宝石

今日は、町家カフェさわさわの前にある下御霊神社のお祭りだった。
たくさんの露店が軒をならべた。
少女達は、綿菓子やカキ氷などを楽しみ、
宝石のつかみ取りを持ち帰ってきた。
片手ですくいあげた数をもらえるらしい。
6歳の女の子が、ひとつひとつを僕の手のひらに乗せる。
「これ何だと思う?当ててね。」
クスクス笑いながら、僕の指先を見つめ、僕の困った顔を楽しんでいる。
2センチくらいのプラスチックでできたようなものを、
僕は慎重にさわる。
匂いなどはないから、触角だけの勝負だ。
10歳の少女が、そっとヒントを出してくれる。
「果物だよ。」
僕が、「みかん!」
「ブー、色は赤です。」
「サクランボ!」
「ピンポーン!、じゃあ、次はこれ。」
僕はまたゆっくり、指先で確認する。
「これは花だよね。」
「近いけど、花じゃないよ。みどり。、しあわせ。」
少女の、ナイスタイミングの絶妙なヒントが重なる。
「四葉のクローバーかぁ。」
伝わる喜びが、少女と僕の間でほほえむ。
僕は、もう何度も少女と会い、一緒に歩いたりしている。
恥ずかしがりやの少女は、最初の頃はなかなか声も出なかったけれど、
今は、見えない僕にとっては、
声がどんなに大切なコミュニケーションツールなのかを理解してくれている。
手引きもとても上手になった。
そして、時々、素敵な映像を届けてくれる。
この前、買い物に行って僕を手引きしてくれた時も、
「あのね、青い空に飛行機雲が2本も残っているから、明日は雨だよ。」
子供の頃から、こうして一緒に過ごせば、
きっとそれぞれを理解できる。
そして、自然に助け合うことを学ぶ。
大切な教育のヒントがありそうな気さえする。
露店の宝石が、僕には素敵な宝石に思えた。
少女達は、きっと、内面から美しい
おしゃれな女性になるだろうな。
(2013年5月20日)

ウグイス

知り合いの和尚さんから電話があった。
知り合いと言っても、直接話しをしたのは、これで二回目だ。
一回目は、数ヶ月前、駅で声をかけてくださった。
和尚さんは、以前、僕が連載していた新聞のコラムを読んでくださっていて、
掲載されていた写真で、僕を知っておられたとのことだった。
だから、僕の名前を呼んで、声をかけてくださった。
そして、何度か見かけたけど、タイミングが合わなかったとおっしゃった。
声をかけてくださった理由は、
エールをおくっていると伝えたかったと、
ただそれだけとおっしゃった。
僕達は、握手をして別れた。
それ以来、二度目の電話だった。
たいした用事ではないんだけどと、ちょっと照れくさそうに前置きされた後、
和尚さんは、受話器を、お寺の周囲の竹やぶに向けられた。
しばらくの静けさの後、
「ホーホケキョ」
ウグイスの声が流れてきた。
それからまた、静かな時間が流れ、
二度目のウグイスの声が聞こえた。
そしてまた、時間は流れた。
時間と言っても、ほんの数秒だったのかもしれない。
その後、和尚さんは、今年は気候不順で、例年よりちょっと遅いけどと説明され、
ただそれだけとおっしゃってから、電話を切られた。
僕は、朝の始まりの空気の中で、
お勤めの後、受話器を竹やぶに向けておられる僧侶の姿を想像した。
美しいと思った。
誰かに何かを伝えるということ、
その何かがやさしい時、
伝えた側も、伝えられた側も、幸せになる。
そしてそれは、とても美しい。
そうやって、人と人とがつながっていけばいいな。
昨年の8月からスタートしたこのホームページ、
10ヶ月で、述べ5万人の閲覧者数となった。
このささやかなホームページを介して、
たくさんの人間がつながっていることを、
それぞれに祝福しましょう。
今朝のウグイス、あなたの心の耳にも届いたはずですから。
(2013年5月16日)

小鳥達のさえずり

午前5時55分、5階建ての団地の5階のドアに鍵をかけて、
今日の僕の一日がスタートした。
予約していたタクシーに乗り込むために、急ぎ足で階段を降り始めた。
たくさんの小鳥のさえずりが聞こえた。
いつもの朝は、もう少し遅い時間なので、
小鳥達のモーニングコーラスは終わっている。
眠い目をこすりながら、ちょっとだけ得をした気になった。
時々、東京での会議に出席するようになった。
今回は一泊二日、高田馬場の日本盲人会連合での会議だ。
10時から、昼食をはさんで18時までの会議、
明日もまた朝から、結構体力勝負だ。
交通費と宿泊費は保障されているが、
それ以外は自己負担になるし、日当もでない。
厳しい条件だけど、ささやかな使命感みたいなものが僕をささえている。
収入には結びつかなくても、大切な仕事もあるのだ。
それは、うれしい仕事だ。
ほんの少しかもしれないけれど、
仲間の力になれるかもしれない。
ちっぽけな自分という存在が、
誰かのためになれるとしたら、
それは間違いなく、幸せだ。
夜になって、あの朝の小鳥達のさえずりは、
「いってらっしゃい。」だったんだなと、ふと思う。
(2013年5月12日)

まだまだおにいさんです。

今朝は、9時過ぎのバス、ちょっとのんびりの出勤だった。
込んではいないだろうなと思いながら、バスに乗車した。
確かに、込んではいなかったが、ガラガラの雰囲気でもなかった。
僕は、座席に座ることをあきらめて、
手すりを掴んで立っていた。
突然、静かな社内で、ちょっと大き目の声が聞こえた。
「おにいさん、こっちこっち。」
僕は、もうおにいさんではないよなと思いながら、
でも、声の向きからひょっとしてと思って、
自分を指しながら、
「僕ですか?」
「そうそう、おにいさん。」
ちょっと離れた場所から、
僕に空いてる席を教えようとするおばあちゃんの声だった。
「腰が痛いから、そこまで行かれへんねん。私の横が空いてる。」
僕が、その声に向かって動き始めた瞬間、
別の乗客が、
僕の手を持ってサポートしてくださった。
僕は、おばあちゃんの横の席に座った。
僕が、おばあちゃんにも、そのサポートしてくださった方にもまだお礼を伝えな
いうちに「お嬢さん、ありがとうね。」
おばあちゃんが、サポートをしてくれた女性に声をかけた。
「いいえ。」
女性は、ただそれだけの返事だったけど、
確かに、笑顔の返事だった。
大正生まれだというおばあちゃんは、
足腰は痛いし、耳も遠くなったし、
動くのは口だけと笑った。
「でもな、生きてる限りは、世間様の役に立ちたいねん。」
耳が遠いのを理解するにはじゅうぶんの大きな声だった。
しばらくして、
おばあちゃんは、また突然話し出した。
「こうして見たら、おにいさん、いい男やな。」
ヒソヒソ話にはならないボリュームだった。
僕は、さすがに恥ずかしくなって、下を向いた。
僕の様子を見て、おばあちゃんはまた、大きな声で笑った。
楽しそうに笑った。
おばあちゃんの笑い声が、朝の車内に充満した。
のどかな空気が充満した。
(2013年5月9日)

水色のマニュキア

休日の午前8時台なのに、
京都市内に向かう電車は、
さすがにゴールデンウィークで込んでいた。
同行の友人は、「結構込んでますね。」とつぶやきながら、
僕の左手を持って、吊革に誘導した。
僕の手が吊革に届くか届かないかのタイミングで、
「どうぞ。」、
前の場所から、席を譲ってくださる若い女性の声がした。
「ありがとうございます。」
座りながらの僕の声と、友人の声が、
自然に同じ言葉で重なった。
爽やかな5月の風に似た朝を感じた。
胸ポケットから、いつもの「ありがとうカード」を取り出して、
座席を譲ってくださった方に渡してくださいと友人に預けた。
自分で渡せればいいのだが、
見えない僕には、
その方が、立ちながら、どちらに移動され、
どこに立っておられるかは判らない。
だから、よっぽどの確信がないと、
自分では渡せない。
友人が、通路の反対側に移動されていた女性に、
そっと、ありがとうカードを渡してくれた。
そして、その後、小声で報告してくれた。
「水色のマニュキア!」
見えなくなって15年くらい、
その間に随分変化したものもある。
爪のおしゃれもそのひとつだろう。
僕が見えていた頃は、
きっと、夜の蝶でも、その色はなかったかもしれない。
今は、若い女の子達は、いろんな色があって、いろんな絵柄があるらしい。
きっと表現のひとつなのだろう。
確かに今朝の若い女性、5月の空の色を思い出した。
そして、似合うと思った。
でももし、これがピアスみたいに、男性まで広がったら、
やっぱり、想像するのもいやだなぁ。
握手の後で、七色の爪のおじさんだったと聞かされたら、
5月の空が一気にどしゃ降りの雨空になるよなぁ。
(2013年5月4日)

FM COCOLO

うれしそうな声で、知人から電話があった。
朝、FM COCOLOというラジオ放送を聞いていたら、
ヒロ寺平さんというDJの方が、
僕の著書「風になってください2」を紹介してくださり、
しかも、とても熱意のあるエールだったとのことだった。
音楽番組での本の紹介も珍しいし、
ひとつひとつの言葉に、共感が溢れていたとのことだった。
実は、つい一週間程前の放送でも、
ヒロ寺平さんは、僕の本を紹介してくださったらしい。
メディアの影響力は大きく、
その日は、アマゾンの在庫が一日でなくなった。
僕とヒロ寺平さんとは、面識がない。
僕を応援してくださっている放送関係者の方が、
ヒロ寺平さんに本をプレゼントされたということは聞いた。
それを読んでくださってのことだ。
僕の経験からすれば、
本とか音楽ソフトとかプレゼントされても、
なかなか読んだり聞いたりにはエネルギーが要るものだ。
たまたま読んでくださり、そして、共感してくださったのだろう。
本をプレゼントしてくださった方も、
共感してくださってのことだった。
共感がつながってのことだ。
時々、僕の本をプレゼントに使ってくださっている人がいる。
きっと喜んでもらえるからとおっしゃる。
自信はないけれど、光栄なことだし、素直にうれしい。
いろんな人達がいろんな場所で、
風になってくださっているのだろう。
見える人も、見えない人も、見えにくい人も、
皆が笑顔で暮らせる未来に向かって吹く風だ。
未来の仲間達と一緒に、
風になってくださった皆様に感謝します。
もちろん、ヒロ寺平さんにも、うれしそうに電話をくれた知人にも、
心から感謝です。
(2013年5月1日)

ゴールデンウィーク

世間は大型連休だけど、
僕にはあまり関係ない。
障害者団体の会議など、皆が集まりやすいということで、
このタイミングで実施されることも多いのだ。
僕は関わっている団体なども多いので、
結局、何かしら用事があるということになる。
仕方ないのだが、
いろんな仲間達との交流もできて、
それなりに楽しみの部分もある。
でもちょっとは、
海外旅行などに出かける人達、うらやましいかな。
そんなことを思いながら、
いつものように、桂駅から阪急電車に乗車して、
入り口の手すりを掴んで立っていると、
「まーつなーがさーん!」
屈託のない笑顔の、女子中学生二人だった。
以前、福祉授業に行った学校の生徒で、
僕を憶えていてくれたのだ。
さりげなく手引きして、空いている座席に座らせてくれた。
私立中学の運動部で、今日も大会に出かける途中とのことだった。
休日なんてないのだろう。
電車が次の運動公園のある駅に着くと、
「失礼しまーす!」
爽やかに挨拶して降りていった。
仲間に出会ったような、ちょっと変な喜びを感じた。
やっぱり負け惜しみかなぁ。
(2013年4月30日)

夢を見た。
夢の中では、見たことのない人が微笑んでいる。
顔も記憶にないし、表情もわからない。
どうして微笑んでいると感じるのか、
自分でもわからない。
でも間違いなく微笑んでいるのだ。
ふと、もしこうして考えているのが夢だったらと思う。
見えなくなってしまったという長い長い夢の中にいるとしたら、
夢から覚めた時に、
僕は何を感じるのだろう。
新しい医療によって、目が見える日がくるかもしれないという話題になった時、
先天盲の先輩は、絶対いやだと言い切った。
何故と怪訝そうに尋ねる僕に、
今更見えたら怖いからと、先輩は答えた。
そんな答えがあることを知った。
夢の中で、ツツジの花が咲いていた。
それははっきり見えた。
どこで見たツツジなのかは判らない。
でも、うれしかった。
(2013年4月28日)

ツツジ

駅前のカフェで、20歳の女の子は、
重たい話でごめんなさいと言いながら、
就職活動や、これからの生き方への不安を打ち明けた。
僕はただ聞いて、
予定通りの人生なんてありえないとつぶやいた。
振り返れば、失敗だらけだよと付け加えた。
彼女は、僕の言葉を受け止めて、
ほんの少し楽になったと笑った。
カフェを出た帰り道、
ツツジの花が咲き出したと知った。
白やピンクの花が咲き出したと聞いた。
小学校の帰り道、
花びらに唇を近づけて、
甘い蜜を吸った日を思い出した。
ただそれだけで、幸せだった。
あれから半世紀の時間が流れた。
イミテーションの幸せに振り回されながら、
大切なものをいくつも失ってしまったのかもしれない。
そして、見えなくなるという予定外の出来事は、
不思議なことに、そんなことをいくつも僕に気づかせてくれることとなった。
見えなくなったのは、幸せなことではありません。
かと言って、不幸なことでもありません。
でも、もう一度、あの青空の下で白やピンクの咲き乱れるツツジを見たいのも事
実です。だから今度、ツツジの花に出会ったら、
そっと唇を近づけてみます。
(2013年4月25日)

眼差し

昨日は大阪市、今日は綾部市、
仲間の集いに出かけた。
それぞれ別の団体だけど、
視覚障害の人達の団体だ。
どちらの会場でも、
僕の新しい著書「風になってください2」を朗読してくださった。
そして、私も同じ経験があるよとか、
僕も同じ思いをしたよとか、
たくさんの共感の声が寄せられた。
とても光栄なことだと思っている。
僕は、特別に文学の勉強をしたわけでもないし、
いわゆる作家でもない。
でも、こうしてたまたま、
書くというチャンスにめぐまれたのだから、
僕達みんなの思いや願いを発信できればと願っている。
そして、少しでも、未来につながる力になりたいと思っている。
僕と小学生との交わりの話が好きだと言ってくださった女性は、
きっと僕よりは20歳は年上だろう。
硬い握手の後、
冷たい霧雨に濡れながら、
ずっと見送ってくださった。
見えない目で、見えない僕を、
ずっと見送ってくださった。
暖かな眼差しがうれしかった。
見えなくても、見つめることはできます。
眼差しに、愛をこめることもできます。
そして、見えなくても、その眼差しをうけとめることもできます。
(2013年4月21日)