ミンミンミンミン、ジィー、セミの鳴き声、
チリン、チリン、風鈴のささやき、
ブッーン、エアコンの室外機のモータの精一杯の音、
カラン、カラン、ガラスコップの中の氷の歌う声、
ヒューン、打ち上げ花火の発射音、
どれもが、夏色の音だ。
見えない僕も、暑さだけでなく、こんな音で季節を感じている。
今日、近所の川べりを歩いたら、ふと、足が止まった。
川で水遊びをしている子供達の声が聞こえてきたのだ。
大人には出せない甲高い笑い声が、とても夏に似合うのに気づいた。
こちらまでが、笑顔になった。
麦藁帽子にゴム製のスリッパ、
もうきっと、そんな格好ではないだろうけど。
時代が変化しても、子供達の笑い声は同じだな。
うれしいな。
(2013年8月4日)
子供の笑い声
セミさん達のモーニングコール
夜11時の、nhkのラジオのニュースを聞いたら、
部屋の電気を消して布団にはいるようにしている。
実際に電気が消えたかはわからないので、
ヒモを引っ張る回数で理解している。
ヒモを引っ張る回数が、
一回で二個ある蛍光灯の一つ目が消える、
二回で二つ目が消えて、三つ目で豆電球が消える。
時々、回数が判らなくなったりしたら、
電球に手を近づけると、熱でだいたい確認できる。
人間って面白いもので、
目が見えなくて、もう光も確認できないのだから、
実際には部屋の電気は必要ではないのに、
夜になると一応つける。
寝る時は、消すように心がけている。
必要か不必要かではなくて、やっぱり夜には、明かりの中で生活したいと思う。
見える人達と同じでありたいのかもしれない。
若い頃から、よく寝るタイプだったし、
徹夜なんてできない。
よく眠れるというのは、きっといいことなのだろう。
ただ、目が覚めた時が問題だ。
光が判らないということは、
夜なのか朝なのかが判らない。
枕元にある音声で知らせてくれる時計を、
これまた手探りで探して、
時間を確認するという毎日だ。
でも、この夏の季節は、セミさん達の大合唱が朝を教えてくれる。
いい感じで朝を迎える。
布団の中で、夏の朝だなって思うと、ちょっとうれしくもなる。
欲を言えば、セミさん達はちょっと早起き過ぎる傾向がある。
一週間の命だから、
すぐに高齢者になるのだから、
早起きが多いのも仕方ないかと、
早起きが自分のせいではなくて、セミさん達のせいだと、
一人で妙に納得して、
今朝もおはよう!
(2013年7月30日)
いつもの買い物
団地を出てバス停を過ぎて、ポストを越えて、
しばらく歩けば、道が緩やかに下がっている。
そこまで行けば、横断歩道につながる点字ブロックがある。
足裏を点字ブロックの線に合わせて、身体の向きを確認する。
ピヨピヨの音が鳴っていても渡らない。
途中で音が止まると、感の世界となる。
リスクを少なくするためには、鳴り始めに歩き始めることだ。
呼吸を整えて、しっかりと気持ちを前に向ける。
横断歩道を渡るくらいで、大げさなと思われるかもしれないが、
見えないで渡るなんて、そんな感じなのだ。
ピヨピヨが鳴り始めると、白杖をしっかりと左右に振りながら、
進入してくるエンジン音に気を配りながら、
同じスピードで進む。
急に急いだり、ゆっくりなったりしないのも大切だ。
そして、無事反対側に着いたらほっとする。
そのまま直進して、溝にかぶせてあるグレーチングを探す。
金属なので、触覚でも音でも判別しやすい。
グレーチングに沿ってしばらく歩くと、
風が抜ける場所がある。
建物が切れる場所だ。
そこで方向転換して少し歩けば、
お店につながる点字ブロックがある。
あとは点字ブロックの上を歩くと、
勝手に店内に到着する。
こうして歩いていると、本当に点字ブロックのお世話になっていることに気づく。
週に一度くらいは買い物に行く馴染みのコープ、
見えなくなってもう何百回も通っているのだけれど、
やっぱり毎回、行くだけで一仕事だ。
店内に入って、サービスカウンターに着けば、
「今日は何のお買い物ですか?」
店員さんが笑顔で手伝ってくださる。
買い物が終わると、商品を僕のリュックに入れてくださる。
「ありがとうございます。外は暑いから気をつけて帰ってくださいね。」
店員さんの声を聞きながら、
人間が支えてくださる社会に、
心から感謝する。
(2013年7月23日)
山鉾巡行
今日は休日だったのだけれど、
さわさわで胡麻をつく作業をするとのことだったので、
ちょっと覗いてみることにした。
友人と桂で待ち合わせて電車に乗った。
四条河原町で下車したら、
ホームには、祇園祭のコンチキチんの鐘の音が流れていた。
毎年7月になると、
季節の効果音として流れるのだ。
音や香りで季節を感じる僕にとっては、
うれしいサービスだ。
改札を出て地上に上ると、四条河原町の交差点は動けないほどの人ごみだった。
本物のコンチキチンの音が流れてきた。
今日は祇園祭の山鉾巡行だったのだ。
目前で、クライマックスの辻回しが繰り広げられていた。
「本物のコンチキチンを聞けば、一年間無病息災ですよ。」
友人は足を止め、笑顔でつぶやいた。
僕もつられて立ち止まった。
コンチキチンの音色が、暑さの中に響いた。
平安の昔から、人間は幸せを求めて、
このお祭りに参加してきたのだろう。
何か不思議な感じがした。
僕も元気で過ごせますように、
しっかりと白杖を握り締めた。
(2013年7月17日)
ファンからの贈物
宅急便屋さんが届けてくれた箱の中には、
彼女の故郷のご自慢の品が2セット入っていた。
毎年お中元やお歳暮の季節に届くけど、
僕と彼女の間には、社会的な上下関係もないし、
何かお世話をしたようなこともないのだから、
純粋にプレゼントだ。
恐縮する僕に、彼女はいつも、ファンですからと笑顔で返してくださる。
2004年に発刊された「風になってください」を読んでくださってから、
かかさず届けてくださる。
長年視覚障害の方々に関わってこられた彼女にとって、
それぞれの作品が、いろいろな場面で重なったらしい。
まさに、共感だ。
「風になってください」は、
僕や出版社の予想を超えて、
1万部のロングセラーとなっている。
僕は、奇跡だと思っている。
奇跡をおこしたのは、
この人間同士の共感の力なのだろう。
数日前も、京都府下に住んでおられる視覚障害の男性から、
「風になってください」と、
「風になってください2」の注文があった。
もう文字が読めなくなっている彼に、
どうされるのかと尋ねてみた。
「私の思いと同じことを書いてあるから、見える友人にプレゼントするのです。」
電話の向こう側から、笑顔の声が返ってきた。
目頭が熱くなった。
たくさんの仲間、そして、僕達に関係しておられるガイドヘルパーさん、
ボランティアさん、福祉関係者、教育関係者、医療関係者、
共感がエールとなった。
一番最初に、本を書こうと決めた時、
それを僕に勧めた友人は、
「活字には力がある。」
と教えてくださったが、今頃になって実感している。
そして、照れくささを乗り越えて書くのに、
とてもエネルギーが要ったのを鮮明に記憶している。
だいぶ慣れてはきたけど、
やはり、照れくささはつきまとう。
時々、ファンですと言われて、下を向いてしまう自分がいる。
そうそう、プレゼントが2セットになったのは、
両親も好物なんだという、
僕の不用意な言葉のせいだと思います。
申し訳ない気持ちも大きいのだけれど、
ファンのやさしさに甘えることを許してください。
(2013年7月12日)
教育者を目指す君へ
「松永さん、お久しぶりです、みずほです。」
桂駅のエスカレーターを上りきったところで、
爽やかな声が聞こえた。
小学校4年生の福祉授業で出会ってから8年の間に、
もう10回くらいは出会っただろうか。
特に、彼女が桂駅から電車通学の高校時代はよく出会った。
クラブ活動の大きな荷物をかかえながら、
何度も手引きしてくれた。
その頃彼女は、教育大学へ進んで、いつか教師になるのが夢だと語っていた。
僕は恐る恐る質問をした。
「大学はどうなったの?」
「第一希望に合格しました。今日もこれから学校です。」
僕はうれしくて、右手を差し出した。
しっかりと、手を握り合った。
教育は、未来を創造する仕事だ。
きっと彼女は、誰もが笑顔で参加できる社会を目指すに違いない。
最近、長年教育に携わっていた方から、
暖かなエールが届いた。
人間は、大昔から、
誰かの苦しみに思いを寄せ、誰かの悲しみに寄り添い、
誰かにエールを送ってきたのだろう。
そして、今がある。
その中で、教育の果たした役割は、
とても大きかったに違いない。
豊かになりすぎて、
教育さえも、ソロバンではじき出そうとする社会がそこまで近づいている。
僕達も参加しやすい社会に向けて、
彼女の未来に、心からエールを送りたい。
(2013年7月9日)
足湯
嵐山の駅のホームに足湯がある。
20人も座ればいっぱいになる小さなものだ。
あることは知っていたが、
なかなか行く機会がなかった。
見えなくなってから、いわゆる一般の温泉に行く機会は少なくなった。
初めての場所は、単独では躊躇してしまう。
浴場を白杖で歩くのも気がひける。
ガイドが女性だと、そもそも無理だ。
結局、いつのまにか遠ざかっている。
足湯は、手軽に行けて、
温泉好きの僕には、たまらない場所になりそうだ。
小さな空間に、
旅行者、近隣の人、中国人、台湾人、韓国人、それぞれの言葉で笑顔が集う。
男性も女性も、若者も、昔の若者も、
生きている今に、ささやかな幸せを感じている。
そこに、白杖を持った見えない僕もいる。
それだけで、平和っていいよなって思ってしまう。
150円で体験した、最高級の幸せの話でした。
(2013年7月5日)
大学生
昨日は大阪の大学での講義だった。
毎年行っている大学なので、
学校のだいたいの雰囲気は判っているが、
一回の特別講義なので、学生達は初めて出会うということになる。
教室に入った時、
そこには普通の大学生達の日常があった。
大人数での必修の授業なので、
高い向学心とか関心とかがあるわけでもない。
始業のベルがなっても、なかなか話し声も止まらないし、
教室の後方から動かない学生もいるようだった。
僕はいつものように、
僕達のことを、少しでも知って欲しい、
一人でも知って欲しい、
それだけの思いを抱えて、教壇に登った。
未来への種蒔きだと思っている。
当然なのだが、僕には、話を聞いてくれている学生達の顔は見えない。
目の前には、いつもと変わらない灰色一色の世界があるだけだ。
僕は話し始めた。
僕の声が、マイクを通して、教室に流れ始めた。
学生達は、僕を見つめた。
僕の一言一句に耳を傾けた。
いつしか、教室には静寂があった。
真面目そうな学生も、成績の悪い学生も、
ヤンキーの男子学生も、化粧の濃い女子学生も、
それぞれが、それぞれの思いで、
授業に参加してくれた。
教室に、人間同士の絆が生まれた。
やさしさが漂った。
授業が終わって、教室を出る学生達が、
「ありがとうございました。」
声をかけてくれた。
「こちらこそ」
僕も、感謝を返した。
同行してくれた友人が、帰りの電車の中で、
学生達のレポートを読んでくれた。
授業の最後の短い時間だったのに、
それぞれの言葉での、たくさんのエールが並んでいた。
「白杖の人を見かけたら、声をかけます。」
「私にできることから実践します。」
「正しく知ることが大切だと学びました。」
「今よりも、いい社会を造ります。」
共に生きていく社会をイメージしてくれていた。
若者達のメッセージを受け止めながら、
ほんの少し、未来の輝きを感じるような気がした。
今時の若者達、結構いいですよ。
少なくとも、僕が学生の時よりは、素敵です。
(2013年7月3日)
さくらんぼ
2004年の暮れに「風になってください」が刊行されたのだから、
彼女と会ったのは、2005年くらいだろうか。
名古屋で眼科医として仕事をしていた彼女は、
偶然、僕の本を読んでくださったらしい。
何かのきっかけで、京都で彼女と会い、一緒に歩いた。
失明と向かい合う患者さん、
その患者さんと向かい合う医者、
それぞれに越えていかなければならないものがあったのだろう。
交じあわせた少ない言葉の中から、
彼女が医者という立場で葛藤されたことが伺われた。
見える彼女と、見えない僕と、
見つめる未来は同じだなと感じた。
その時から、毎年この季節になると、
さくらんぼが届くようになった。
気持ちだけで十分うれしいことは告げてあるのだけれど、
静かな彼女の、彼女なりのエールなのだろう。
届いたばかりのさくらんぼを、口に含んだ。
甘酸っぱい味がした。
幸せの味だと思った。
医療はパーフェクトではない。
治るとか治らないということを、
いいとか悪いとか言うことはできない。
ただ、もう眼科に通う必要のなくなった僕達に、
思いを寄せてくださる眼科医がおられることは、
やっぱりうれしい。
先日、京都市内の書店で、
「風になってください2」の出版記念講演会があったが、
会場に、地元の眼科医が来てくださっていたのを、後で知った。
そっと聞いて、そっと帰られたらしい。
人間同士のやさしさの先に、きっと医療や福祉や教育というものがあるのだろう。
僕の目の病気は治らずに、見えなくなってしまったけれど、
僕の目に関わってくださったたくさんの医療関係者に、心から感謝したい。
(2013年6月30日)
視覚障害リハビリテーション研究発表大会
新潟市の会場は、熱気に満ちていた。
大学の研究者、眼科や内科のドクター、視能訓練士、歩行訓練士、
相談支援の専門家、盲学校の先生方、機器の開発者など、
会場には全国から400人を超える人達が集まった。
目が見えない人達、見えにくい人達の未来に、
それぞれの立場での思いが寄せられた。
この専門家の皆さんのお陰で、僕も、失明からの再スタートがきれたのだ。
そして、歩き始めた僕に、
見える人達がたくさんのエールをくださる社会が存在している。
見えない者の一人として、
心からありがたいと思う。
新潟から帰り着いたら、
僕が訓練を受けた施設で、
爆撃機のエンジン音のレコードが見つかったという話を聞いた。
戦時中、見えない先輩達が、
エンジン音で敵機を判別する練習をしたのだそうだ。
悲しい時代を乗り越えて、
今、笑顔で歩ける社会があるのだ。
でも、まだまだ、日本中の仲間が笑顔になったわけではない。
来年の視覚障害リハビリテーション研究発表大会は、
7月19日と20日、京都で開催されることになった。
リハビリを受けた者の一人として、
感謝の思いで、大会長を引き受けた。
今、日本のどこかで、涙をこぼしている仲間に、
何かをプレゼントできるイベントにしたいと、心から願う。
(2013年6月26日)