僕は大学は社会福祉学科だった。
何の仕事をしようか、何の仕事が僕にできるのか、生き方探しの旅だったような気が
する。
特別な技能もなかったし優秀な学生デモなかった。
それでも、何か社会に貢献できることをしたいという思いだけはあった。
3回生の頃、大阪の児童福祉施設での実習があった。
一か月間、施設の寮に泊まり込んでの実習だった。
僕はその仕事にのめり込んでいった。
実習が終わって、京都の施設を大学から紹介してもらった。
ボランティアという名目の雑用係みたいなものだった。
雑用係の仕事は少しずつ増えてアルバイト勤務となった。
僕は21歳から39歳までのほとんどの時間をその施設で過ごすことになった。
雑用係を続けたのだ。
頑張れば僕にもできることだった。
収入は乏しかったがやりがいだけはあった。
視覚障害になって辛かったことがあるとすれば、
その仕事を辞めなければならなくなったということだったと思う。
退職の後、思い出につながるものすべてを処分した。
見えていた自分自身との決別だったのかもしれない。
それから25年の歳月が流れた。
今でも時々、当時の子供達と会うことがある。
当時の僕はそれぞれの人生の重たさを理解できていなかったのだとつくづく思う。
若さ故の過ちが多過ぎたような気がする。
懺悔の思いが大きい。
久しぶりに当時少女だったおばちゃんと歩いた。
彼女の肘を借りて相合傘で歩いた。
服役中の内縁の夫についての相談だった。
僕は彼女が幸せであることだけを願いながら話を聞いた。
「お兄さん、変わらへんなぁ。」
彼女は笑った。
どんな意味があるのかは分からない。
僕もいろいろな人と相合傘で歩いてきた。
助け助けられて生きてきた。
生き方探しの旅はまだまだ続くということなのだろう。
見えても見えなくても僕は僕にしかなれないのだ。
(2021年8月15日)