熟成されたもの

見えない人がいた。
見えにくい人もいた。
ガイドヘルパーもいた。
松葉杖の人もいた。
車椅子の人もいた。
聞こえない人も、
難聴の人もいた。
手話通訳や要約筆記の人もいた。
京都から特急電車で約1時間、
人口3万5千人程の京都府北部にある綾部市、
障害者団体の研修会にお招きいただいた。
当事者のほとんどは、僕より年上だった。
僕は、僕のことを話し、
僕達も参加しやすい社会に向けての希望を語った。
障害者になりたい人なんていない。
でも、人は生きているから、
病気や怪我でなってしまうことがある。
なってしまえば、
そこには、悲しみや苦しみや挫折がある。
でも、人は必ずそれを受け止める。
受け止めて、生きていく。
幸せに向かって生きていく。
皆さん、真剣に聞いてくださった。
暖かな拍手がうずまいた。
講演が終わった後、
何人もの人達と握手をした。
一人の男性は、
自分の右手で僕の右手を持ち、
彼の左の肩に誘導した。
付け根から、手はなかった。
「これで、80年生きてきたよ。」
彼はただそれだけを言い、
僕と握手した手に力を込めた。
何度も何度も、力をこめた。
暖かな手だった。
彼の眼から、熱いものがこぼれているのが判った。
僕は、ただ、
「ありがとうございます。」
という言葉を伝えるしかできなかった。
確かに、講演をしたのは僕だった。
でも、大きなエールをもらったのは、
間違いなく僕だった。
悲しみも苦しみも、少ない方がいい。
できれば、避けたい。
でも、悲しみや苦しみは、
心の中で熟成して、
やさしさやぬくもりに変わっていくのも事実なのだ。
80年も熟成されたものは、
たった数分間で、僕を本当の幸せに導いた。
(2014年2月16日)

雪のバレンタイン

昨夜、遠方の友人から届いたメールには、
雪の予報と、雪の中での僕の移動への心配が綴られていた。
彼が心配してくれた通り、
朝、家を出たら、一面の銀世界だった。
僕はすべらないように、一歩一歩雪を踏みしめて歩いた。
バス停を探そうにも、点字ブロックが雪に埋もれて役にたたなかったが、
気づいた近所の人がサポートしてくださって、
予定のバスに乗車できた。
バスが桂駅に着いて、
ころばないように気合を入れて歩かなくてはと思った瞬間、
中年の男性が声をかけてくださった。
僕はいつもよりしっかりと、
彼の肘をつかんだ。
安心感がひろがった。
河原町で彼と別れて、
予定の女子中学校に向かった。
授業を終えて帰ろうとしたら、
「バレンタインだから。」
少女は照れくさそうに、
ハート型のチョコレートを2個、僕の手のひらに乗せた。
そうか、今日はそんな日だったんだな。
そんなイベントとは縁遠い世代になってしまった。
いや、世代のせいではなくて・・・。
でも、今日は遠方の友人からのメール、
桂駅でサポートしてくださった男性、
二人の男性のやさしさに触れたいい日だった。
うれしかった。
僕にとっては、やっぱり愛の日かな。
勿論、チョコレートを拒否しているわけではありません。
誤解のないように。
(2014年2月14日)

あい・らぶ・ふぇあの御案内

2月22日(土)、23日(日)の二日間、
ゼスト御池で「あい・らぶ・ふぇあ」が開催されます。
京都府視覚障害者協会、
京都ライトハウス、
関西盲導犬協会、
京都視覚障害者支援センターの4団体が共催で、
毎年、啓発イベントとして取り組んでいます。
今年で38回を数える歴史のあるものです。
こういうイベントが続けてこられたのも、京都ならではなのでしょうね。
ゼスト御池の地下街の河原町広場、市役所前広場、寺町広場の3会場で、
ステージ発表、小学生の絵画コンクール、ブラインドカフェなどの催しがありま
す。
販売コーナーでは、京都視覚障害者支援センターの仲間がつくった手芸などを始
め、
盲導犬グッズ、事業所さわさわのごま製品なども販売されます。
また、23日(日)河原町広場で、
13時から、さわさわ楽団の演奏、
14時からは、僕の講演もあります。
どうぞ、覗いてください。
もちろん、入場無料です。

子供でも大人でも

毎年のことだが、この季節は大人を対象にした講演が多い。
今月だけでも、
PTA、公務員のOB会、消防署、銀行と、
話を聞いていただくチャンスがあった。
大人向けの講演は、子供達を相手にするのと比べてこちらも若干緊張するのだけ
れど、
それなりの楽しさみたいなものもある。
子供達への取り組みは、未来への種蒔きだと思っているけれど、
大人は、現実的な社会の改善につながっていく。
銀行の職員研修、実際に話を聞いて頂いた後、
二人一組でアイマスクをしてもらって、
サポートの体験をしてもらった。
「こわいなぁ。」とか「こうすればいいんだね。」とかの声が聞こえてきた。
最後に挨拶をされた代表者の方が参加者に質問されたら、
8割が初めての体験とのことだった。
その数字を聞いただけで、
僕は来て良かったなと思った。
実際に、全盲の人が単独で銀行の窓口に行くことは、
ほとんどないのかもしれない。
でも、参加者の人達は一生懸命学ぼうとされているのが伝わってきた。
それはきっと、職場を越えて、
社会の中で、一人の人としての動きにつながっていくのだろう。
人間同士が助け合う豊かな社会につながっていく。
司会の女性が、休憩時間に近寄って来て、そっとつぶやかれた。
「これまで、2度、駅でお見かけしました。
タイミングがあわなかったけど、
いつか必ずサポートしますね。」
笑顔が素敵だった。
僕はうれしくて、つい握手を求めた。
そして、心から感謝した。
子供でも大人でも、やさしい人間っていいよなぁ。
(2014年2月9日)

桂駅の階段を降りながら、
電車がホームに入ってくる音が聞こえた。
見える頃は階段を駆け降りたが、今は無理だ。
半分あきらめながら、それでも急ぎ足で降りていった。
僕がホームに着くのを待っていたかのように、
駅員さんが声をかけてくださった。
そして、無事、その電車に乗せてくださった。
僕はギリギリで乗ったので、込んだ電車の入り口に立っていた。
たった2メートルほどの幅の入り口、
自分がそこの左側に立っているのか、右側なのか、
それさえも判らなかった。
判れば、ドアに触れた手を動かして、
手すりを探せるのだ。
どうしようと迷っていると、
後ろから伸びてきた手が、
そっと僕の右手を掴んだ。
そして、右側の手すりに誘導して、
僕の手をやさしく包んだ。
僕はありがとうございますとつぶやいた。
どこの誰か、男性か女性か、年齢はいくつぐらいか、
まったく何も判らない。
判ったのは、優しい人間の手ということだけだ。
僕は手すりを握って、安心して電車に揺られた。
幸せの中の数分間だった。
烏丸で地下鉄に乗り換えようとしたら、
階段のところで、また、違う女性が声をかけてくださった。
同じ国際会館方面行きの電車だったので、
僕達は一緒に乗車した。
僕が見えている頃、白杖の人に声をかけたことはなかった。
勇気がなかった。
そして今、こうして声をかけてもらって、
本当に助かっている。
声からして若い女性に、
「貴女達は、勇気がありますね。」と
僕が言うと、
「勇気は要りますよ。」
彼女は笑った。
電車が北大路駅に着いた。
「行ってらっしゃい。」
彼女の声に見送られて、僕はホームを歩き始めた。
今日は、10歳の子供達への講演だった。
「社会ってね。やさしい人がいっぱいいるんだよ。
人間って、助け合えるんだよ。」
僕は子供達に、今朝出会った人達のことも話した。
学校を出る時、
校舎の3階から、子供達が手を振った。
僕も振り返って、手を振った。
失明する直前、僕は自分の手を見つめたことがあった。
眼の前の手を見つめて、
それが見えなくなる恐怖におののいた。
あれから16年、本当に手は見えなくなった。
でも、手を振ることは今もできるし、
人間の手は、誰かを包めることも知った。
(2014年2月5日)

フォークとナイフ

ホテルでの講演会、
参加者の皆さんと食事を一緒にいただいてからというスケジュールだった。
ウエイターさんが、器にスープを入れにこられた。
一瞬、お箸をもらっておこうかなと思ったけど、
何とかなるだろうと判断した。
この判断が間違っていた。
久しぶりのフォークとナイフ、
そして、僕より年上のいわゆる名士の方々の中での盲人一人、
それなりの緊張感も手伝って、
こぼさないようにとの気持ちだけで格闘が始まった。
スープは、味わいながらおいしく頂いた。
余裕があったのは、ここまでだった。
ステーキを切るのも、それを口に運ぶのも大変だった。
サラダは別の小皿だったので、
小皿を口に近づけて、フォークでかきこんだ。
温野菜には、春を感じさせる竹の子などが並んでいたようだったが、
それをフォークにさすことだけでも四苦八苦した。
極めつけは、伊勢えびを半分にカットしたものだった。
フォークで、どこをどうさしても、
殻がついてきて、なかなか身に辿り着けなかった。
僕はギブアップして、
「手を使います。」と宣言して、
片手で殻をつかんでトライしたが、
やはり難しかった。
結局、あきらめた。
最後に、隣の紳士が、
ポテトサラダをスプーンに入れてくださった。
これはおいしく頂けた。
一瞬、ほっとした瞬間だった。
デザートとコーヒーは問題なかった。
コーヒーをすすりながら、
外国の盲人はどうやって食事しているのだろうかと思った。
お箸は、結構小回りが効く。
手への触覚も伝わりやすい。
日常は、お箸ではほとんど不自由なく食事している。
やはり、慣れた道具が一番かな。
皆様、今度、目を閉じてフォークとナイフを使ってみてください。
本当に難しいですよ。
ちなみに、こんなにこだわっているのは、
視覚障害がどうのこうのということではありません。
あの久しぶりの伊勢えびを食べ損なった後悔が、
講演が終了してホテルを出てからも、
ずっと追いかけてきたのです。
それにしても、やっぱり悔しいなぁ!
(2014年2月4日)

合唱

桂駅の階段を降りかけたところで、
ご婦人が声をかけてくださった。
行き先は、お互いに河原町までだった。
僕は、彼女のサポートを受け、
電車に乗った。
彼女は空いてる席を見つけて、座らせてくださった。
座るっていいなぁ。
一人の時は、空いてる席を見つけるのは無理だから、
ほとんど立っている。
今日は、のんびりと、くつろぎながら時間が流れた。
電車が河原町駅へ着いて、ホームを階段まで歩きながら、
彼女がささやいた。
「中学校の教師をしていたんです。
勇気を出して声をかけるようにと生徒に言っていたので、
今日は勇気を出しました。」
正直で暖かな言葉だった。
「僕が見えている頃、勇気がなくて、声をかけられませんでした。
こうして見えなくなって、サポートがどんなに有難いか痛感しています。
ありがとうございます。」
僕は感謝を伝え、階段で別れた。
それから、小学校の福祉授業へ向かった。
今日の福祉授業は3時間という長丁場だった。
最後の時間には、保護者の参観もあった。
感想を求められた子供が、
「困っている人を見かけたら、必ず声をかけてお手伝いします。」と宣言した。
それから、心のこもった子供達の合唱の歌声が、
会場を包んだ。
歌声が握手して、肩をたたきあった。
大人も子供もひとつになった。
未来への種蒔き、僕は確信をもって、感謝をこめて学校を後にした。
(2014年1月30日)

カツどん屋さん

ふと立ち寄ったカツ丼屋さん。
空いてる座席に案内してもらって、
しばらくすると、店員さんがオーダーを尋ねにこられた。
「ランチって、どんなのがありますか?」
僕の問いに、彼女はメニューを読んでくれた。
そして、Aランチがトンカツとエビフライのセットで、
手ごろな値段であることも教えてくれた。
僕はAランチを頼んだ。
しばらくして、お盆に載ったランチが運ばれてきた。
彼女は、ご飯茶碗、豚汁のお椀を僕に触らせて、
それから、空っぽのソースのお皿にソースを入れてくれた。
ゴマが好きかと尋ねられたので、好物だと言うと、これも入れてくれた。
それから、ご飯に、セルフサービスのお漬物も乗せてくれた。
「何か困ったら、すぐに声をかけてくださいね。
どうぞ、ごゆっくり。」
心のこもった言葉だった。
僕は、言葉通り、のんびりと味わいながらお昼を頂いた。
最近、いろいろなお店で、
マニュアルで憶えさせられたらしい言葉を、
矢継ぎ早につきつけられて、慌てることがある。
どんなにいい言葉でも、心がかようのとそうでないのは、
まったく違うものなのだ。
「お茶、足しておきますね。」
食事の途中に、彼女はお茶を注ぎにきた。
でも、お茶だけが目的ではなかった。
もし僕が困っていたら、
伝える機会をプレゼントしようとしてくれているのは、
彼女の言葉、声の流れ、動きで伝わってきた。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
僕は、心からありがたいと感じた。
清算をすませて店を出る時、
今度は男性の店員さんが、
近くの横断歩道まで送ってくださった。
「時々、盲目の方がいらっしゃるんですよ。」
彼は笑顔だった。
言葉と笑顔の行間には、
「また、いつでもいらしてくださいね。」があった。
マニュアルにない言葉が、
本当のことを伝えるのだ。
また、寄りますね。
ご馳走様でした。
(2014年1月25日)

至極の時間の結末

基本的に自由業の僕には、決まった休日はない。
スケジュールが空いた時が休日だ。
非常勤講師の仕事、講演、障害者団体の行事などで、
どんどんスケジュールは埋まる。
失明して、それまでの仕事をやめて、
何もなかった頃のことを思えば、
参加できる社会があるということはとても幸せなことなんだとつくづく思う。
ただ、年々忙しくなって、
最近は月に2回くらいの休みになっている。
今度は、年齢的な体力低下が壁になってきている。
難しいものだ。
今日は18時からの会議があるだけなので、
ゆっくり寝て、お昼過ぎまでのんびりと時間を過ごした。
ただボォーっとして過ごす。
至極のひとときだ。
家の中は、白杖は使わない。
もう30年も住んでいる団地なので、
構造も身体が記憶している。
手や身体の一部を、
わざといろいろな場所にぶつけて、
位置を確認しながら動いている。
ほとんど何も問題はない。
あえて問題をあげれば、床に寝そべっている愛犬をけとばすことくらいだ。
三姉妹だったけど、一昨年に一匹天国へ行ってしまって、
今は2匹だ。
でもこれも、足が当たった時点で判るので、
瞬間に力を抜く。
当たり方が悪くて、キャインと泣いたりするのは、年に一度あるかないかだろう。
僕は彼女達に十分気を使って生活しているのだが、
彼女達は自由気ままだ。
年に数回、決まったトイレ以外でウンチやオシッコをする。
理由は見当たらないので、機嫌のせいだろう。
今日は、機嫌が悪かったらしい。
久しぶりのゆっくりした時間、
おいしいコーヒーでもいれて飲もうと動いたら、
ウンチを思いっきり踏んでしまった。
拭いたり洗ったり、30分は費やしただろう。
掃除が終わった時には、
もうコーヒーを入れる気力がなかった。
くじけてコタツに寝転んだら、
2匹も僕の横に寝転んだ。
「あんた達のせい!」
抗議をしたけれど、受け入れられそうもない。
盲人が、踏む前にウンチを知る方法を真面目に考えた。
鼻を鍛えるしかないかなぁ。
至極の時間ももうすぐ終わり、そろそろ会議に行ってきまーす。
(2014年1月22日)

新年会

年が明けて、やっと日常が落ち着き始めたこのタイミング、
今年に入って三度目の日曜日、
いくつかの新年会が開催され、参加した。
一つ目は、僕が暮らす京都市西京区の視覚障害者協会の新年会、
午前中、身体と心の健康を願ってのヨガの勉強をし、
お坊さんの説法を聞いた。
それから、ちょっと豪華なお弁当を頂いて、
皆で今年の抱負などを発表した。
最後のゲーム大会では、視覚障害者、家族、ボランティア、皆が笑顔になって楽
しんだ。窓の外では、僕達をお祝いするように、小雪が舞っていた。
終了後、僕はすぐに移動を開始して、
夕方からの、北区の視覚障害者協会の新年会に出席した。
これは、役員として挨拶をするためで、
いわゆる来賓というやつだ。
挨拶だけして帰ることもできるのだが、
時間が許す限り参加することにしている。
僕よりずっと早く見えなくなった先輩達に、
いろいろ教えてもらういいチャンスだ。
そして、仲間達と、未来を語り合う。
勿論、飲みすぎて、ろれつが回らなくなって語れない状態の人もいるが、
それも新年らしい愛嬌だ。
胃袋も心も満足して帰宅したのは、21時過ぎだった。
しばらくして、携帯電話が鳴った。
受話口から、ハッピィバースディの合唱が流れてきた。
鹿児島県薩摩川内市の風の会の新年会だ。
「風になってください」の出版直後、
故郷の高校時代の同級生達が、
僕を支援する風の会を立ち上げた。
毎年、秋になると、故郷での講演会を企画してくれる。
そして、滞在時の世話もしてくれる。
講演を聞いてくれた人の数が、8年で1万人を超えた。
その風の会の新年会、
皆が1月生まれの僕に、
ハッピィーバースディの歌と笑い声を届けてくれたのだ。
高校時代に出会った仲間達は、高校生みたいな素敵なことをやってのける。
歌声を聞きながら、幸せだなって思った。
そして、電話を切った時、
ふと北区の新年会で出会った先輩を思い出した。
生まれつき見えない先輩だ。
見えなくなった頃、
僕は、僕自身を不幸だと思いそうになった。
そんな僕を、彼は笑い飛ばした。
笑うことで、きっと何かを伝えたかったのだろう。
今日、彼と久しぶりに話をした。
帰りがけに、彼が僕に握手をもとめた。
「松永さん、頑張ってくださいね。」
なぜか、彼は強い力で僕の手を握り、
離そうとしなかった。
しばらくの間、僕はそのままでいた。
「また、お会いしましょう。きっと。」
それだけを言い終わると、なぜか、目頭が熱くなった。
人は、誰かの力になりたいと、自然に思うものなのだ。
見えても見えなくても、皆同じだ。
今日出会ったすべての人達、ありがとうございます。
僕に幸せの意味を教えてくださって、ありがとうございます。
(2014年1月20日)