バトン

東京市ヶ谷の私学会館4階鳳凰の間はほぼ満席だった。
国レベルのセレモニーの会場は静寂に包まれ、重圧な空気が流れていた。
その中で時々先輩の声だけが漏れていた。
声がすぐに止まるということは付き添いの方がストップをかけておられたのだろう。
運営的にはまずいことかもしれなかったが、僕はその度に何かうれしさみたいなもの
を感じていた。
先輩とお会いするのは本当に久しぶりだった。
88歳、全盲で補聴器使用という状態になっておられた。
僕が京都の代表として同行援護の全国の会議に出始めたのは十数年前だった。
先輩はまさにその会議で先輩だった。
いろいろなことを教えてくださったしお叱りを受けたこともあった。
その言葉の端々には強さとやさしさが感じられた。
僕が生まれる前から見えない人間として生きてこられた力みたいなものがあった。
数年後、僕が全国の同行援護の講師としてデビューしたのは愛知県豊田市だった。
先輩は豊田市で同行援護の事業所を運営しておられた。
地域の視覚障害者協会の会長なども歴任しておられた。
先輩がデビューの機会を作ってくださったのだったと思う。
豊田市での研修の最終日、先輩は僕を小料理屋さんに招待してくださった。
地元の食材を使った懐石料理は思いもかけぬご馳走だった。
先輩がとてもうれしそうだったのを憶えている。
その研修会の後しばらくして、先輩は全国の会議から引退された。
それ以来、10年以上の時間が流れていた。
先輩と一緒に活動した時間は決して長くはなかった。
僕のことを憶えていてくださっているだろうか、少し不安を感じつつ挨拶をした。
「京都の松永です。昔いろいろ・・・。」
僕は現在の滋賀県在住ではなく、当時のことを先輩の耳元で話そうとした。
次の言葉を言う間もなく先輩がおっしゃった。
「会えるかもしれないと思ってたよ。大学も頑張ってるか?」
僕は言葉が出なかった。
言葉と涙腺が直結してしまっているのを自覚できていた。
ただ返事だけをして先輩の手を握った。
先輩は力強く僕の手を握り返してくださった。
受け継いだバトン、へなちょこの僕には重すぎて長過ぎて悲しい。
恥ずかしい。
でも、投げ出すわけにはいかない。
次の人に渡すまでは頑張らないとと思う。
そしていつか、こんな風に老いていきたいと思った。
大声で言いそうになった「ありがとうございます。」を僕は飲み込んだ。
きっと聞こえないだろうと思ったからだ。
そして付き添いの方にお願いした。
「僕が心からのありがとうを言っていたとお伝えください。そして益々お元気でとお
伝えください。」
(2024年12月7日)