ブラジル人

電車の中でちょっとお腹が痛くなった。
トイレに行きたい。
目的地までのルート、時間、一気に脳は動き始めた。
どの駅のどの場所でトイレに行けるか、そして仕事に間に合うかと考えを巡らせた。
講師という仕事なので休むことも遅刻も基本的には許されない。
行ったことのないトイレは探すということに時間がかかってしまう。
京都市内にはいくつか見えない僕にも利用できるトイレを確認してある。
幾度か利用し、あるいは練習し、単独で行けるようになっているトイレだ。
今回のルートはそこから外れていた。
微かな腹痛とあせりに追い込まれていくのを感じながら動いた。
乗り換えながらやっとたどり着いた駅、でも出口を間違がえたようだった。
他のお客さんの足音もない。
万事休す。
それでも僕は最後の力を振り絞って白杖で周囲を探し始めた。
その時に複数の足音が聞こえてきた。
誰かにトイレを探してもらおう。
恥ずかしさを超えた決心があった。
でもすぐに僕は絶望感に包まれた。
足音の人達は外国語だった。
うなだれそうになっている僕にその足音は近づいてきた。
「Can you speak English?」
イメージでは中年男性の声だった。
道でも尋ねられるのではないかと思った僕は即座に答えた。
「No!」
実際に僕は片言の英語しかできない。
実力としては最近の中学生以下だと思う。
単語を並べるのは少しできるがヒアリングはさっぱりだ。
次に彼から出たセンテンスにhelpというのがあったように聞こえた。
僕はダメモトでトイレを探すのを頼もうと思った。
まさに藁にも縋るの思いだったのだろう。
WCが何の単語の頭文字なのか思いつかない。
結局、僕は自分のお腹を指差しながら顔をしかめて彼に伝えた。
「トイレ!」
彼は仲間の人達と話し始めた。
仲間の人達が小走りに動き始める音が聞こえた。
僕とコミュニケーションをとった中年男性は僕の横にずっと立っていた。
時間が刻々と過ぎていった。
「トイレ!」
僕は再度中年男性に訴えた。
okという単語とone minutesという単語が聞き取れたような気がした。
中年男性は僕の肩にそっと手を置いて数度優しく叩いた。
まさに頑張れのメッセージのようだった。
そして中年男性は仲間の人達と幾度も大きな声でやりとりをした。
【まだ見つからないのか?】
【この日本人、そろそろ限界だぞ。】
【急げ急げ。】
やがて一人が走ってくる音が聞こえた。
そして中年男性とやりとりをした。
【ありました。でもこの改札口とまったく反対方向。50メートルはあります。】
他の人の声も聞こえた。
【階段を上り下りしなければいけません。距離もある。】
【目の前の改札を出たら横の通路がつながっているかもしれません。】
【とにかくそっちに急ごう。】
【】は僕の想像の内容だ。
僕と一緒にいた男性が僕の左手を自分の右肘に案内した。
僕達は改札機を強行突破して無人の改札口を出た。
僕はほとんど彼にぶら下がるようにして歩いた。
歩きながら彼は幾度か僕に話しかけたが僕には理解できなかった。
僕は青息吐息で尋ねてみた。
「Wat country?」
ブラジルという言葉が返ってきた。
何とか通じたらしかった。
間もなく反対側の改札の音が聞こえた。
「Station staff please!」
彼は僕を駅員さんのところに案内してくれた。
「トイレ、使わせてください。」
僕は駅員さんにお願いした。
こちら側の駅の構造は頭にあったのですぐに単独で動けた。
僕は振り返って手を振った。
「thank you!」ありがとう!thank you!
そして数歩進んでもう一度振り返った。
「I love Brazil!」
歩き始めた僕の背中に彼らの笑い声があった。
とにかく助かった。
リュックサックには予備の白杖などがいつも入っている。
これからそこに予備のパンツも加えようと決めて友人に顛末をはなしたら紙パンツの
利用を勧められた。
そっちの方がいいかもしれない。
しばらく悩んでみようと思う。
それにしても素敵なブラジル人達だった。
僕もあんな風になりたいなと素直に思った。
(2023年8月22日)