いつものようにリュックサックを背負って出かけた。
土曜日だったけど仕事でハードな日だった。
新大阪にある視能訓練士養成の専門学校で1、2時限目、そして京都に移動して大学
で4時限目というスケジュールだった。
7時前には家を出て、帰りは19時の予定だった。
前日までの雨もあがっていたし、爽やかな風も吹いていた。
なんとか無事に仕事を終えた。
帰路の電車は学生が京都駅まで送ってくれたので座ることもできた。
充実した一日となったが疲労感もあった。
携帯電話の歩数計は9千歩を超えていた。
睡魔と戦おうとした時だった。
ボックス席の僕の前の席にご夫婦が座られた。
僕よりは少し上の世代のようだった。
息子の話などをしておられるのが時々聞こえてきた。
と言っても、奥様の話にご主人が相槌を打つという感じだった。
何とはなしにその会話を聞きながら時間を過ごした。
やがて僕の降りる駅を案内する放送が流れた。
僕は右手で白杖を持って膝に置いていたリュックサックを背負おうとした。
その時、その静かだったご主人の手が自然に伸びてきた。
リュックサックのヒモを肩にかけるサポートをしてくださった。
そして、そのヒモの先が外れかかっているのを発見されたようだった。
実は僕は今日幾度か背中の違和感を感じていた。
リュックサックのチャックが空いているのではと確認もした。
でもチャックは閉まっていたので気のせいかと思っていた。
違和感の原因はこれだったのかと思った。
「直しましょうか?」
と言いながらご主人の手が動き始めた。
電車が減速を始めた。
「もうすぐ駅に着くから降りはるよ。」
奥様が心配そうにご主人に話された。
「大丈夫だよ。ほら、これで安心。」
電車がホームに滑り込むと同時にご主人の手が離れた。
まさに計ったような手際良さだった。
「ありがとうございました。」
僕はお二人に笑顔で挨拶をして電車を降りた。
慌てていたのでありがとうカードを渡すこともできなかった。
ホームに降りて、動き始めた電車に僕はまたそっと会釈をした。
社会はだいぶ変化してきた。
街中に防犯カメラが設置されてきた。
他人は怖い存在だとメディアが警告する。
そして人々はお守りのようにスマホを握りしめる。
景色を見ることなくその画面に視線を落とす。
今日のご夫婦の口からは景色の話が流れていた。
山科駅の近くのマンションの高さまで話しておられた。
勿論、スマホを見ておられる雰囲気はなかった。
そしてその中で、ご主人は僕の様子も見ておられたのだろう。
白杖とリュックサックを抱えて座っている僕を気に留めてくださったのだろう。
4人がけのボックスシートの中には人間という生き物のやさしさがあった。
ホームの点字ブロックを歩きながら気づいた。
疲労感が幸福感になっていた。
あのボックスの空気で熟成されたのだ。
僕はリュックサックの背中を再度確認してそれから空を見上げた。
幸せだなって思った。
(2023年5月21日)