彼女から電話が入ったのは京都駅で地下鉄に乗り換えるタイミングだった。
14時くらいだったと思う。
「試合が終わったので今から大学に向かいます。
間に合わないかもしれないので待ってもらう必要はありません。」
それだけ言うと彼女は電話を切った。
大学のフェンシング部で活動している彼女はたまたま僕の担当科目を受講してくれて
いる。
僕の担当科目は「社会福祉特殊講義」という名称で選択科目となっている。
午後にポツリと入っている科目だし講師も僕なので受講学生数は多くはない。
たくさんの学生に受講して欲しいと思っているが仕方ない現実だ。
でも、少ないと学生達との距離も近くなるというメリットもある。
教室に入ってくる時に学生達は「こんにちは」と声をかけてくれる。
出ていく時も「ありがとうございました。」と声をかけてくれる。
他の科目ではあまり見かけられない光景らしい。
勿論初めの頃はそんなことはなかった。
いつの間にか少しずつ、学生達は見えない僕を理解していってくれているのだろう。
有難いことだと思う。
その学生達の中でも彼女は欠席ゼロの熱心な学生だ。
ただこの日は大学のフェンシング部として大会に出場するということで公欠扱いとな
っていた。
だから実際には来なくてもいいという状況だった。
大学の講義は90分なのだが僕はだいたい80分くらいで終わっている。
いつものように15時15分丁度に講義を始めて1時間以上が計かした時だった。
彼女がそっと教室に入ってきた足音に気づいた。
それから間もなく講義は終了した。
ほとんどの学生達が教室を出ていった後、彼女は教壇のところまできた。
そして僕にフェンシングの剣を手渡した。
持ち方やどういう感じで動かすとか説明してくれた。
握り方に戸惑っている僕の手を取ってきちんと握らせてくれた。
重量が違う剣や持ち手の違う剣も触らせてくれた。
勿論僕はそれを手に取るのは初めてだった。
その重たさと金属の鋭さに驚いた。
頭からすっぽりかぶるヘルメットのような防具も触らせてくれた。
重たかった。
「これ以外には特別な防具はないので体中があざだらけです。」
彼女は腕まくりをして見せてくれた。
近くにいた学生がそのたくさんの青あざを説明してくれた。
「間に合って良かったです。先生に剣を見せたいと思っていたから。」
彼女は微笑んだ。
素敵な笑顔だった。
この学生と出会わなかったら本物のフェンシングの剣を見ることはきっと一生なかっ
ただろう。
僕が見るというのは持つということ、握るということ、触るということ。
彼女はしっかりと見せてくれた。
うれしい思い出となった。
(2022年10月24日)