10年ぶりくらいに飛行機に乗った。
見えてる頃は、窓から雲を見たり機内で週刊誌を読んだりして
それなりに、飛行機の旅も楽しんでいた。
ところが、見えなくなってから最初に乗った飛行機は、ただ気圧と振動との戦い
だった。とても怖かった。
それ以来、少々時間がかかっても、列車を選択してきた。
今回は、仕方なくだった。
飛行機でなければ、新潟市でのイベントに間に合わないのだ。
天候不順で、決して快適なフライトではなかった。
僕はただあきらめの境地の世界だった。
一緒に搭乗した友人が、時々、窓から見える景色を届けてくれた。
新潟の上空にさしかかった時、
「さすが新潟ですね。田んぼが見事な碁盤の目のようです。緑が生き生きとして、
米どころです。」
ひきつっていた僕の顔に、やっと笑みがこぼれた。
子供の頃、毎日見ていた、田植えの後の
豊かな緑を思い出した。
映像ってやさしいよね。
でもやっぱり、僕は臆病者です。
今後もできるだけ、列車にします。
(2013年6月21日)
飛行機
半月
京都ライトハウスの中途失明者生活訓練を終了した人達の同窓会に参加した。
「風になってください2」をボランティアの方々が朗読してくださり、
それを聞いて、感想や共感の声が、仲間から届けられた。
僕の日常が、僕だけのものではないこと、
僕のさみしさが、僕だけのものではないこと、
僕の喜びが、僕だけのものではないこと、
また教えてもらったような気になった。
ひょっとしたら、たくさんの仲間との関わりの中で、
僕は、書かせていただいているのかもしれないとさえ思った。
そして、とても光栄なことだと思った。
僕達は目は見えなくても、
それぞれが、それぞれの人生を、自分らしく生きていくことが、
僕達の使命なんだと確認した。
同窓会を終えて、さわさわへ向かった。
結局、帰りはまた夜になった。
桂から、僕は、バスをあきらめて、タクシーに乗車した。
乗り込んだ瞬間、僕は身体も気持ちも座席にころがした。
ちょっと疲れてるなと自覚した。
スケジュールからすれば無理もない。
運転手さんは、とても丁寧な感じで、
車が左右にカーブする時、交差点を渡る時、
わざわざ口頭で予告してくださった。
通り名までも伝えてくださった。
僕は小さな声で、相槌だけうっていた。
ひょっとしたら、僕の表情など、観察しておられたのかもしれない。
タクシーが、団地に向かう急な上り坂を走り始めた時、
運転手さんは、安全などとは無関係なことを元気な声で説明してくださった。
「まっぷたつに割ったような、大きなきれいな半月が窓いっぱいに映っています。」
僕の身体は、勝手に起き上がり、
前方の窓ガラスを見つめた。
「綺麗ですか?」
僕は尋ねた。
「とっても綺麗ですよ。」
運転手さんは、また元気な声で答えてくださった。
タクシーが団地に着いて、
清算を済ませて降りる際、
「月、ありがとうございました。」
僕はお礼を言った。
「頑張ってくださいね。」
運転手さんは笑った。
僕をご存知なのかなと、一瞬思ったが、
そんなことはどうでもいいことだと気づいて、
僕は深く頭を下げた。
明日は、中学校で5時間の授業が待っている。
その後、何かの打ち合わせも入っていたかな。
僕は、僕の使命、しっかりと頑張らなくちゃ。
(2013年6月16日)
お知らせ 2件
HPを覗いてくださって、ありがとうございます。
見える人も、見えない人も、見えにくい人も、
皆が参加しやすい社会に向かって、
未来を見つめての、ささやかな発信です。
そして、それを、受け止めてくださる人達がおられる、
つまり、読んでくださる人達がおられる、
とてもうれしい事実です。
いつも感謝しています。
その中で、時々、メッセージをくださる方がおられます。
HPのお問い合わせホームからメールをくださいます。
僕は、ほとんど返信をしているつもりですが、
届いていない方がおられるということが発覚しました。
返信がなかった方は、不快な思いをされたかもしれません。
これは、僕が返信していないのではなくて、
相手側が受信できていないということらしいです。
きっと、僕からのメールのアドレスが、
その方にとっては未登録のものなので、
受信拒否になってしまうのだろうと想像します。
もし、これまでに、返信がなかった方がおられたら、
お手数をかけますが、
再度メールください。
そして、そこに、連絡先電話番号も併記してくだされば、
対応できると思います。
それから、ついでにもうひとつ、
「さくらさく」を読んで、
フィリピンの子供達の支援に興味を持ってくださった方がおられるようです。
リンクの09番に追懐しておきましたので、
参考にしてください。
HPを始めて10ヶ月、延べ5万人を超える人達が見てくださいました。
僕にとっては、とても暖かなエールです。
これからも、日々感じたことを、そのままに発信していきます。
また、気が向いた時、覗いてください。
(2013年6月11日)
塾帰りの少年
いつもの地元の駅に着いたのは、
21時を過ぎていた。
僕は、慎重に階段を探して、
白杖で確認しながら上り始めた。
「お手伝いしましょうか?」
階段の途中、右側から、少年の声がした。
階段はほぼ上りきる手前くらいだったし、
慣れている駅だから、改札口までの経路も判っていた。
もしかして、声の主が大人だったら、サポートを辞退していたかもしれない。
僕は、勇気を出して声をかけてくれたであろう少年に、
向かい合いたいと、とっさに判断した。
「じゃあ、改札口までお願いします。」
僕は、少年の肘を持った。
少年は、学校名を告げ、去年福祉授業で、
僕の話を聞いたと説明した。
塾の帰りで遅い時間だということや、
駅には、母親が迎えに来てくれることなどを、
改札口までの短時間で説明した。
敬語の使い方や、無駄のない言葉、小学生とは思えない大人びた感じだった。
改札口に着いた時、僕は胸ポケットから、ありがとうカードを取り出して、
少年に渡した。
「ありがとうございます。」
少年は、しっかりと頭を下げながら、
これまた、ちょっと大人びた感じの挨拶をした。
僕が前方に向き直って、歩き始めた瞬間、
いかにも、我慢しきれずにこぼれてしまったような、
ちょっとうめき声にも似たような、小さな声が聞こえた。
「よっしゃぁ、二枚目!」
少年は、よっぽどうれしかったのだろう。
僕は振り返って、
「3枚で、ポケットティッシュと交換だからね。
気をつけて帰るんだよ。」
笑いながら、声をかけた。
「はい。」
はにかんだ少年の、照れくさそうな声が聞こえた。
いつの時代も、子供っていいよなって思った。
(2013年6月12日)
風鈴
風鈴の音を、彼女が教えてくれた。
耳を澄ますと、確かに聞こえた。
ガラス窓の向こう側で、夏の始まりを主張していた。
目が見えなくなると、耳がよくなるのかと尋ねられることがあるが、
そんなことはあり得ない。
高齢になると、老眼になり、耳も遠くなる人なんてたくさんおられる。
しいて言えば、
見えなくなったら、見えてる頃よりも、
しっかり聞こうという感じになっているのだろう。
もちろん、これも無意識のなかでのことだ。
だからきっと、単独で移動している時の方が、
いろいろな音や香りに敏感になっているのかもしれない。
今日は、友人と一緒、つまりは安心した状況なのだから、
耳も鼻も、のんびりとくつろいでいた。
教えてもらわなかったら、
風鈴にも気づかなかったかもしれない。
窓ガラスに映る景色が、まるで一枚の絵のようだと、
彼女がつぶやく。
桜の木の葉の緑色が、夏空に映えて、
しかも強い力の緑色だと、
一枚の絵を、僕に伝える。
彼女とは、そんなに何度も会ったわけでもないし、
交わした言葉も、特別多いわけでもない。
それでも、僕達の間に、穏やかな安らぎの空気が流れる。
昔からの友人みたいな感じだ。
きっと、同じ未来を見つめる視線が、
信頼につながったのだろう。
僕がご馳走するというのを振り切って、
彼女がレジに向かう。
そんなこと、どっちでもいいと、
風鈴がつぶやく。
ごちそうさま。
(2013年6月8日)
一緒に生きる
「ハーイ、こっちですよ、いい笑顔ですよ。パチリ」
カメラマンの声のする方に、
僕達は顔を向けた。
町家カフェさわさわの玄関、
梅雨の中休みの晴天の下、
見えない僕と、見えない彼女の記念写真だ。
僕が町家カフェさわさわへ行けるのは、だいたい週に一回程度、
それもランダムだ。
尋ねて来られたことを、後で聞く場合が多い。
今日の彼女も、電車で2時間以上かかる地域から来てくださった。
まさか会えるとは思っていなかったと、何度も握手された。
喜びがはじけていた。
僕達は、生まれも育ちも性別も世代も、何もかもが違う。
共通しているのは、視覚障害だということだけだ。
僕の著書の朗読テープを聞いて、
同じだねとおっしゃってくださる。
光栄なことだと思う。
一緒に笑顔になれる仲間がいることを、心から幸せだと思う。
最後に、彼女達をサポートされていたガイドさんとも記念撮影した。
「帰ったら、仏壇の主人に報告します。」
小さな声で、控えめな言葉を残された。
彼女のご主人は視覚障害だった。
視覚障害者のガイドヘルパーという仕事をしながら、
いつも、天国のご主人と会話しておられるのだろう。
見えなくなったおかげで、
たくさんの素敵な人生と出会う。
お陰という言い回しは、不謹慎なのかもしれないが、
人間同士の交わりは、僕の人生を何倍も豊かにしてくれているのは間違いない。
そうそう、昨日、高校生が書いてくれた点字の手紙には、
「まだ死ねへんから、いっしょに生きていこうね。」
と記してあった。
たくさんの傷を持った、多感な17歳の少女ならではの表現だ。
一緒に、そう、一緒に、生きていこうね。
(2013年6月6日)
さくらさく
35歳を過ぎて、
どんどん目が悪くなっていった時、
僕はもう何もできなくなってしまうような気になった。
見えないということは、そういうことなのだろうと、
どこかで勝手に想像していた。
39歳で見えていた頃の仕事をやめて、
しばらくは引きこもり状態だった。
もう仕方ないんだと、あきらめ状態の自分になった時、
やっと点字を勉強したり、白杖歩行の訓練を受けようという気持ちになった。
障害を乗り越えてなんて、そんな勇ましいものじゃない。
仕方なく、それだけだ。
実際、訓練を受けた後も、
僕が働く場所は見つからなかった。
講師などの仕事を頂けるようになったのは、それから何年も経ってからだ。
ちなみに、今でも、収入が安定しているとは言い難いが、
その当時とは比較にはならないくらいになった。
ありがたいことだ。
そんな不安定の頃、フィリピンの子供を紹介された。
貧しさで教育を受けられない子供達が、
日本円で、一ヶ月1,000円で学校に行けるとのことだった。
僕はその話に飛びついた。
ほとんど収入のなかった僕にとっては、
一ヶ月1,000円は、ひょっとしたら、
やっぱり惜しいという気持ちも少しはあったかもしれない。
でも、それよりも、
僕もどこかの誰かのためになりたいという気持ちの方が強かった。
ささやかでも、社会に関わりたい自分がいた。
僕は、一人の少女を預かることにした。
少女の写真を、リュックサックに入れて歩いた。
そして、誰もいない場所で、時々写真を触った。
根気のない、だらしない性格の自分自身を奮い立たせるひとつの方法だった。
今年の春、少女は高校を卒業した。
成績優秀な彼女に、
僕は大学進学をすすめた。
そして、4年間に必要な経費、
月々5,000円を保障するという申し出をした。
迷いに迷って、彼女は大学受験を決めた。
小学校の先生を目指すそうだ。
先日、関係者から「さくらさく」の題名のメールが届いた。
彼女の大学合格を知らせるものだった。
僕は、部屋でメールを読んで、
一人で手をたたいた。
その音を自分で聞きながら、
拍手が、彼女にも、自分にも向けられていることに気づいた。
社会に関われることは、幸せなことなのだ。
目が見えなくなるのは受け止められる。
でも、それによって、社会から遠ざかるのは悲しいことなのかもしれない。
これから4年間、よし、僕もまた頑張るぞ!
(2013年6月5日)
家族全員
バスを降りて、駅へ向かおうとする僕に、
「松永さんですよね。」
女性は笑顔で声をかけてくださった。
「松永さんはどこまでですか?」
「阪急で大宮までです。」
たまたま、行き先も同じだった。
僕は彼女の手引きで歩き出した。
彼女には二人の娘さんがおられて、
下の娘さんは、中学校の福祉体験で僕と出会ったらしい。
上の娘さんは、どこかで僕をサポートしてくださって、
ありがとうカードも持っておられるとのことだった。
本も読んでくださっているとのことだった。
「同じ地域で暮らしているのだから、いつかお会いするかなと思っていましたが、
なかなか会えないものですね。」
彼女は笑った。
中学生の時に出会った娘さんは、大学4回生で就職活動中とおっしゃった。
10年くらいになるということだ。
もう長く盲人をやっているんだなと実感した。
そして、たくさんの人達に支えられて生きているんだなと、
しみじみと思った。
駅に着いて、別れ際に、
「いつかご主人にサポートして頂いたら、家族全員ということになりますね。」
僕はお礼の言葉に付け加えた。
そして、いつか、本当に、
そんな日があるといいなと思った。
(2013年6月3日)
紫陽花
出かけようとして階段を降りたところで、
同じ団地の人が声をかけてくださった。
「お出かけですか?」
「はい、ちょっと。」
「雨が降っていますよ。」
「大丈夫、傘持ってます。行ってきまーす。」
僕は歩き始めた。
数歩進んだところで、その方が花を育てておられることを思い出した。
僕は振り返った。
「紫陽花、うれしそうでしょう。」
ほんの少し間が空いて、
「ほんまにうれしそうやわ。」
彼女のうれしそうな返事が返ってきた。
ほんの少しの間、彼女は紫陽花に目を向けたのだろう。
「そろそろ入梅ですかね。」
僕もうれしそうに返事して、また歩き始めた。
(2013年5月28日)
ブロッコリーの山々
「先生、山がブロッコリーみたいです。マヨネーズで食べたら、おいしそうです。」
突然歩みをとめた彼女は、そう言いながら、東山に目を向けた。
専門学校で出会ってからもう何年になるだろう。
時々、僕のガイドをしてくれる。
日常の口数は極端に少なく、
二人とも無言で歩いていることが多い。
最低限、安全な移動に必要なことと、
僕が喜びそうなことだけを伝えてくれる。
知り合ってからの長い時間は、
僕が何を見て喜ぶのかを、
いつのまにか彼女に伝えたのだろう。
僕がうれしそうに感謝を伝えると、
「喜んでいただけてよかったです。」
彼女は、うれしそうに、ただそれだけを言う。
僕はたまたま、自分が見えなくなったことで、
視覚障害を伝えたり教えたりすることが多くなった。
先生と呼ばれることも多くなった。
でも、今日も、教え子の彼女から教えられた。
大切なのは、伝えようとする気持ち、
相手の心に届けようとする姿勢なのだ。
ブロッコリーにマヨネーズをかけて食べたくなった。
(2013年5月25日)