「あのう、いかなごの釘煮、食べはりますか?」
別件の用事の電話の後、
彼女はそっとささやいた。
いかなごの釘煮は、阪神地域の郷土料理で、春を知らせるものだ。
瞬時に、彼女が、僕に春をプレゼントしようとしてくださっているのがわかった。
「ありがとうございます。」
僕は素直に返事して電話を切った。
早速、頂いたいかなごの釘煮でごはんを食べた。
わざと、他のおかずはなしで、
ただ、炊き立ての白いごはんといかなごを食べた。
おかわりをして食べた。
春の柔らかさと、彼女のやさしさが、
しみじみと、口中に広がり、身体中に拡散した。
彼女は、僕より年上で、人生の先輩だ。
ただ、失明は、僕が先輩になる。
経営者として頑張っていた彼女に、
失明の不安が訪れた頃、
僕は彼女に出会った。
僕がそうだったように、
失明ということでは、少し前を歩いている僕と出会うことで、
彼女はほんの少し、ほっとしたらしい。
それから、10年近くの歳月が流れ、
確かに、彼女の目は、だいぶ悪くなった。
でも、例えば点字を読むことも、
彼女は僕よりも上手になった。
しっかりと前を向いて、経営者としてバリバリ頑張っていた頃と、
何も変わらない生き方をしておられる。
大阪と京都を行き来しながら、
仲間や後輩達のために、心血を注いで活動しておられる。
その姿勢には、自然に頭が下がる。
今度は、彼女に出会ってほっとする人がいるに違いない。
「ごちそうさまでした。」
僕は合掌して、声を出した。
(2013年3月9日)