「コオロギ、鳴き始めたね。」
彼女はうれしそうに僕にささやいた。
「僕も数日前に気づいたよ。」
僕は相槌を打ちながら答えた。
ほとんど同じ時期に僕達は光を失った。
ということは、それぞれに20年の時間が流れたということになる。
彼女が僕と同じ病気での失明だということと、
僕よりお姉さんということ、趣味が社交ダンスということくらいしか僕は知らない。
彼女は最初は白杖を拒否していた。
近所では折りたたんでリュックに隠した。
わずかな光を頼りに恐る恐る歩いた。
見えるふりをして歩いた。
やがてそのわずかな光も確認できなくなっていった。
白杖がなければ足を前に踏み出せなくなった。
彼女は仕方なく白杖を使い始めた。
その頃のことを彼女は懐かしそうに話した。
その頃の僕達は歩くこと自体に必死だったような気がする。
白杖で前を探って歩くという行動が恐怖心の中にあった。
余裕もゆとりもなかった。
そしてその姿を他人に見られているような気がした。
悲しい姿だと勝手に想像していた。
今でもそんなに余裕があるわけでもないし、恐怖心が消えたわけでもない。
少しずつ姿も受け入れていった。
白杖があってもなくても変わらない自分に気づいた。
白杖姿の自分も好きになっていった。
立ち止ることを憶えただけなのかもしれない。
立ち止れば深呼吸ができる。
深呼吸をすれば風に気づく。
音にも匂いにも気づく。
そしてちょっと幸せになれる。
あの頃、淋しそうにしか聞こえなかったコオロギの鳴き声、
今では歌声に聞こえる時もある。
「見えなくなって豊かになった部分もあるよね。不思議だね。」
僕がつぶやいた。
「確かにあるよね。」
今度は彼女が相槌を打った。
(2019年8月20日)