35歳過ぎくらいから目の調子がおかしくなった。
不安が募った僕は37歳で眼科を受診した。
結局39歳でほとんど見えなくなった。
見えなくなる数年前くらいからイルミネーションが社会に登場したのだったと思う。
阪神淡路大震災の後に神戸ルミナリエが話題となったが出かけなかった。
失明の前年だった。
もうそれを見る力は僕の目にはほとんど残っていなかった。
出かける気力も失せていたのかもしれない。
失明の恐怖が現実味を帯びてきた時期だったような気もする。
結局その数年後、僕は完全に光を失った。
長い時間が流れた。
いつの頃からか見たことのないイルミネーションをうれしく思うようになった。
イルミネーションと聞くと心が少し弾むようになった。
僕の中の冬景色のひとつとなっていったのかもしれない。
イルミネーションに近いかもしれない光、ひとつだけ思い出すものがある。
クリスマスツリーの赤と緑の豆電球が点滅していた光だ。
大学時代に小さなツリーセットを買い求めて楽しんだ。
3畳一間の古い汚れた部屋がその光でそっと優しくなった。
部屋の電灯を消して、飽きずに見ていた。
たった十数個の光だったと思う。
イルミネーションは数えきれないほどの電球がいろいろな光を放つと聞いた。
光が降り注ぐとも聞いた。
想像しようとしても脳がついていかない。
結局僕の脳はあのクリスマスツリーの赤と青の光を思い出す。
そしてその光を愛おしく思う。
イルミネーション、いつか見て見たいもののひとつだ。
今年もイルミネーションの便りが届き始めた。
冬が始まった。
(2023年11月20日)
イルミネーション
International White Cane Awareness Day
International White Cane Awareness Day
11月15日は国際白杖の日だった。
僕は京都市西京区女性会の研修講師としてお招きを受けていた。
会場には各学区の役員さん達が集われていた。
前半が僕の講演、後半が視覚障害の音楽家である楊雪元(ようせつげん)さんのライ
ヴだった。
まさに、国際白杖の日にふさわしい内容だった。
「ブログ、読みました。」
最初の挨拶の時、司会者の方がおっしゃった。
さりげなく応援してくださっているのを感じた。
僕はいつものように心を込めて話をした。
目の前には灰色以外は何もない。
明るさも暗さも何もない。
未来を見つめながら話をした。
祈りながら話をした。
皆さんが真剣に聞いてくださっているのが伝わってきた。
大きな拍手をくださった。
うれしかった。
自分の講演が終わった後は一人の観客として楊雪元さんのライヴを楽しんだ。
楊雪元さんは生まれながらの全盲だ。
中国で笛奏者のプロとなり、日本にきてからは芸術大学で声楽も学ばれた。
こういう人のことを天才というのだろう。
笛奏者でありながらピアノも演奏されるしテノール歌手としての歌声も素晴らしい。
白杖に穴を空けて作った笛で演奏されたのには笑ってしまった。
竹内まりやさんの「いのちの歌」も披露してくださった。
『生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも たいせつな宝物
泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影
二人で歌えば 懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり
本当にだいじなものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある
いつかは誰でも この星にさよならを
する時が来るけれど 命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう』
最初のフレーズで見えなくなった頃を思い出した。
歌声が心臓の鼓動をたたいた。
涙がこぼれそうになった。
見えない世界で生きてゆくことの意味、本当はまだ見つけられないのかもしれない。
泣きたい日も絶望に嘆く日も今でもある。
弱虫なのだと思う。
でも、ここまでこれたのは間違いなく出会った人達がいたからだ。
見えない僕にできること、見えない僕がしなければいけないこと、それは感謝を伝え
ること、そして未来への種を蒔くこと。
正しく知ってもらえれば、一緒に歩いてくださる人達がきっと増えていく。
「来年、地域の社会福祉協議会の研修でも話をしてください。」
会場を出る際に会長がそうおっしゃった。
素直に有難いと思った。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔になれる社会。
それはずっと遠い遠いところにあるのは分かっている。
僕の歩幅が小さすぎることも僕は知っている。
でも、ほんの少しかもしれないけれど、また近づいたと思う。
集ってくださったすべての人にありがとうを伝えたい。
心あたたまる国際白杖の日となった。
(2023年11月16日)
チューリップの球根
袋は5つに分けてあった。
それぞれの袋にはチューリップの球根が3つずつ入っていた。
大きな立派な球根だった。
そして、それぞれの袋に点字で色を書いてあった。
赤、白、黄色、桃、白桃。
僕はプランターを3個準備した。
それぞれのプランターに土を入れた。
土の上に5つの色の球根を並べた。
それから球根の高さの倍くらいの穴を掘って丁寧に埋めた。
埋め終わってジョーロでたっぷりの水をかけた。
僕が光を失ってもう25年くらいになる。
彼女は20年くらいだそうだ。
そんなに長い時間、僕達は色を見ていない。
そして、もう見ることはないだろう。
彼女の故郷はチューリップが有名らしい。
草花を育てることが趣味のひとつになっている僕にプレゼントしてくれたのだ。
「私の好きな色で選んでしまいました。」
彼女からのメッセージにはそう書かれてあった。
彼女が選んでくれた色を僕はとても愛おしく感じた。
「春に待ってるからね。」
僕は言葉をわざと口に出してチューリップに伝えた。
咲いたら彼女に真っ先に伝えてあげたいと思った。
一緒にその色を思い出す。
間違いなく、それは幸せの瞬間になる。
(2023年11月13日)
運のいい日
バスは駅のロータリーのいつもの場所とは違う一で止まったらしかった。
実はこれは僕にとっては大問題だ。
自分の居場所をイメージできないということは頭の中の地図が使えなくなるのだ。
迷子になってしまう原因となる。
「車が多くて、バスがいつもよりだいぶ後ろに停車しました。」
歩き始めた僕に乗客の女性が教えてくださった。
何も分かっていなかった僕はとても助かった。
その流れで僕は彼女の肘を借りて歩いた。
地元の比叡山坂本駅の乗車位置は電車の前方にあり、目的地の山科駅の階段は電車の
後方にある。
どちらかの駅でホームを移動しなければいけない。
地元の比叡山坂本駅のホームは古くて路面にガタガタがあり途中に柱もあり歩きにく
い。
山科駅は乗降客の数が多くてこれはこれで大変だ。
一長一短なのだが、慣れということで山科駅でのホーム移動を選択している。
電車は4両編成から12両編成まである。
1両の長さは20メートルだから12両の新快速電車の場合は200メートル程度を移動す
るのだ。
やはり怖い。
駅のアナウンスが電車が12両で到着することを告げた。
僕はできるだけ後方の車両に乗りたいと彼女にお願いした。
彼女は快く引き受けてくださった。
一緒に電車に乗った。
朝のラッシュで込んでいる状況だったので少しの会話しかできなかった。
それでも僕の状況を理解してくださったようだった。
電車が山科駅のホームに入った時におっしゃった。
「階段は降りて右です。」
「ナイス情報!ありがとうございます。」
僕は感謝を伝えて電車を降りた。
確かに少し右に動いたら階段があった。
それから地下鉄と京阪を乗り継いで枚方市に向かった。
午前の枚方市の高校、午後の京都市内の大学、いつもの仕事を終えて逆コースで山科
駅まで辿り着いた。
「松永さんじゃないですか。」
たまに比叡山坂本駅からの電車で一緒になる男性とばったり会った。
彼は買い物で山科駅で途中下車されたとのことだった。
その帰路に僕を見かけられたのだ。
勿論、僕はそれから彼の肘を持たせてもらった。
彼のサポートで山科駅のホームを移動した。
彼は熟知されていて、電車の降車口は比叡山坂本駅の階段に一番近い場所だった。
改札を出た後もそのままバス停まで送ってくださった。
結局、僕は往復ともホーム移動を手伝ってもらった一日となった。
ホームは一番緊張して恐怖感のある場所だ。
それが往復ともサポートしてもらえたのだ。
こういう日を運のいい日というのだろう。
運のいい日が一日でも多くありますように。
(2023年11月10日)
カジカガエル
日曜日は京都府南部にある城陽市での同行援護研修に参加した。
9時スタートだったので7時過ぎには家を出た。
研修は終日だった。
受講生の皆さんが真剣に取り組んでくださっているのが伝わってきて、僕も気合を入
れて対応した。
帰路京都駅で友人と軽く食事をして帰ったら最終バスにギリギリセーフだった。
タイガースの優勝だけを確認してベッドに吸い込まれた。
翌日の月曜日、鳥取県の倉吉市での研修にお招き頂いた。
これは始発のバスでも間に合わないので6時前のタクシーを確保して動いた。
4時には起床だった。
連日の早朝出発は少しきつかった。
京都で特急電車に乗り継いで4時間、結構遠かった。
鳥取県は東西に長いということで、その中部に位置する倉吉市が会場に選ばれたらし
い。
研修の前のランチタイム、駅の近くのレストランで関係者と過ごした。
接客も良かったし、お世辞抜きで美味しかった。
食いしん坊の僕はすっかり上機嫌になった。
単純で分かりやすい性格だ。
研修会場には鳥取県の視覚障害者の方も来られていた。
研修が始まるまでの時間を僕は皆さんと懇談しながら過ごした。
紡いでくださる言葉にはぬくもりがあった。
そこにはお互いを励まし合う力があった。
初めて出会ったはずなのに、昔からの友達みたいに話してくださった。
うれしかった。
「先輩達が頑張ってこられたからここまでこれた。」
そうおっしゃった視覚障害者の方は僕より先輩だった。
片意地を貼らない言葉をかっこいいと感じた。
僕が17歳の頃、視覚障害者の外出をサポートする制度が日本でスタートした。
それまでは、家族と歩くか友人と歩くか、そして命がけで歩くかのどれかだった。
そこを生き抜いてこられた先輩の言葉には重みが感じられた。
僕は同行援護という視覚障害者の外出を保障する制度の連絡会の責任者をしている。
僕の能力では少し荷が重い役職だ。
ただ、こうして日本の各地のいろいろな人に出会える役得には感謝している。
仲間の皆さんの声を伺いながら、少しでも前に進めたいと強く思う。
会場には目が見える関係者が多くこられていた。
僕達と同じ未来を見つめて一緒に歩いてくださる人達だ。
寄り添ってくださっている人達だ。
そういう人達がおられて歴史が動いてきたことを僕は知っている。
集ってくださった人達に心から感謝した。
帰宅して、先輩が教えてくださった「カジカガエル」の鳴き声をインターネットで聴
いた。
確かに美しかった。
豊かな一日となった。
(2023年11月7日)
150万アクセスになった日
見えていた頃、児童養護施設の指導員をしていた。
大学3回生の頃からアルバイトとして関わり、失明直前の39歳までそこで働いた。
いろいろな理由で両親と一緒に暮らせない子供達がそこにいた。
社会のいろいろな歪がそこにあった。
子供達は一生懸命に生きていた。
18年間の半分以上、僕は施設に泊まり込んで子供達と一緒に暮らした。
頑張ったのは間違いないが、無力だった。
夜間は僕を含めてたった3名の大人で60名の子供達を守らなければいけなかった。
物理的にも厳しい環境だったのだと思う。
今日、亡くなられた先輩職員の墓参に出かけた。
施設を辞めた時に9歳、10歳だった二人の女の子も一緒だった。
当然のことなのだが、二人は40歳近くになっていた。
不思議に感じた。
僕のことを少し憶えていてくれた。
「まっつん、今夜も部屋にきてね。絵本も読んでね。」
「5分だけでいいから一緒に寝よう。」
「寝る前に歌を歌って。」
当時、子供達は僕をまっつんと呼んでいた。
小学校低学年の子供達は寝る前に絵本の読み聞かせ、子守歌、添い寝、いろいろなお
願いを僕にした。
僕は雑用の合間を縫っていくつもの部屋を順番に訪ねた。
夜が連れてくる寂しさや悲しさを少しでも和らげてやりたかった。
そんなことしか僕にはできなかった。
「あのお饅頭がひとつ足りない話が好きだった。」
思い出話の中で彼女がふとつぶやいた。
僕も一瞬でその絵本を思い出した。
きっと彼女にせがまれて何十回も読んだのだろう。
懐かしさが込み上げた。
もう一人の女の子はギターで口ずさんだ歌のことを憶えていてくれた。
下手なギターの子守歌だった。
さすがに照れくさかった。
見えなくなって一番辛かったのは何かと尋ねられることがある。
間違いなく、その仕事を離れることだった。
子供達と別れた日のことは今でも忘れられない。
何もしてあげられなかったことを悔やみながら施設を去った。
今日、大人になった彼女たちは当たり前のように、何のぎこちなさもなく僕をサポー
トしてくれた。
彼女たちが子供の頃、確かに僕はほとんど何もしてあげられなかった。
でも、彼女達は彼女達のそれぞれの力で強くやさしく生きてきたのだ。
それがひしひしと伝わってきた。
うれしかった。
僕の思い出の中の二人の少女がその頃のままに笑った。
帰宅してホームページを確認したら、150万アクセスに到達したことを知った。
僕は僕なりに歩いてきたのかもしれない。
僕は僕なりに生きてきたのかもしれない。
ふとそう思った。
そして僕も少しだけ笑った。
何十年という時間を振り返る記念日となった。
(2023年11月4日)
もし見えたら
顔を持ち上げて空を見上げた。
目を見開いた。
それからじっと見つめた。
先日届いた中学生からの質問を思い浮かべた。
故郷の鹿児島県で僕の講演を聞いてくれた中学生からのものだった。
失礼になってしまうかもしれませんがという前置きで始まった質問だった。
「また、もし、目が見えたら何を見たいですか?」
質問を思い浮かべた僕は少し笑顔になった。
空を見つめながら笑顔になった。
「もしまた見えたら、電車の中から見ていた海を見たいです。
電車通学をした高校時代によく見ていたからです。
そして、その海の上にある空を見たいです。」
僕はありのままを伝えた。
そして続けた。
「何を見たいかと尋ねてくれる時、その人の心の中には見せてあげたいという気持ち
があるのだそうです。
ありがとう。」
一度顔を下に向けて、再度また空を見上げた。
記憶の扉がそっと開いていった。
高校の帰り道、途中の駅で電車を降りた。
いやその当時は汽車だったかもしれない。
駅からすぐの砂浜を歩いた。
目的もなくただのんびりと歩いた。
しゃがみ込んで桜貝を探した。
いくつか見つけた。
名前のままに淡いさくら色だった。
そして目前に海と空があった。
美しかった。
もう見ることはないのだなとぼんやりと思った。
まあ、仕方ないなとほのぼのと思った。
そしてまた笑顔になった。
(2023年10月29日)
歩くって難しい
電車は4両編成、6両編成、8両編成の3種類が運行しているのだと思う。
そしてそれぞれの車両に複数のドアがある。
何両目のどのドアから乗車したかまでは把握できていない。
だから、電車を降りてから階段までの距離は歩いてみないと分からないのだ。
階段がどこにあるかは小鳥の鳴き声の放送が目印だ。
小さな音量なので近づかないと聞こえない。
最初は予想の方向に歩く。
予想が当たっていればそのうち小鳥の鳴き声が聞こえ始める。
しばらく歩いても聞こえない時は逆方向に歩いてしまったということになる。
だいたい方向は当たるのだがパーフェクトではない。
たまに反対に歩いてしまっている。
そこは納得しながら、慎重にそして勇気を持続させて歩くのだ。
点字ブロックからホームの端まではわずかな距離しかない。
小さな古い駅なのでホーム自体にでこぼこがある。
所々に柱が立っている場所もある。
不用意にぶつかればバランスを崩す危険がある。
ホームの移動は本当に怖い。
今日は久しぶりに失敗した。
しかも小鳥の鳴き声の方向をなかなか確認できなかった。
幾度も立ちすくんで途方に暮れた。
襲ってくる恐怖心をなだめる。
そしてまた少し歩く。
僕の動きを変だと感じた女性が声をかけてくださった。
「違う方向に歩いて行かれたので。」
彼女はそうおっしゃった。
「階段の場所が分からなくなってしまいました。
案内してください。」
僕はお願いした。
彼女は引き受けてくださった。
階段はすぐ近くにあった。
5メートルくらいだっただろうか。
いつもは聞こえる小鳥の鳴き声をどうしてキャッチできなかったのか分からない。
一瞬キャッチしたのだったが頭の中の地図で整理できなかった。
風向き、疲労、いろいろな要因だろう。
彼女に心からの感謝を伝えてから階段を降り始めた。
見えないで歩くってやっぱり難しい。
もう20年もやっているのにやっぱり難しい。
それでも明日も僕は歩く。
歩きたいと思うから歩く。
気づいて助けてくださった人、本当にありがとうございました。
(2023年10月26日)
読書
年齢のせいで朝早くに目が覚めるようになってしまった。
まだ朝日も出ないうちから起きてしまうのだ。
脳はもっと眠りたいと思っているようなのだが仕方がない。
そのせいなのだろう。
昼食後には身体が昼寝を要求しているのが分かるし、夜9時には睡魔に襲われる。
悔しいと思う日々だ。
かかりつけのドクターに相談したら、寝る時刻をもう少し後ろにずらすようにとのア
ドバイスだった。
とにかく、目が覚めてから動き出すまでの時間を持て余している。
同世代の視覚障害の仲間に尋ねてみたら読書の時間にしているという人が結構いた。
見えなくなってから、僕は読書をしなくなった。
見えていた頃、むさぼるように文庫本を読んだ時期があった。
まさに読み漁った。
紙とインクの匂い、ページをめくる指先の感触、懐かしい。
視覚障害者の仲間には趣味が読書という人は結構多い。
点字で読む人が2割、録音図書が8割くらいかな。
僕が読書をしなくなったのは何故だろう。
目で活字を追うあの感覚がないせいかもしれない。
結局コーヒーを飲みながらぼぉっとしている。
最初の頃は時間の浪費みたいでもったいないと感じていた。
最近は贅沢のひとつだと思えるようになってきた。
時間の旅もいいものだということにしておこう。
現役を引退したら読書をするのかもしれないとなんとなく思うこともある。
読書そのものより、読書をするおじいさんの姿に憧れがあるのかもしれない。
(2023年10月22日)
キンモクセイ
お招きくださった中学校の最寄り駅はJR京都線の桂川駅だった。
朝の山科駅での乗り換えはそれなりのエネルギーがいる。
僕は朝7時台に1本だけある快速を選んだ。
乗り換えなしで行けるのだ。
ただ、大阪まで直通で行けるから通勤客なども多い。
ラッシュの中で電車に乗り込むのはそれなりのハードルがある。
彼女が最初に声をかけてくださったのはいつだっただろう。
もう忘れてしまった。
ほぼ毎日その電車で通勤している彼女は僕を見かけたら声をかけてくださるようにな
った。
この電車だったら彼女にサポートを受けられると僕も思うようになった。
6時台の電車の時はまた別の男性が決まってサポートをしてくださる。
彼とはアドレス交換をしているので僕は前日までに依頼をすることもある。
「明日、京都駅7時過ぎの新幹線に乗車するので乗り換え口までお願いします。」
という感じだ。
タイミングさえ許せば引き受けてくださる。
いろいろな人達のやさしさに支えられながら僕は生きているのだと思う。
今日の中学校は2時限目と3時限目に講演、その後はクラス毎にサポート体験という
内容だった。
この中学校は別日に点字体験も予定されているので、まさに視覚障害理解のフルコー
スということになる。
それがもう20年近く、ほぼ毎年実施されている。
僕達当事者にとってはとても有難いことだ。
実際、僕自身もこの中学校出身の人達に幾度かサポートを受けた経験がある。
6時限目までの活動を終えて、ボランティアさんに桂川駅まで車で送ってもらった。
京都駅で電車を乗り換え、地元でバスに乗り換え、いつもの帰路だ。
空席を見つけられない僕は約1時間、立ったまま過ごすことになる。
電車の乗降、乗り換え、改札口の通過、バス停への移動、どの部分も息を抜くことは
できない。
一瞬の判断ミスがどういうことになるかは自覚しているつもりだ。
電車内で手すりを持っている間だけは揺れる身体をかばいながら気持ちは休養させる
のが技術のひとつだと思っている。
電車に乗り込む瞬間に男性が声をかけてくださった。
そしてすぐに座席も教えてくださった。
僕達はそれとなく話始めた。
行先を確認しながら、同じ町内の人だと分かった。
あまりの偶然に驚いた。
彼は京都駅での乗り換えは勿論、地元駅でのバス停までのサポートまで申し出てくだ
さった。
僕は喜んでそのサポートの申し出をお受けした。
彼と歓談しながらの帰路となった。
バス停に到着した後も彼はバス待ちの時間を近くのベンチで付き合ってくださった。
いつもの僕にはそこにあることさえも気づかないベンチだ。
ベンチの木のぬくもりまでがうれしかった。
彼と別れて僕は一人でバスに乗車した。
最寄バス停でバスを降りて歩き始めた。
しばらく歩いて足が止まった。
キンモクセイ!
僕は白杖を自分の前に立ててグリップにあごを乗せた。
香りを楽しみながらゆっくりと呼吸をした。
今日出会った人達のやさしさをふと思い出した。
さりげなく、つつましやかに、そして存在感のあるやさしさ。
キンモクセイの香りがよく似合うと思った。
(2023年10月17日)