家の裏の線路を走っていく黒くて長い貨物列車。
小学校へ向かう上り坂のその上の真っ青な空。
中学校の手前の田んぼの青々とした稲穂。
防波堤の先にある赤茶けた灯台。
砂浜で見つけた薄桃色の桜貝。
楕円形のボールを追いかけた黄色と黒の横縞のユニフォーム。
憧れた都会で初めて出会った巨大な看板。
北国で知った一面の雪の真っ白な世界。
旅先で見た世界の街並み。
僕だけの数えきれないくらいの昭和の風景がある。
確かに少し色あせてきたけれど消えることはないだろう。
平成が始まった時、僕は施設の子供達とグラウンドにいたような気がする。
挨拶をするためにまたいだ白線のまぶしさを憶えている。
それから10年近くは見えていた。
今暮らしている京都の風景も記憶にある。
休日に訪れた寺社仏閣、毎年通った美術館。
あちこち旅した時の自然の色彩も残っている。
神戸の震災の後の倒壊しかかったビルの姿も忘れられない。
そして少しずつ風景は遠ざかっていった。
令和という新しい時代を風景のない状態で迎えた。
不思議な感覚だ。
きっともう風景と出会うことはないのだろう。
ないものねだりが悲しみにつながることは分かっている。
だからあきらめたふりをする。
見えなくてもこの世界で生きていきたい。
僕は僕の人生を大切にして生きていきたい。
心のアルバムに何かを残せればと願う。
(2019年5月1日)