岡南公民館

老若男女、いや平日の午前中だったので若は少な目だったが、
気は若いという人はたくさんおられた。
ほとんどが元気な中高年だったが、
白杖の人、盲導犬の使用者、医療関係者、他の障害を持った人なども若干おられた。
岡山駅から車で30分、岡南公民館には100名を超える地域の方々が集まられた、
笑いながら、時には胸がキュンとしながら、僕達はひとつになった。
数年前、僕の著書「風になってください」を読まれた方々が、
3人で京都での僕の講演を聞きにこられた。
いつか岡山でもとおっしゃってくださったが、
こんなに早く実現するとは思わなかった。
講演会などが実現するには、いくつものハードルがあることを知っている。
ハードルが高くて実現しなかったこともいくつかある。
思いが実現するために、きっと何人もの、縁の下の力持ちが登場したに違いない。
そしてそれが繋がって、実現したのだ。
「そよ風の会」と名乗った彼女達は、
本当にさわやかなそよ風を吹かせてくださった。
その風に乗って、僕は未来への種を蒔いた。
会場には、彼女達が咲かせた季節外れのコスモスが揺れていた。
目の前はどんな感じかと聞かれることがあるが、
いつも変化のない灰色です。
ただ、灰色の向こう側に、キラキラとした未来を感じることもあります。
それはきっと、人間同士の絆が作り出してくれるものなのでしょう。
人間であることに、この社会に、心から感謝します。
岡山の皆様、本当にありがとうございました。
(2014年6月18日)

栄光館

82年前の6月14日、新島八重さんがこの世を去った。
彼女の葬儀が行われたのが、同志社の栄光館なのだそうだ。
昨日、その場所で、同志社女子中学校の生徒達に話をした。
栄光館は歴史を刻みながら、堂々とそして静かにたたずんでいた。
800人の生徒達と先生方、
食い入るように僕を見つめ、しっかりと話を聞いてくださった。
八重さんの兄、覚馬氏も中途失明の全盲だったらしい。
教育も福祉も充実していなかった時代に、
盲人達はどうやって生きていったのだろう。
いただいた大きな花束を抱きかかえて歩きながら、
この時代に生きていることに自然に感謝した。
そして、平和に心から感謝した。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加する社会、
まだまだ道半ばだ。
先輩達からのバトンをしっかりと受け継ぎ、
少しくらいは前に進んで、
そして、次の世代に渡せたらと願う。
話を聞いてくれた中から、
また、新しい時代の八重さんが出るだろう。
きっと、未来に向かって手をつないでくれるに違いない。
(2014年6月14日)

相合傘

買い物をすませて店を出たら、
雨がポツポツ落ちてきた。
降水確率50%の今朝の天気予報の数字を思い浮かべながら、
僕は空を眺めた。
傘を持ってこなかったことを後悔しながら、
うらめしそうに、空を眺めた。
その時、おじいさんが話しかけてくださった。
「傘はないのかい?」
僕は照れ笑いをしながら、
「はい。」とだけ答えた。
おじいさんは、僕を傘に入れると、
「こんな雨の日、あんたと歩くには、わしは丁度いいスピードだ。
肘を持ったらいいよ。」
そう言いながら、僕の横に寄り添ってくださった。
僕はおじいさんの肘を持って歩き始めた。
本当にゆっくりゆっくり歩いた。
傘に当たる雨の音を聴きながら、
のんびりのんびり歩いた。
道の方角以外は、何も会話はなかった。
でもなんとなく、相合傘がうれしかった。
団地の入口についた時、
「急いでも、何もいいことはない。」
おじいさんが笑った。
「人生ですか?」
出かかった言葉を飲み込んで、
僕はまた、「はい。」とだけ答えた。
そして、ありがとうございましたと深々と頭を下げた。
(2014年6月12日)

リレー

高校での授業が終わったのは、予定の12時10分だった。
待機してもらっていたガイドヘルパーさんと急ぎ足で学校を出た。
最寄りのバス停から四条までたった一駅だけバスに乗車し、
四条からは地下鉄に乗り換え、京都駅へ。
八条口改札に着くと駅員さんに、
「僕は全盲です。単独で東京の高田馬場まで行くのでサポートをお願いします。
特急券は自由席です。少しでも早い列車に乗りたいです。」
と申し出た。
日本盲人福祉センターでの会議が16時にスタートするのだ。
駅員さんは慣れた感じで、乗車の手配をし始めた。
乗換駅、到着駅、乗車予定ののぞみなどに連絡をすませ、
それから僕のところに来られた。
そこでガイドヘルパーさんとは別れた。
僕と駅員さんは呼吸を合わせ、
とても初対面とは思えないスピードで歩き、
新幹線ホームを端から端まで歩いて、のぞみの自由席の停車位置に着いた。
それからほどなく、乗車予定ののぞみがホームに入ってきた。
「急ぎ足でごめんなさいね。この列車にお乗せしたいと思ったものですから。」
駅員さんが笑った。
「ありがとうございます。急いでいるので助かります。」
「停車時間は90秒あるので、社内まで案内します。」
のぞみのドアが開くと、駅員さんは躊躇せず僕と乗り込み、
入口に近い座席に僕を座らすと、
「お気をつけて。車掌にも品川にも連絡してあります。」
それだけ言うと、すぐに降りていかれた。
まさに、プロの仕事だった。
のぞみが品川駅に着くと、品川駅の駅員さんが待っておられて、
山手線の電車への乗り換えをサポートしてくださった。
そして、山手線が高田馬場駅に着くと、やっぱり連絡を受けた駅員さんが待っていて
改札口まで誘導してくださった。
改札口でボランティアさんと合流して、雨の中を急ぎ足で歩いた。
日本盲人福祉センターの玄関に着いたのが、16時01分、我ながら見事な移動だった。
いや、見事にリレーしてくださった。
皆様に心からお礼申し上げます。
そうそう、のぞみの社内の隣の座席の男性、
僕が得意なはずのコンビニおにぎりで手間取ってしまった時、
これも手伝ってくださって、大変うれしかったです。
ありがとうございました。
(2014年6月8日)

大分旅行記 その3

大分市での日盲連全国大会終了後、
せっかくここまで来たのだからと、
京都の仲間と湯布院温泉で一泊した。
僕達のグループには全盲の男性の奥様もいたし、女性のボランティアさんもいた。
ただ、男性の晴眼者はいなかった。
こういう時には電車ごっこ作戦だ。
中年の裸のオッサン達が少年の笑顔でならぶ。
先頭は弱視のよしのり君、
その後ろには全盲が3人続く。
あきら君、よしき君、そしてのぶや君。
左手に手ぬぐいを握りしめて、
右手で前の人の背中や肩に手をおくのだ。
そして出発進行、決して静かな列車ではない。
ワイワイガヤガヤ言いながら進んでいく。
一般のお客様から見れば、唖然とする光景だろうな。
本人達は何も気にしていない。
安全な室内の温泉では飽き足らず、
列車はとうとう、戸外の自然石でできている露天風呂まで進んだ。
足の裏で石を感じ、
身体でお湯を感じ、
顔で風を感じる。
「いい湯だなぁ。」
誰となくつぶやく。
温泉は、見えても見えなくても、やっぱりいいものです。
(2014年6月5日)

大分旅行記 その2

大分市で開催された日本盲人会連合全国大会に参加した。
北は北海道から南は沖縄県まで、
まさに全国から1,000人を超える仲間が集合した。
会議では、活発な議論が繰り広げられた。
それぞれの地域の実情に応じた課題を、
それぞれの地域の代表が思いをこめて語った。
ひとつひとつの言葉には重たさがあり、
ひとりひとりが人間として輝いて生きていきたいという願いが溢れていた。
まだ福祉という言葉さえなかった時代、
先達達は点字ブロックのないホームから列車に乗り、
音響信号もない道をわたり、
こうして集ってきたのだろう。
障碍者の中で、障碍者運動に参加するのはごく一部の人達だ。
時間もお金もかかってしまう。
でも、日本中の仲間のことを考えると、
まだ悲しみや苦しみと向かい合っている仲間のことを思うと、
じっとしているわけにはいかない。
小さな力を結集して、未来に向かうのだ。
僕達が向かう未来、
僕達のための未来ではありません。
僕達も参加できる、みんなの未来です。
(2014年6月4日)

大分旅行記 その1

5月29日19時、神戸港から乗船したサンフラワー号は、
瀬戸内海をゆっくりと西へ向かった。
夕方まで大学の授業があった僕が、
30日の10時から大分市で始まる会議に出席するには、
この方法しかなかった。
天候が荒れないことを祈りながら、当日を迎えた。
穏やかないい天気だった。
日頃の行いのたまものだなと、
密かに微笑みながら船旅を楽しんだ。
甲板で潮風に吹かれながら、
失明が刻々と迫っていた頃を思い出した。
その頃、この船で旅をした。
深夜の瀬戸大橋のイルミネーションが、
もうほとんど見えなくなっていた僕の目に、
微かに映っていたのを記憶している。
あの時、もう見えなくなるという現実にうちのめされそうになりながら、
その灯りを悲しく受け止めた。
15年の歳月が流れた。
イルミネーションの微かな灯りの思いでさえが、
今は僕の中でやさしく横たわっている。
あの頃、俯き加減だったかもしれない僕が、
今はもう何も画像はなくなったのに、
すがすがしい気持ちで風に吹かれていた。
海を見つめ、空を眺め、潮の香りをかぎながら、
生きていること、生かされていることに自然に感謝していた。
この15年は、障害を乗り越えて、
そんな勇ましいものではなかった。
悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、その連続だったのかもしれない。
光に未練はないかと尋ねられれば、
間違いなくあると答えるだろう。
見えるようになりたいかと問われれば、
勿論とうなづくだろう。
ただ、15年前には決して堂々と言えなかった言葉、
今は、笑顔で、心を込めて言えます。
「僕は、幸せです。」
あらためて、出会ったすべての人達に感謝申し上げます。
(2014年6月3日)

月曜日の朝

日曜日が休日だったのは久しぶりだった。
ダラダラとゴロゴロと、時間の無駄遣いをした。
本来、いい加減さが好きなのだろう。
ただぼぉーっと、
何の価値もないような時間の中の吐息に、
しみじみと幸せを感じてしまった一日だった。
そのせいか、月曜日の朝の目覚めは重たかった。
布団から起き上がるのにも、少しの勇気、
「よいしょっと。」の掛け声が要った。
それでもなんとか、一講目からの授業に間に合うように準備をすませて、
次の休日はいつかなとスケジュールを調べて愕然とした。
6月14日、20日後だった。
この20日間のうち、大分に3泊、東京に1泊も入っていた。
自分で納得して確認しながら決めた予定のはずなのに、
ちょっと悲しくなった。
その気持ちを引きずったまま出かけた。
靴までが重たく感じた。
バス停に着いたのと同時くらいに、
バスのエンジン音が聞こえた。
乗り込もうとした僕に、
「大丈夫ですか?」のサポートの声がした。
彼女は、途中で下車しなければならない僕を、
バスの出口近くの空席まで案内してくれた。
ありがとうカードを差し出した僕に、
「読みましたよ。」と付け加えた。
それは、きっとこのホームページを意味していたと思う。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、僕は一瞬で笑顔になった。
さっきまでの重たさは消えて、
何か力が湧いてくるような感じになった。
本当に単純な性格なのだ。
見も知らぬ彼女のやさしさで、
20日間のスタートが、とても爽やかな気分で迎えられた。
よし、頑張るぞ。
(2014年5月27日)

緑が生い茂る季節

バスを降りて、いつもの家路をたどる。
歩道の側壁を白杖でたどりながら歩く。
ちょうどいい感じの風に吹かれながら歩く。
生い茂り始めた木の葉や草が、
僕の顔や身体をおかまいなしに触る。
突然頭を撫でられたかと思えば、不意にとおせんぼされたりもする。
顔を触られるくらいならまだしも、鼻の中までくすぐったりする。
結構ないたずらっ子だ。
この季節、いたずらっ子達の遊びは日に日に変化していく。
目が見えていれば、
目前の木の枝や葉っぱなど、無意識に避けて歩くだろう。
無意識に避ける時、植物たちの日毎の成長までには気づけない。
「見えなくて、得することもあるよね。」
僕はそっと、爽やかな風にささやく。
きっと、緑が一番美しい季節なのだろう。
そう思った途端、自然に足が止まって、
夜中の西山を眺めた。
頭の中一杯に緑色が広がった。
いつでも見れること、これも得している部分かな。
風に笑いかけながら、
また白杖で歩き始める。
(2014年5月25日)

お通夜

僕は彼女の顔を見たことはない。
知り合ったのは、僕が失明してからだ。
でも不思議なことに、僧侶の読経の間、
祭壇に飾られた遺影が、
なんとなく微笑んでいるのを想像していた。
自宅に帰り着いてから、「声の京都」というテープ雑誌を取り出して聞いた。
朗読ボランティアをしてくださっていた彼女の透き通ったやさしい声が流れた。
「風になってください」が出版されたのは2004年、
その翌年から、彼女の病気との闘いが始まった。
視覚障碍者の人達のために、
数えきれないくらいの入退院を繰り返しながら、
結局、彼女は最後までその活動をやめることはなかった。
僕は何よりも、生きていく力の強さを彼女から学んでいたような気がする。
テープを聞き終わって、
僕は手を合わせた。
「本当に、ありがとうございました。」
お通夜の棺に向かい合った時と同じように、
口から声がこぼれた。
何も画像のない僕の目前で、
また、彼女の遺影が微笑んだ。
(2014年5月22日)