小学校の校長先生達のOB会にお招きいただいた。
今年退職された先生もおられたし、
もう20年近くが経過したという先生もおられた。
夕食前の小一時間、お腹もすきはじめた時間帯の講演だったが、
研ぎ澄まされた空気が会場を包んだ。
特に、目が見えない僕と子供達とのやりとりの部分などでは、
先生方のまっすぐな視線が僕に浴びせられた。
それは、真剣さを意味するものだった。
やりとげた充実感、成し遂げられなかった口惜しさ、
それぞれの思いを胸に、それぞれの足跡を振り返りながら、
未来を見つめてくださったのだろう。
講演の後のあたたかな拍手、激励の言葉、
握りしめた手のぬくもりがそれを物語っていた。
それぞれの生きる道程で引退とか退職はあっても、
人間の情熱に終わりはないことを教えられた気がした。
そして、その情熱を心からうれしく感じた。
(2014年5月17日)
情熱
松葉杖の友人
肢体障碍者の知り合いから、
久しぶりのメールが届いた。
年齢のせいで筋肉が衰え、
松葉杖が大変になってきているとのことだった。
僕が彼と知り合ったのは、
地域の障碍者の集いだっただろうか、
子供の頃からの肢体障害だった彼は、
まだ福祉という単語さえなかった少年時代、
父親が作ってくれた杖を使って歩いていたと教えてくれた。
その言葉には、父親への深い愛情と感謝が溢れていた。
差別や偏見に満ちた社会を生き抜いてきたはずなのに、
彼の言葉も、語り口も柔らかく、
怒りのようなものは何も感じられなかった。
淡々と、彼は生きていた。
見えなくなったばかりで、まだつい俯き加減の僕に、
彼は、人間の尊厳みたいなものを伝えてくれた。
淡々と生きる姿が美しいと思った。
届いた短いメールの最後には、
「お元気でご生活ください。」
と記されていた。
彼らしい美しい言葉だった。
淡々と、僕も生きていきたい。
(2014年5月12日)
7年ぶりの少年
駅のホームで声をかけてくれた若者は、
出身の小学校名と自分の苗字を名乗った。
彼の手引きで歩きながら、
彼が名乗った苗字につながる名前が、
僕の深い記憶の中から蘇った。
「こうた君か?」
彼に確かめたら、記憶は正しかった。
僕の記憶の中にあった少年、
彼が10歳の時に福祉授業で数時間会っただけだったが、
その授業の後に、メールでメッセージを届けてくれたのだった。
「僕は一生、点字ブロックの上には自転車を止めません。約束します。 こうた」
短いメールだったが、
少年の純粋で強い決意は、
紛れもなく、見えない世界で生きていく僕達へのエールであり、
当時の僕をとても幸せな気分にしたのだった。
17歳になった彼は、
僕の身長を超え、声も大人になっていた。
僕達はまるで親友との再会のように、
何度も強い握手をした。
社会にメッセージを届ける活動、
きっと未来につながっていくと信じてやっている。
でも、根拠もないし、確乎たる自信もない。
しかも現実は、なかなか目に見えるような変化が起こっているとも思えない。
ひょっっとしたら、僕の希望にすぎないのかもしれない。
「今も、小学校などに言っておられるのですね。」
別れ際の彼の言葉は、
その意味を伝えて、僕の心までを手引きしてくれたように感じた。
一日に5万人以上の人が利用するこの駅で、
今度彼に会えるのはいつになるだろう。
その時も、活動を続けている僕でありたいな。
いや、少年も一生の約束をしてくれたのだから、
僕も頑張らないとな。
(2014年5月9日)
いかなごのくぎ煮
5月の風が感じられる頃になると、
視覚障害の友人から、
いかなごのくぎ煮が届く。
大阪で暮らしてきた彼女にとっては、
初夏を告げる風物詩なのだろう。
見えない僕と、ほとんど見えなくなっている彼女と、
共通点は視覚障害ということだ。
ただ不思議と、
目や病気の話はほとんどしない。
お互いに、苦しかった時も悲しかった時もあるのだが、
そこには触れない。
それぞれの人生を豊かにする話題が多くなる。
きっと、たどり着いた場所が同じということなのだろう。
彼女にとっての風物詩が、
いつのまにか、僕にとっての風物詩にもなった。
障害があるとかないとか無関係に、
いい出会いは、人生を豊かにしてくれる。
感謝しながら、
ついついご飯を御代りしてしまった。
いかなごのくぎ煮、真っ白な炊き立てご飯がよく似合う。
(2014年5月5日)
爽やかな風
久しぶりに立ち寄ったトンカツ屋さん、
入口の判らない僕は、
道行く足音に向かって声を出した。
「トンカツ屋さんの入口を教えてください。」
すぐに立ち止まってくださったご婦人は、
「ここのトンカツおいしいよね。」
そう言いながら、たった数歩、僕を手引きしてくださった。
つまり、僕はほとんど入口に近い場所から声を出していたのだ。
ご婦人は、入口がすぐそこなんておっしゃらなかった。
見えないということを、理解してくださっていたのだろう。
店員さんがサポートしてくださるのを見届けて、
ご婦人は立ち去られた。
トンカツ屋さんには、いつもの店員さんがおられた。
ランチの説明をしてくださり、
申し訳なさそうに、消費税で値上がりしたことも付け加えられた。
器にソースを入れ、ゴマを入れ、御飯にお漬物を載せてくださった。
さりげなくて確実なサポートには、
いつも上品さが漂っている。
「何かあったら、何でもおっしゃってくださいね。
どうぞ、ごゆっくり。」
僕は、本当にゆっくりのんびり、ランチを楽しんだ。
「ここのトンカツおいしいよね。」
ご婦人のやさしい言葉を思い出しながら、
胃袋だけでなく、心までが満足していた。
食事が終わると、
店員さんは、僕の向かう横断歩道まで手引きしてくださった。
横断歩道の点字ブロックに着くと、
「また、立ち寄ってくださいね。」
笑顔で会釈された。
笑顔が、5月の爽やかな風にとても似合った。
(2014年5月3日)
八重桜
午前中予定されていた綾部市視覚障碍者協会での挨拶を終え、
急いでお弁当を頂き、ボランティアさんの車で知人のお見舞いに向かった。
綾部市と舞鶴市の病院、二か所が終わったのが15時くらい、
帰るまでにもう少し時間があると思ったので、
引き揚げ記念館を訪れた。
我ながら、時間の使い方は、本当に上手になってきていると思う。
僕の父は、シベリアからの引揚者だ。
戦争によって、青春時代の数年間を失っている。
父は僕が子供の頃から、シベリアのことをほとんど語らない。
ただ、戦争は絶対にしてはならないと、
それはいつも言っていた。
語らない言葉に、大きな意味があったように思う。
風化していく歴史が、繰り返されないことを願いながら、
展示物を見て回った。
わずかの時間だったが、しっかりと刻まれた。
記念館の出口で、ボランティアさんが、
八重桜が咲いていることを僕に伝えた。
僕はちょっと立ち止まって、
深呼吸をして、空を眺めた。
平和な空を眺めた。
(2014年4月27日)
30歩
休日の予定だったのに、
急に、夜の会議が入った。
重たい気持ちと身体は、なかなか動こうとはしなかった。
若い頃なら、仮病でも使っただろうが、
この年になってやっと、責任感みたいなものも芽生えてきているらしい。
溜息をつきながら、うつむき加減で家を出た。
その流れのせいなのか、バスも電車も、座れることはなかった。
夕方込み始めた駅の構内では、白杖が、幾度も誰かの足に当たった。
僕はその度に謝った。
大宮で電車を降りて、バス停まで移動しようとして、
白杖が、不法駐輪の自転車につかまった。
とうとう動けなくなった。
立ち往生して、白杖であちこち探っている僕に、
若い男性が声をかけてくれた。
バス停まで、わずか30歩くらい、
僕は彼の肘につかまって歩いた。
同じ方向に行くのか確認したら、
彼はまったく違う方向だった。
立ち往生している僕を見つけて、
かけよってくれたのだろう。
たった30歩、僕はその間に、笑顔になった。
バス停の点字ブロックの上に僕を誘導して、
「さようなら。」
彼は僕の肩を、軽く二度叩いた。
頑張れのサインだったと思う。
会議が終了してライトハウスを出たのは20時を過ぎていた。
勿論、帰り着くまで、笑顔で頑張れた。
もう一度若者をやれるなら、
あんな若者になってみたいな。
(2014年4月23日)
旅人
ふらっと立ち寄ったさわさわ、
僕の向かい側の席で、先客がカレーライスを食べていた。
その香りにつられて、僕もカレーライスを注文した。
幾度食べても、やっぱりおいしい。
「おいしいですね。」
僕は何気なく、カレーライス仲間に話しかけた。
「辛くて、鼻をすすっています。」
彼女は笑った。
埼玉県からの旅人だった。
ウィークリーマンションに滞在して、
のんびりと京都を楽しんでいるとのことだった。
どこの桜を見たかとの僕からの質問に、
いくつもの京都の地名が出てきた。
30年以上暮らしている僕よりも、
ずっと京都に詳しく、
そして、京都が好きだということも伝わってきた。
頑張って働いて、
少しお金を貯めて、
そして旅に出ているのだそうだ。
きっと旅の中で、彼女は豊かな時間を過ごしているのだろう。
言葉の端々に、それが感じられた。
何かとても、うらやましくなった。
たった一度の人生、
見えるとか見えないとか無関係に、
豊かに過ごしたいよな。
波の音を聴きながら、
のんびりと老いていきたいと、
漠然と思ったりしている。
今度思い切って、旅に出てみようか。
若いころ、目が見えていた頃、
リュックサックを背負って、
鈍行列車に乗車してあちこちを旅した。
勿論、その時の風景は、
思い出の中で、僕の宝物になっている。
またどこかで、豊かな香りや音が、
僕を待っていてくれるかもしれない。
(2014年4月18日)
ぎっくり腰
この一週間はぎっくり腰の痛さで、
コルセットをして亀のように歩いた。
おまけに一昨日から発熱して、
とうとうかかりつけのドクターを訪れた。
夜だったが、緊急でいろいろな検査もしてくださった。
S字結腸が炎症を起こしているとのことで、
食事制限と安静を告げられた。
しばらく休日はない状態ですと説明する僕に、
ドクターは、
万が一の場合は、訪問先の病院を受診するようにとおっしゃった。
僕の活動や多忙さをよく理解してくださっている。
今朝も、6時過ぎには電話がかかってきた。
昨夜の緊急の検査の結果が出たとのことだった。
僕の状態を心配してかけてくださったのだ。
なんとか行けますという僕に、
無理をしないようにと、暖かな言葉がかさなった。
こうして考えると、
僕の活動、僕の人生、
いろいろな人がいろいろな形で応援してくださっている。
本当にありがたいことだ。
福知山市から帰り着いてメールを確認したら、
今日出会った仲間からご苦労様のメールが届いていた。
笑顔になった。
絶食でお腹はペコペコだけど、
なんとか熱も引いて、
心はちょっと温かくなった。
今日出会ったすべての人達に感謝です。
(2014年4月12日)
桜
1日は、東京の千鳥ヶ淵で桜を眺めた。
2日は、団地の近くの桜を眺めた。
3日は、京都御所の桜を眺めた。
そして5日は、洛西桜まつりに参加した。
それぞれの桜が、僕の指先で微笑んだ。
つかの間の春が微笑んだ。
老若男女、国籍さえも超えて、
桜の花の下に、人が集った。
それぞれが、キラキラとした笑顔で集った。
見えない僕は白杖を持って、
歩けない人は車いすで、
空間に溶け込んだ。
一枚の桜の花弁は、
特別な美しさではない。
きっと色も形も大きさも、不揃いなのだろう。
それが、数えきれないほど集まって、
桜になるのだ。
僕達の社会もきっとそうなのだろう。
それぞれ違う人が集まって、
それぞれが笑顔になった時、
きっと美しくなる。
だから、やっぱり、
それぞれ違う一人ひとりが大切なのだ。
僕も、標準形、標準色からははずれるのだろう。
でも、社会という桜の木の、
ささやかな一枚の花弁でありたい。
(2014年4月6日)