35歳を過ぎて、
どんどん目が悪くなっていった時、
僕はもう何もできなくなってしまうような気になった。
見えないということは、そういうことなのだろうと、
どこかで勝手に想像していた。
39歳で見えていた頃の仕事をやめて、
しばらくは引きこもり状態だった。
もう仕方ないんだと、あきらめ状態の自分になった時、
やっと点字を勉強したり、白杖歩行の訓練を受けようという気持ちになった。
障害を乗り越えてなんて、そんな勇ましいものじゃない。
仕方なく、それだけだ。
実際、訓練を受けた後も、
僕が働く場所は見つからなかった。
講師などの仕事を頂けるようになったのは、それから何年も経ってからだ。
ちなみに、今でも、収入が安定しているとは言い難いが、
その当時とは比較にはならないくらいになった。
ありがたいことだ。
そんな不安定の頃、フィリピンの子供を紹介された。
貧しさで教育を受けられない子供達が、
日本円で、一ヶ月1,000円で学校に行けるとのことだった。
僕はその話に飛びついた。
ほとんど収入のなかった僕にとっては、
一ヶ月1,000円は、ひょっとしたら、
やっぱり惜しいという気持ちも少しはあったかもしれない。
でも、それよりも、
僕もどこかの誰かのためになりたいという気持ちの方が強かった。
ささやかでも、社会に関わりたい自分がいた。
僕は、一人の少女を預かることにした。
少女の写真を、リュックサックに入れて歩いた。
そして、誰もいない場所で、時々写真を触った。
根気のない、だらしない性格の自分自身を奮い立たせるひとつの方法だった。
今年の春、少女は高校を卒業した。
成績優秀な彼女に、
僕は大学進学をすすめた。
そして、4年間に必要な経費、
月々5,000円を保障するという申し出をした。
迷いに迷って、彼女は大学受験を決めた。
小学校の先生を目指すそうだ。
先日、関係者から「さくらさく」の題名のメールが届いた。
彼女の大学合格を知らせるものだった。
僕は、部屋でメールを読んで、
一人で手をたたいた。
その音を自分で聞きながら、
拍手が、彼女にも、自分にも向けられていることに気づいた。
社会に関われることは、幸せなことなのだ。
目が見えなくなるのは受け止められる。
でも、それによって、社会から遠ざかるのは悲しいことなのかもしれない。
これから4年間、よし、僕もまた頑張るぞ!
(2013年6月5日)