まで連れて行ってもらって終了。
「ありがとうございました。」
「お疲れ様でした。」
挨拶を交わして歩き始める。
投票の後はいつも清々しい気持ちになる。
平等に一票を投じられることを心からうれしく思う。
お金持ちであってもなくても、偉い人であってもそうでなくても、イケメンでもジャ
ガイモでも、見えていてもいなくても、同じ一票だということはやはり素晴らしいこ
となのだと思う。
同じ社会で生きている同じ人間ということを実感できる機会なのかもしれない。
僕も社会に参加しているのだ。
(2023年4月4日)
桜餅
無理だと頭では分かっている。
飛び出してきそうになる我儘な気持ちを押さえることもできる。
それでもやっぱり見たいと思う気持ちが僕を苦しめる。
僕をあざ笑う。
いい加減にしなさいと僕が僕に言う。
そしてその情けない自分自身をどこかで愛おしく感じていることに気づく。
弱虫は子供の頃とちっとも変わらない。
刹那的な生き方もずっと変わらなかった。
代わったのは一人で飲み込めるようになったということなのだろう。
納得するために触る。
指先の神経に集中する。
そっとそっと幾度も触る。
暴れそうになっていた心が少しずつ平穏を取り戻していく。
薄いピンク色が静かに脳に生まれる。
少しずつ少しずつ脳を包んでいく。
やがてピンク色が充満する。
そのピンク色がブルー色の空を背景にやさしく微笑む。
僕も微笑み返す。
帰りに桜餅を買って帰ろうとふと思う。
(2023年3月30日)
映画
久しぶりに映画を見に出かけた。
映画館の中の移動は大変だからガイドヘルパーさんにお願いした。
ガイドヘルパーさんは資格をとったばかりの高校2年生の女の子だった。
まだまだ上手とは言えない技術だったが一生懸命にガイドしてくれた。
見えない僕が見るという言葉を使うのは違和感があるかもしれない。
でも映画は見るものだ。
いや、正確には観るものかな。
僕のスマホにはハロームービーというアプリを入れてある。
そこには音声ガイド付きの映画が紹介されていてデータをインストールできるように
なっている。
その中から見たい映画を選ぶのだ。
今回は新海誠監督作品の「すずめの戸締まり」を選んだ。
映画が始まるとスマホのイヤホンから僕にだけ音声ガイドが流れてくるのだ。
僕の想像する画像と実際の画像は違うかもしれない。
いや違うだろう。
見えないということはその確認も永遠にできないということだ。
でもそれは実際にはどうでもいいことだ。
見える人達と同じ空間で同じように映画を楽しめればいいのだと思う。
以前、新海誠監督作品の「天気の子」を見た時にとても難解だった。
話題になった「鬼滅の刃」もそうだった。
アニメの場面展開は早過ぎて、僕の脳がそのスピードについていけないのかもしれな
いと思った。
今回はストーリーなどを事前学習してから映画館に出かけた。
作戦は成功だった。
それなりに味わうことができた。
見えなくなって25年が過ぎたのだから僕の記憶はもう昔と言っていいだろう。
きっとスクリーンには僕の知らない美しい映像があるのだろう。
ちょっとドキドキ、ワクワクする。
それから映画館の音響はいい。
今回の映画の中で大学生がナツメロを聞きながら車を運転するシーンがあった。
ユーミン、松田聖子、井上陽水が流れたのには驚いた。
エンディングはまさに今風の楽曲だったがそれもじんわりと良かった。
雨のように天井から降ってくる音が心に染み込んでいくのだろう。
いろいろなことを含めてやっぱり映画はいい。
趣味はと尋ねられると映画鑑賞ですと答えることが多い。
映画が好きってことだろう。
次は何を見にいくか楽しみだ。
(2023年3月27日)