散歩コースにある団地の前を通ると聞こえてくることがある。
いつも聞こえるわけでもない。
風の向きと強さが関係しているのだと思う。
間違いなくガラスの風鈴の音色だ。
子供の頃に聞いた記憶の中の音色だが自信はある。
ガラスに描かれた赤い金魚と緑の水草の絵まで憶えている。
夏には気にならない音色が季節外れの空気の中で心に染みてくるのは何故だろう。
はかない音色を愛おしくも思う。
見上げた先には薄青色の空が佇んでいる。
赤い金魚が静かに泳ぐ。
その先には海が見える。
見えなくなって25年が過ぎた。
もういい加減に決別すればいいのにできない僕がいる。
「もし見えるようになったら何を見たいですか?」
時々子供たちが尋ねてくれる。
僕に見せてあげたいという心理から生まれる質問だ。
やさしい質問に感謝しながら笑顔で答える。
必ず笑顔で答える。
もし涙ぐんでしまえば、きっと泊まらなくなるのを分かっている。
泣き崩れてしまいそうな気がする。
それはカッコ悪い。
だから笑顔で答える。
笑顔で空を眺める。
空を泳ぐ赤い金魚が遠くの海に向かう。
見とれるほど美しい景色だ。
両手を少し広げて深呼吸する。
この前までよりほんの少しだけ暖かくなった空気を肺臓が感じる。
春が始まった。
(2022年2月4日)