僕が出会う人の数は平均より多いと思う。
専門学校や大学で非常勤講師という仕事をしているし、講演活動などもあるからだ。
多くの人と出会えるということはうれしいことだ。
人生が交差する時には発見や学びがあることが多い。
それは幸せにつながる。
でも、僕には画像はない。
幾度お会いしてもなかなか記憶はできない。
失礼になってしまいそうで自分を悲しく感じたこともあった。
「どなた様ですか?」
と問いかける勇気もなかった。
見えなくなった頃、これは辛いことのひとつだった。
声だけのやりとりで分かるのは、子供か大人かということと性別くらいだろうか。
いや、時にはそれさえ不安になることもある。
髪型がどうか、どんな服装か、メガネをかけておられるか、ネクタイが似合っている
のか、そしてどんな笑顔なのか、眼差しはどうなのか、何も分からない。
少しでも触ることができればもう少しは記憶に残るかもしれない。
でも、実際にはそれはなかなかできない。
大学で僕の講義を受けたお茶目な女子学生が僕の手を自分の顔に誘導してそっと囁い
たことがある。
「私、結構美人やで。」
でも残念ながら、目も鼻も口も耳もあることは分かったが顔にはならなかった。
ただ、彼女の変な勇気に敬服して伝わったふりはしておいた。
そう考えると実際にはこの触るということもそんなに意味はないのかもしれない。
いつの頃からか、もう画像はどうでもよくなった。
同時に記憶しようという努力を放棄した。
結構楽になった。
今年出会った人の数を考えてみた。
この出会うというのは僕の声を聞いた人というイメージだ。
小学校などの福祉授業も加えるとやはり数千人だろう。
その中で一回でも言葉のキャッチボールが成立したのは1割くらいだろうか。
それが複数回となるのはまたその中の数パーセントとなる。
そう考えるとつながるということは不思議なことなのだ。
自分の思いとは別のところで結ばれていく何かの力があるのかもしれない。
それを縁と呼ぶのだろう。
先日縁がつながった人からのメールには「ヤナギバルイラソウ」という花が紹介して
あった。
勿論、僕はその花を知らないし想像もできない。
そして見ることはない。
ただ、そのメッセージをうれしく感じたのは事実だ。
花言葉を調べてみた。
「正直」「勇気と力」「愛らしさ」とあった。
なんとなく似合うように思った。
(2024年10月26日)