体力

早朝に家を出て夜に帰宅という日が続いた。
高校、専門学校、大学、ガイドヘルパー養成研修、どれも大切な仕事だった。
僕の仕事で一番大切なものは当事者としての思いだ。
そしてそれこそが僕にできる活動なのだと感じている。
手を抜くことはできないし、そんな力もない。
頂いたチャンス、精一杯頑張ろうと思っている。
だからいつも必死だ。
そして昨日は東京での同行援護の会議だった。
帰りにサポートしてくださった東京駅のスタッフの人は僕の歩行能力の高さを称賛さ
れた。
でも本当はほとんど抜け殻のようになっている自分を感じていた。
座席に腰掛けるとすぐにリクライニングにしてテーブルをセットした。
それからアイフォンで好きな音楽を聞きながら過ごした。
いつもはあまり好まない缶コーヒーを美味しいと感じた。
ただただ時間に身をゆだねた。
そしてふと思った。
僕は結構体力があるのかもしれない。
どこかが痛くなるとか寝込んでしまうとかはほとんどない。
疲れたと思うことはあるが一晩眠れば一応復活する。
たまに栄養ドリンクを飲めば効いた気になる。
この体力は神様が僕にくださったプレゼントなのかもしれない。
そんなことを思ったらなんとなく幸せだと思った。
その単純さもまた僕の財産なのかもしれない。
(2023年6月13日)

雨の中のひまわり

何となく気になった。
傘をさして長靴を履いて庭に出た。
7本のひまわりには先日竹の支柱を立てたばかりだった。
そして倒れないように麻ヒモでくくった。
ひょろひょろとやせっぽっちの背高のっぽにたいに感じたからだった。
強い雨風、倒れていないかと気になった。
頭の中の地図に従って郵便受けを探した。
金属製なので触って分かりやすい。
それを確認してそっと腰を降ろした。
左手で傘を高めに持って右手で空中をそっと探った。
竹の支柱が手に触れた。
支柱の上から下にそっと手を動かした。
雨に濡れたひまわりの葉があった。
活き活きとうれしそうに立っていた。
また少し伸びたように感じた。
「雨が空から降れば思い出は地面にしみこむ
雨がシトシト降れば思い出もシトシトにじむ」
好きな歌のフレーズが口からこぼれ始めた。
雨の音で近所には聞こえないと思った。
僕は少し大きな声を出して歌った。
途中で歌詞がわからなくなって同じ部分だけを幾度も歌った。
傷のついたレコードみたいだった。
それさえもうれしくなった。
歌いながらひまわりの葉や茎を幾度も触った。
僕にとってはそれが見るということだ。
竹の支柱を目印に7本のひまわりを全部触った。
7本のひまわりを全部見た。
見な元気で安心した。
雨風が去った後には夏も近づいているのだろう。
キラキラの夏が待ち遠しい。
(2023年6月6日)

修行

木曜日、いつものように早朝の出発だった。
通勤通学の人達を乗せたバスが駅に着いた。
皆さんが急いでおられるのは分かっているので僕はだいたい最後に降りる。
白杖が他の乗客の足に絡んだりしないためだ。
バスを降りて数歩進んだところで柱にぶつかった。
いつもの場所との勝手な思い込みが白杖の使用方法を狂わせたのだろう。
鉄の柱だったから痛かった。
僕は振り返って運転手さんにお願いした。
「点字ブロックのある停車位置にバスを止めてください。」
勿論丁寧に伝えたつもりだったが、痛さから出た行動には間違いなかった。
運転手さんの説明では、停車位置には一般車両が止まっていてどうしようもなかった
らしい。
それを知った僕はちょっと恥ずかしい気持ちで駅の改札に向かった。
そして、予定通りに午前の専門学校を終えて午後の大学に向かった。
大学に向かうバスにギリギリで乗り遅れたので30分待つことになった。
今日はついていないなと思いながら待合の席を探した。
人にぶつかった。
すみませんと謝る僕に何を探しているかと尋ねてくださったので椅子を伝えた。
以前その近くで座った記憶があったのだ。
僕が思った方向とは少し離れた方向に椅子はあった。
座らせてもらってほっとした。
隣に座っておられたおじいさんが突然僕の手をとって動かされた。
「こっちが東、あっちが南。」
それから何番のバスに乗るかと確認してくださった。
おじいさんのバスは僕より早くくるバスだと分かったので、それまで話をした。
耳がだいぶ遠く、おじいさんは僕の声を聞く時には耳を僕の口の方へ向けておられる
のが分かった。
身体を支える杖も持っておられた。
まさに高齢の男性だった。
「少しは見えるのか?」
突然尋ねられた。
「僕は光もわかりません。見えなくなって25年経つので慣れています。」
25という数字を伝えるのに3回かかった。
しばらくして、おじいさんはまた僕の手を握られた。
「気をつけてな。頭が下がるよ。」
僕は感謝を伝えた。
そして今朝のことを思い出した。
まだまだ修行が足りないと思った。
こんなおじいさんになれるように頑張ろうと思った。
(2023年6月2日)

引っ越しして一年

引っ越してきて1年余りの時間が流れた。
振り返れば、見たことのない街での暮らしを始めたということだった。
新しい環境に慣れることに僕も必死だった。
最初の頃は道を歩いても一人の空間だった。
バスに乗っても電車に乗っても一人の空間だった。
真横に人の気配があっても間違いなく一人の空間だった。
社会が冷たいのか、そうではない。
会話をするようになった地域の方が先日おっしゃった。
「白杖で一人で歩く人を初めて見たよ。危なくないかと幾度も見ていた。」
最初からきっといろいろな人が見ていてくださったのだ。
ただ、見てくださっているということが見えない僕には分からなかった。
時間の流れの中で、僕の姿が少しずつ街に溶け込んでいったのだろう。
僕の姿が地域に慣れ、地域が僕の姿に慣れてきたのだろう。
今朝、いつものようにバス停に向かって白杖を左右に振りながら歩いていた。
過度の家辺りで玄関を掃除しているらしい音が聞こえてきた。
ホウキで掃いている音だ。
朝に似合うなと思いながら通り過ぎようとした瞬間だった。
「おはようございます。もうちょっと進んだら段差がありますよ。」
僕は笑顔で挨拶を返しながら足を進めた。
バス停に着いてバスを待っていた。
やがて到着したバスの入り口から運転手さんのマイクの声が聞こえた。
「おはようございます。乗ったら左側の席が全部空いています。」
僕はまた笑顔で乗り込んだ。
左側のシートに腰を降ろした。
リュックサックを膝に乗せて1年という時間の流れを噛みしめた。
リュックサックと一緒に社会への感謝の思いを抱きしめた。
今日も頑張ろうと素直に思った。
(2023年5月28日)

電気自動車

歯科衛生士養成の専門学校で講義の時間を頂いた。
昨年に引き続いてのことだった。
僕はいつも社会のすべての人達に視覚障害を理解して欲しいと思っている。
そのために正しく知る機会が大切だと思っている。
その中でも特に接する可能性のある人達への思いは強い。
そういう意味でも今回のような機会は本当に有難い。
何故なら僕達も歯医者さんに行くからだ。
見える人達と同じように安心して気持ちよく医療を受けたい。
だから医療スタッフになる人達に話を聞いてもらえるのは願ってもないことなのだ。
そしてこういう場合の担当の先生方のモチベーションは学生達の学ぶ姿勢にも少なか
らず影響する。
今回は最高だった。
僕を紹介してくださった先生は予定通りだったが、学校の担当の先生も僕の思いを受
け止めてくださったのがしっかりと伝わってきた。
僕はうれしい気分で講義をスタートした。
いつものことだが、僕は目の前の灰色の世界に向かって話をする。
学生達の姿も表情も何も分からない。
ただ思いをこめて話をする。
受け止めてくれる学生達がいるはずだ。
そしてその学生達が数年先に現場で働く。
そこで医療を受ける視覚障害者はきっと安心する。
笑顔になる。
そう思うから僕自身の心にもスイッチが入る。
ついつい一生懸命になってしまう。
帰りはお招きくださった先生が電気自動車で自宅まで送ってくださった。
電気自動車は初めての体験だった。
静かな社内でいろいろな話をした。
今日の学生達がいつも以上に真剣に講義を聞いていたと教えてくださった。
同世代の先生とそれを喜びながら、そして未来の話をしながら過ごした。
電気自動車の空間がとても心地よかった。
先生は自宅まで送るとはおっしゃっていなかったので僕は到着するまでそれに気づか
なかった。
ちょっとご足労をかけてしまったと反省したが先生のご好意がうれしかった。
次回、もう一度伺うことになっている。
次回はサポート技術の実習だ。
豊かな時間を過ごしたいと思う。
(2023年5月23日)

リュックサックのヒモ

いつものようにリュックサックを背負って出かけた。
土曜日だったけど仕事でハードな日だった。
新大阪にある視能訓練士養成の専門学校で1、2時限目、そして京都に移動して大学
で4時限目というスケジュールだった。
7時前には家を出て、帰りは19時の予定だった。
前日までの雨もあがっていたし、爽やかな風も吹いていた。
なんとか無事に仕事を終えた。
帰路の電車は学生が京都駅まで送ってくれたので座ることもできた。
充実した一日となったが疲労感もあった。
携帯電話の歩数計は9千歩を超えていた。
睡魔と戦おうとした時だった。
ボックス席の僕の前の席にご夫婦が座られた。
僕よりは少し上の世代のようだった。
息子の話などをしておられるのが時々聞こえてきた。
と言っても、奥様の話にご主人が相槌を打つという感じだった。
何とはなしにその会話を聞きながら時間を過ごした。
やがて僕の降りる駅を案内する放送が流れた。
僕は右手で白杖を持って膝に置いていたリュックサックを背負おうとした。
その時、その静かだったご主人の手が自然に伸びてきた。
リュックサックのヒモを肩にかけるサポートをしてくださった。
そして、そのヒモの先が外れかかっているのを発見されたようだった。
実は僕は今日幾度か背中の違和感を感じていた。
リュックサックのチャックが空いているのではと確認もした。
でもチャックは閉まっていたので気のせいかと思っていた。
違和感の原因はこれだったのかと思った。
「直しましょうか?」
と言いながらご主人の手が動き始めた。
電車が減速を始めた。
「もうすぐ駅に着くから降りはるよ。」
奥様が心配そうにご主人に話された。
「大丈夫だよ。ほら、これで安心。」
電車がホームに滑り込むと同時にご主人の手が離れた。
まさに計ったような手際良さだった。
「ありがとうございました。」
僕はお二人に笑顔で挨拶をして電車を降りた。
慌てていたのでありがとうカードを渡すこともできなかった。
ホームに降りて、動き始めた電車に僕はまたそっと会釈をした。
社会はだいぶ変化してきた。
街中に防犯カメラが設置されてきた。
他人は怖い存在だとメディアが警告する。
そして人々はお守りのようにスマホを握りしめる。
景色を見ることなくその画面に視線を落とす。
今日のご夫婦の口からは景色の話が流れていた。
山科駅の近くのマンションの高さまで話しておられた。
勿論、スマホを見ておられる雰囲気はなかった。
そしてその中で、ご主人は僕の様子も見ておられたのだろう。
白杖とリュックサックを抱えて座っている僕を気に留めてくださったのだろう。
4人がけのボックスシートの中には人間という生き物のやさしさがあった。
ホームの点字ブロックを歩きながら気づいた。
疲労感が幸福感になっていた。
あのボックスの空気で熟成されたのだ。
僕はリュックサックの背中を再度確認してそれから空を見上げた。
幸せだなって思った。
(2023年5月21日)

母の日

母の日の朝の電話はいつものように短いものだった。
聴力が落ちてきている母への長電話は負担になると思っている。
だから、いつも短いありきたりの言葉を継げる。
「今日も頑張ろうね。」
それに天気の様子を付け加えるくらいだ。
母の日はそれにありがとうをそっと添えた。
「身体さえ元気でいたらいいからね。」
僕の言葉ではない。
96歳の母から僕に返ってきた言葉だ。
66歳の息子はいつまでたっても情けない。
その言葉がありがたくてありがたくて目頭が熱くなる。
元気でいよう。
元気で頑張ろう。
しっかりと生きていこう。
子供の頃のアルバムにあった微笑んでいる母の顔が浮かぶ。
うん、元気で頑張るよ。
(2023年5月16日)

何気ない一日

2週間前の朝、出勤途中に人とぶつかって白杖が折れた。
リュックサックに予備の白杖は持っていたが長距離移動には厳しいものだった。
その日は学校にある白杖を借りて帰宅した。
社会福祉の専門学校なので白杖が備品としてあったのだ。
借りた白杖は僕の日常の折り畳み式よりも10センチほど短かかった。
折り畳み式ではない直杖というタイプのものだった。
丈夫なのだが使い慣れないものなので歩きにくかった。
それを返却しなければいけないので、今朝はいつもより少し早い時間に家を出た。
ルートも乗り換え回数の少ない京都駅経由を選んだ。
ただ、この選択は間違っていたのかもしれない。
朝の京都駅はやはり凄い混雑で通勤客だけではなく旅行客なども混在していた。
小さな集団があちこちにできていてその中を移動しなければいけなかった。
聞こえてくる言葉も多国籍だったし旅行ケースを引っ張る音もたくさんあった。
駅の放送も日本語だけでなくいくつかの言語で流れていて国際都市らしいと思った。
僕は点字ブロックの上をカメのようにゆっくり歩いた。
改札口の前でたどたどしい日本語の外国人がサポートしてくださった。
ただ有人改札という言葉を伝えることに苦労した。
もっとちゃんと英語を勉強しておけば良かったとこんな時に真面目に反省する。
JRから地下鉄、そして竹田での近鉄への乗り換えはスムーズだった。
学校の最寄りの向島駅には職員が車で迎えにきてくださるので問題はない。
学校に到着したらまた別の職員が講師室までサポートしてくださった。
短い時間のやりとりの中で僕のブログの読者だとしってうれしくなった。
しばらくしたら昨年教えた学生が質問があると会いにきてくれた。
これも短い時間のやりとりだったがうれしくなった。
授業の始まる5分前には日直の学生が講師室まで呼びに来てくれた。
彼女は中国籍の留学生で、日本にくる前はウクライナの大学でロシア語を学んでいた
という経歴だった。
戦争が終わって欲しいという会話をしながら二人で教室に向かった。
90分の授業が終わって帰ろうとしたら4人の学生が僕の著書を持って近寄ってきた。
僕はそれぞれの学生と少しの会話をしながら心を込めてサインをした。
学校が終わるとまた向島駅まで送ってもらって、そこから四条駅まで移動した。
縁があって知り合った介護福祉士の人と懇談する約束があったのだ。
カフェでランチをしながら1時間ほど懇談した。
それぞれの立場で社会の役に立ちたいという確認ができた。
四条駅までのんびり歩いて送ってもらった。
午後の大学のために、そこから地下鉄で竹田駅まで移動しなければいけなかった。
階段を降りる途中でご婦人がサポートの声をかけてくださった。
慣れている場所だったが、せっかくの声だったのでサポートを受けることにした。
電車を待っている間も到着した電車に座ってからも、彼女は弟さんの話をされた。
49歳でくも膜下出血で倒れられた弟さんを10年以上看病されていたらしい。
その頃の思い出をたどるように話された。
そして僕にエールを送って京都駅で降りていかれた。
竹田駅に到着して大学行きのバス乗り場まで動いた。
バスが到着する度に、待っていた人が僕にバスの系統番号や行先を教えて乗車してい
かれた。
僕はその度に自分が乗る予定のバスではないことと感謝をお伝えした。
大学ではいつものようにこれもまた職員が送迎をしてくださる。
バス停で待っていてくださった職員と連休の思い出話をしながら大学に向かった。
受講してくれている学生は今日も全員出席だった。
有難いことだと思う。
無事に講義を終えて帰路についた。
大学に直結の京阪電車を利用すれば早く帰れるのだがその込み様は半端じゃない。
今年度当初もトライしてみたがあまりにも大変なのであきらめた。
バスで竹田駅、そこから烏丸御池駅で地下鉄東西線、そして山科からJRという遠回り
のルートを選んでいる。
竹田駅でバスを降りようとしたら知り合いの男性が声をかけてくださった。
彼は僕とほとんど同世代で大学の近くで働いておられる。
帰路のルートも途中まで同じだ。
僕に気がついたら声をかけて一緒に帰ってくださるのだ。
こういう感じの人といろいろな駅でいろいろな時間帯で出会う。
有難いことだと思う。
電車の中では世間話をしながら過ごした。
烏丸御池駅で先に降りる僕は彼の方に顔を向けてしっかりとお礼を伝えた。
「お気をつけて。」
毎回背中で聞こえるその言葉が心地いい。
点字ブロックを歩き始めたらすぐにサポートの声がした。
階段までお願いしたが彼女は迷ってしまわれたようだった。
僕は頭の中の地図でサポートして解決できた。
助け合えばなんとかなる。
山科駅での乗り換えは距離があるが点字ブロックが完備されているので問題はない。
点字ブロックの上で立ち話をしていた外国人の集団に出会った。
「sorry」とお互いに言いながらうまくクリアできた。
それからこの日最後の電車のJRを利用して地元の比叡山坂本駅に着いた。
点字ブロックをゆっくりと改札に向かった。
しばらく歩いた所で男性のサポートの声がした。
僕は肘を持たせてもらって改札に向かった。
彼は目の病気があって昨年も手術をしたと教えてくださった。
改札口の立ち話で彼が僕と同じ病気だと分かった。
年齢を尋ねたら59歳とのことだった。
「その年齢まで見えていて良かったですね。僕は40歳まででした。」
僕の喜びが彼にしっかりと伝わったようだった。
「またお見掛けしたら声をかけますね。」
「ありがとうございます。お願いします。」
僕は笑顔で答えた。
今日乗った電車9本、ただし座れたのは2本、乗車したバス2本、利用した駅7駅、
会話をした人は学生を含めて30人くらい、外出時間約12時間、歩いた歩数8737歩。
元気に生きているということですね。
(2023年5月12日)

テレビ

ゴールデンウィークが終わって平常が戻ってきた。
僕のゴールデンウィークは親戚の接待と畑仕事で終わった。
親戚と一緒に「名探偵コナン」の映画を見に京都市内まで出かけたのが唯一の外出だ
った。
コナンの映画はいつも通りにアイフォンの副音声アプリを使っての鑑賞だった。
副音声はセリフとセリフの間に説明が流れる。
コナンの映画はそのセリフとセリフの間にいろいろな効果音が大音量で流れていた。
結果、副音声が聞き取りにくくて分かりにくかった。
戦争映画などもこんな感じになる。
セリフとセリフの間が無音のタイプの映画が僕には鑑賞しやすいのかもしれない。
映画が好きなせいかよくテレビ番組を紹介される。
最近視覚障害者の刑事が活躍するドラマが始まったらしい。
見える人からも見えない人からもその情報を頂いた。
情報には僕はいつも感謝を伝えている。
でも実際には僕はテレビは観ない。
そもそも僕の部屋にはテレビはない。
高校時代にほとんどテレビを見ない生活をしていて、それが日常となってしまった。
見えないことが理由ではなくてそもそもテレビは見ないのだ。
だからドラマの話題にはついていけないしタレントさんの名前などもまったくと言っ
ていいほど知らない。
コマーシャルで流れる新商品にも縁がない。
それでもこうして生きてこれたからまあいいやと思っている。
ラジオはいつも横にある。
ニュースを聞いたりスポーツの実況中継を楽しんだりしている。
その中で知りたい情報があればインターネットで検索したりしている。
音楽はアップルミュージックを利用していてシリやグーグルアシスタントにお願いし
て聞いている。
若い頃に親しんだ楽曲がほとんどだ。
テレビ、ラジオ、インターネット、映画、自分に合った暮らしということだろう。
その時間配分も無理がなくて気にいっているのかもしれない。
(2023年5月10日)

朝顔

朝顔の種を蒔くことにした。
鉢に土を入れて支柱を立てた。
それから一晩水につけておいた種を指先で優しく掴んだ。
土に小指の先くらいの穴を開けてそこに種を入れた。
そっと土を被せた。
そしてジョウーロでたっぷりの水をかけた。
一仕事終わって庭石に腰を降ろした。
少年時代の記憶が蘇った。
生まれ育った家は古い木造の家だった。
瓦屋根で壁は漆喰だったし縁側や土間もあった。
雨漏りのするような場所もあった。
でも、僕の家だけが貧祖だったわけではないと思う。
近所にはトタン屋根の家も多くあったし、そういう時代だったのだろう。
その自宅の前には竹で作った垣根があった。
父が作ってくれたのだった。
そこに朝顔の種を蒔くのが春先の僕の役目だった。
だから自然にしっかりと観察することになっていった。
双葉の形、そこから本場や弦が伸びる様子、葉の斑の部分、そして花の形、白や赤や
青野花の色、まるで植物図鑑の写真のように浮かんでくる。
夏の朝にその花を数えきれないくらい見ていたはずだ。
昼過ぎにはしぼんでしまう姿も不思議そうに見ていたのだと思う。
秋には薄い茶褐色に枯れた種袋から黒い種を取り出して翌年まで保存していたことも
記憶している。
あの頃、いつか朝顔を見れなくなるなんて僕にも親にも想像のかけらさえなかった。
親が朝顔の管理を僕の仕事としたのは結果的に大きなプレゼントとなった。
偶然のプレゼントだ。
少年時代以来の朝顔、楽しみだ。
(2023年5月7日)