「松永さんですか?」
京都市内のバス停で声をかけられた。
「以前、松永さんの企画されたスペイン料理の会に行ったことがあります。」
それを聞いた瞬間、途方もない懐かしさと恥ずかしさが僕を包んだ。
目が見えていた頃、児童福祉施設で働いていた。
文字を読めなくなり外を歩くのに恐怖を感じるようになった39歳の時に退職した。
それから一年間はただ息をしているだけの抜け殻状態だった。
次の年の春、ライトハウスでの中途失明者生活訓練を受けることにした。
白杖を使っての歩行訓練、点字、音声ソフトを使ってのパソコン、頑張った。
一年間の訓練を終えて再度の社会復帰を目指したのが41歳の春だった。
でも現実は厳しかった。
ハローワークや障碍者の職業相談に出向いたが働ける場所はなかった。
無職と言わなければならない自分自身が悲しかった。
仕方なくいろいろなことを始めた。
「夢企画」という名刺も作った。
視覚障害者に便利な音声時計などの販売をやった。
世間に出始めた携帯電話の中から、視覚障害者にも使いやすいような機種を選んで紹
介するようなこともした。
取り扱い説明をカセットテープに声で入れてお客様にお渡しした。
視覚障害者の知り合いが増えていった。
その交わりから外食を楽しみたいという声を聞いた。
僕はいくつかの店と交渉して食事会を企画した。
見えなくても食べやすいメニューを選び、案内を点字でも作った。
その中にスペイン料理のお店もあった。
参加してくださった視覚障害者の人からは喜びの声をいくつか頂いた。
でも費用的には赤字だった。
音声時計を視覚障害者の方の家まで配達したことも幾度もあった。
収益は一回300円程度だった。
大変さを気遣ったお客様がお土産にアンパンをくださったこともあった。
携帯電話はどんどん新機種が発売されて追いつけなくなっていった。
数年頑張ったが、結局利益が一か月に5万円になることはなかった。
中学校での点字教室を依頼されたことをきっかけに販売の仕事はやめた。
商売の才能はまったくなかったことを実感した。
点字教室は1時間の授業で5千円も頂けた。
きっと一般社会では珍しいことではなかったかもしれないが、当時の僕には驚くべき
金額だった。
それから点字教室だけでなくいろいろな授業や講演の依頼などが少しずつ増えていっ
た。
年収100万円を目指したが達成には7年かかった。
50歳を過ぎていた。
次の目標として密かに年収300万円としたがそこにたどり着けることはなかった。
ただ、頑張ってこれたことには満足している。
僕なりに働いてこれたと思っている。
言い訳かもしれないが、お金よりも大切だと思える仕事にも力を注ぐことができた。
振り返れば、いつの間にかそちらが主になっていた。
夢を抱きながら歩き続けることができたような気がする。
そしてここまでやってこれたのは出会った人達のお陰だ。
数えきれない人達が僕の背中をそっと押してくださった。
押されながら歩く方向を見つけ、歩く速さも増していったのかもしれない。
いつの頃からか年収は考えなくなった。
それよりも僕にできる仕事をひとつひとつ大切にしたいと思えるようになった。
スペイン料理の思い出を話してくださった時に懐かしさと恥ずかしさがあった。
でもその恥ずかしさには少しの喜びも混在しているのを感じた。
不思議な感覚だった。
「当時、参加してくださって本当にありがとうございました。」
僕は改めて20年ぶりの御礼を心を込めて伝えた。
今度は自分自身でゆっくりとスペイン料理を食べに行ってみたいと思った。
(2023年4月21日)