バス停に向かう僕に彼女はさりげなく声をかけてくださった。
僕は彼女の肘を持たせてもらって歩いた。
バス停に着いてから彼女は僕の名前を呼ぼうとされた。
「まつ・・・。」
「はい、松永と申します。どこかでお会いしましたか?」
僕が書いていた新聞のコラムを愛読してくださっていたとのことだった。
もう10年以上前の話だ。
そんなことを憶えていてくださったのを素直に光栄だと感じた。
感謝を伝えた僕に彼女は近日中に行く花見の予定を話してくださった。
一緒に行く友人は聴覚障害の方とのことだった。
友達になってから手話を憶えたので大変とおっしゃった。
「憶える数より忘れる数が多くてね。」
それでも彼女の声からは喜びが伝わってきた。
僕は音のない桜の風景を想像した。
桜の下で二人のご婦人が笑っている。
とびきりの笑顔で笑っている。
想像しただけで僕もうれしくなった。
(2022年3月28日)