薩摩川内市に甑島(こしきじま)という島がある。
川内港から高速船で50分、串木野港からフェリーだと75分だ。
僕は友人の車に同乗させてもらったのでフェリーを利用した。
数年前に他界した親友の西君のお墓参りが目的だった。
西君はこの甑島出身で高校時代に知り合った。
卒業後、しばらく音信が取れなかったが、京都市内でばったりと再会した。
思い出せば、不思議な縁だ。
僕は学生、西君は当時パン屋さんで働いていた。
夜盲で少し不便があった僕と会社の寮の居心地の悪さがあった西君、
当たり前のようにオンボロアパートで一緒に暮らすようになった。
西君は不思議な世界を持っていた。
僕より1歳年上ということもありいろいろと話を聞いてくれた。
「汚れちまった悲しみは」
酔っぱらうと中原中也の詩を語った。
二人で旅したヨーロッパでの二か月の思い出は一生の財産となった。
中学生程度の英語力の僕達、リュックサックを背負った放浪は青春のエネルギーの中
で実現したものだった。
大学を卒業した僕は児童福祉の仕事に没頭していった。
西君は新しい職場を求めて東京に向かった。
十数年した頃、突然電話がつながらなくなった。
その時もっと真剣に探すべきだったのかもしれない。
いつかまたつながるだろうと、男同士なんてそんなものだ。
数年前に西君の訃報が届いた。
それからずっと、お墓参りに行きたいと思っていた。
そしてやっと今回実現した。
妹さんや地元の関係者に教えてもらった海辺のお墓に辿り着けた。
川内駅に迎えにきてくれた友人がくれたポロシャツを着てのお墓参りだった。
背中に甑島で有名な鹿子百合がプリントされていた。
友人のさりげないやさしさを背中に感じながらお参りした。
花を供え線香をたむけた。
合掌した瞬間に言葉が紡ぎ出された。
「西君、お世話になりました。ありがとうございました。いつかそっちに行きます。
その時はまた僕のともだちになってください。」
お墓の近くの砂浜に降りた。
少年時代に西君が歩いたと聞いていた砂浜だ。
目前に桜島が聳えて見えた。
「汚れちまった悲しみは」
西君の笑顔が蘇った。
「ありがとう。」
僕は今度は声に出して感謝を伝えた。
帰り際、港に高校時代の同窓生が待っていてくれた。
同窓生と言っても、僕達は同じクラスにはならなかった。
僕はラグビー部で彼はバレー部で話したこともなかった。
だから、お互いの記憶もなかった。
彼は甑島名産のタカエビを準備してくれていた。
僕達は笑顔で握手をかわした。
新しい友人ができたのだと思った。
川内に向かう船の中でふとこれまでの自分の人生を振り返った。
たくさんの友人達に支えられて生きてきたことをあらためて思った。
その事実に心から感謝した。
ともだち、いいものだとしみじみと思った。
(2024年10月6日)