見える頃によく歩いていた道をたまたま歩いた。
歩道橋の下り坂にさしかかった。
ふと、思いでの中の桜に気づいた。
見える頃はそこで毎年見ていた。
当たり前の春の風物詩だった。
その道で桜を見ていたのは20歳過ぎの頃から40歳手前までの20年くらいだ。
そして見えなくなって25年くらいの時が流れた。
もう遥かな昔のことだ。
それなのに満開の桜が蘇る。
真っ青な空の下の薄桃色の桜、本当に美しい。
僕にとっての見るは触るということに変わった。
それは淋しい変化でもなく悲しい変化でもなく、豊かな変化なのだと思う。
指先で感じる桜の花弁を愛おしいと思う。
愛おしいと想える自分自身も愛おしい。
桜を見たいと思うのは春を感じたいという願いなのだろう。
自然に沸き起こる思いは変わらないということだ。
今年はどこでどんな桜に出会うのだろう。
楽しみだ。
(2021年3月16日)